イギリスの劇作家、政治家。俳優を父に、作家を母にダブリンで生まれる。1771年一家がイギリス南西部の温泉地バスに住んだとき、その町の名花と称された歌姫エリザベス・リンリーElizabeth Linley(1754-1792)と恋をしてフランスに駆け落ちし、そのため二度も決闘をしたが、結局許され結婚した。処女作『恋敵(こいがたき)』(1775)にその経験が織り込まれており、巧みな筋立てと明確な性格描写で好評を博した。とくに登場人物のなかでいつもむずかしいことばを使っては言い間違いをするマラプロップ夫人などは普通名詞(言い間違い(マラプロピズム))に転用されるほど有名になった。1776年彼は当時の二大劇場の一つドルーリー・レーンの経営陣の一員となり、『悪口学校』(1777)や、流行の感傷喜劇を風刺した『批評家』(1779)などで当たりをとった。彼の特徴は、巧妙な台詞(せりふ)と舞台効果を心得た作劇術によって感傷喜劇的な要素を薄め、かわりに一時代前の風習喜劇の哄笑(こうしょう)を復活させた点にある。1780年下院議員になり、その雄弁によって将来を期待されたが、劇場の修理や焼失で経済的に行き詰まり、1812年の選挙では落選して不幸な晩年を送った。
[中野里皓史]
イギリスの劇作家,政治家。アイルランドのダブリン生れ。滑稽な恋愛騒動を描いた喜劇《恋敵》(1775)によって若くして劇壇に登場。社交界の偽善を批判した喜劇《悪口学校》(1777)で好評を得た。これらはイギリス風習喜劇の伝統を代表する傑作である。他の作品には,喜歌劇《付添婦人》(1775),J.バンブラーの風習喜劇を改作した《スカーバラへの旅》(1777),荒唐無稽な英雄悲劇を風刺したバーレスク劇《批評家》(1779)などがあるが,青年期以後のシェリダンは事実上劇作をやめてしまう。1776年,D.ギャリックの後を継いでドルアリー・レーン劇場の支配人となり,経済的困難にもかかわらず運営に努力,94年には劇場を改築したが,1809年,劇場が火災にあったときに任を退いた。一方,1780年,下院議員となり,1812年までその職にあって,雄弁で知られた。晩年は不遇。今日ではもっぱら機知に富む喜劇の作者として記憶されている。
執筆者:喜志 哲雄
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