改訂新版 世界大百科事典 「ジャックリーの乱」の意味・わかりやすい解説
ジャックリーの乱 (ジャックリーのらん)
La Jacquerie
1358年,北フランスのイル・ド・フランス地方に発生した農民一揆。ジャックjacquesとは貴族が農民を指した言葉で,中世農民が短く貧しい胴衣jaquesを着ていたことに由来する。百年戦争前期の決戦であるポアティエの戦(1356)のころから,当地方には戦闘を交えるフランスとイギリスの騎士たちに加えて大野盗団が横行し略奪行為をおこなった。しかも経済不況で穀物価格は低迷し,穀作地帯である北フランス農村に深刻な打撃をあたえた。そのうえ,領主たちはポアティエ敗戦時の身代金を領民に負担させた。ジャックリーはこのような時代状況下に発生した一揆であった。58年5月下旬,ボーベージ地区サン・ルー・デスラン村で,略奪をおこなった戦士9人を住民が殺害するという事件が発生した。それが起爆剤となって,一揆の火は一挙にイル・ド・フランスの平原から北はピカルディーの一部,東はシャンパーニュの一部にまで及んだ。農民は領主館をおそい領主の家族を殺傷し保管文書を焼却した。一揆は自然発生的であったが,ギヨーム・カルルGuillaume Carle(Cale,Charles)という退役戦士に指導されるようになり,都市との提携,とくにパリで反乱を起こしたエティエンヌ・マルセルとの結合をはかった。しかし,フランスとイギリスの貴族は同盟しナバール王シャルル・ル・モーベーCharles Ⅱ, le Mauvais(悪王)の配下に結集し,6月に入って,約1万の反乱農民はモーおよびクレルモンで殲滅(せんめつ)され(6月9日~10日),指導者カルルは斬首された。
本来,中世の領主と農民の関係は支配と保護とを表裏一体とする関係である。戦争や災害の非常時には,農民はその家畜と収穫物をもって領主館に避難した。しかし,百年戦争に入る14世紀には,領主の保護能力は失われ騎士倫理も変質する一方,服従と負担だけが農民に強要された。これに対応して,村落共同体を形成する農民は共同体の結束をかためその相互扶助機能にたより,非常事態に自衛をもって対処する。農民一揆は,このような支配と保護の乖離(かいり)によって領主の保護を失い野盗団と領主の要求におびやかされた農民が,自己の共同体慣行と文化,日常的生存を守ろうとする自衛の蜂起であった。したがって,反乱は局地的であり非組織的かつ守旧的であるが,そこには,領主の保護能力の喪失に表明される領主権力の衰退と,自立化する農村共同体の姿をみることができる。もともと,北フランスは共同体慣行のつよい三圃制穀作地域であり集村地帯である。しかも領主所領は細分され,その領民保護能力がいっそう失われていた地方である。ジャックリーが北フランスのイル・ド・フランス一帯に展開されたのはこのような局地的状況によっていたのである。
→農民反乱
執筆者:千葉 治男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報