改訂新版 世界大百科事典 「シュンガ朝」の意味・わかりやすい解説
シュンガ朝 (シュンガちょう)
Śuṅga
古代北インドの王朝(前180-前68ころ)。プラーナ文献によると,将軍プシュヤミトラPuṣyamitraが,主君であるマウリヤ朝最後の王ブリハドラタを殺して王朝を創始したという。都は前王朝と同じくパータリプトラに置かれたが,版図はマウリヤ帝国の中心部にあたるガンガー(ガンジス)川中流域から中央インドに及ぶ地にほぼ限られた。プシュヤミトラはバラモンの出身といわれ,また即位後にバラモン教の大犠牲祭アシュバメーダ(馬祀祭)を挙行したことで知られる。仏教の伝説では,この王を仏教の大迫害者とする。シュンガ朝のもとでバラモン教が復興したことは確かであるが,この時代にサーンチーやバールフットの仏塔が修造されているところをみると,仏教迫害は,たとえ行われたとしても一時的なものであったらしい。この王朝はパンジャーブに本拠を置くインド・ギリシア人勢力との戦いなどで疲弊し,10王112年間つづいたあと,大臣のバスデーバVāsudeva(カーンバ朝の創始者)に滅ぼされた。
執筆者:山崎 元一
美術
シュンガ朝とそれに続くカーンバ朝の美術にはあるまとまりが見られ,一括して扱われるのが一般的である。シュンガ朝の始祖プシュヤミトラはバラモン教の熱心な支持者であったといわれるように,シュンガ王家の人々は必ずしも仏教に好意的ではなかったらしいが,遺品に見る限りほとんどが仏教美術で占められる。この時代の仏教美術は主としてストゥーパの荘厳のために展開し,はじめて仏教的な内容を表現する作品が生まれた。すなわちストゥーパの覆鉢はレンガ積みから切石積みに,塔門や欄楯(らんじゆん)は木造から石造にかわり,仏教説話を主題とする浮彫が現れた。遺品はガンガー川流域から東マールワー地方にかけて分布し,サーンチー,バールフット,ボードガヤーのそれが重要である。
サーンチーでは第2塔の欄楯のみがこの時代に属し,その欄楯柱を飾る浮彫は浅く平面的で素朴な表現になり,人物や動植物の装飾的な図様を主体とし聖地供養図や守護神像も含まれるが,説話図はまだ見られない。欄楯浮彫の最古の遺品と考えられ,前2世紀末期に位置づけることができる。次の発展段階にあるのがバールフットの塔門と欄楯の浮彫である。特定の位置の欄楯柱にはヤクシャやヤクシーなどの守護神像を高浮彫し,塔門の横木,欄楯柱,貫石,笠石の表裏に説話図,聖地供養図,動植物文様その他を浮彫する。仏伝,本生譚,アバダーナ(譬喩説話),あるいは寓話に取材する説話図は最古の遺品であり,その多くが主題を示す刻文を伴っているのも他にほとんど例がない。また仏伝図では主人公である釈迦の姿を表現するのを避け,菩提樹,宝座その他によって釈迦の存在を示唆するという特異な方式が1世紀末期か2世紀初期にガンダーラとマトゥラーとで仏像が造られるようになるまで一つの例外もなく守られた。表現技法は未熟であるが,形象をかたちづくる線は鋭く明確であり,きびきびとして爽やかな印象を与える(釈迦)。
ボードガヤーの大精舎を囲んでいた欄楯の浮彫は,簡素な図柄であるものの表現が柔らかく,より自然らしくなっている。このほかガンガー平原のマトゥラーやサールナートなど,サーンチーにほど近いベースナガルからも少数ながら重要な作品が出土している。特にベースナガルに今も立つガルダ柱は前2世紀末期にビシュヌ信者であったギリシア人ヘリオドロスが造立したものである。さらにバージャーなどの西部インドの仏教石窟の最初期のものは,この王朝の領域外ではあるがほぼ同時代である。いずれにせよこの時代の作品は,地域によってかなり作風を異にするものの,共通して素朴な明るさがあり親しみやすい。
執筆者:肥塚 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報