フランスの数学者。リヨンの生まれ。母方の伯父に画家ピュビス・ド・シャバンヌがいる。1855年理工科大学校(エコール・ポリテクニク)に入学。卒業後技師として働き、1867年パリにきて研究生活に入り、1876年に母校教授となり、1883年コレージュ・ド・フランスの教授。1881年にはパリの科学アカデミー会員に選ばれた。
業績は多岐にわたるが、とくに五次の代数方程式の代数的解法において、アーベルが提示した二つの問題、つまり、(1)次数が与えられた方程式のなかで代数的に解けるものを求める、(2)与えられた方程式が代数的に解けるかどうかを決定する、を取り上げ、アーベルが完成しえなかった点を修正し、完全に解決した。このことは著書『置換論』(1870)に出ている。また、『解析学講義』(1893)を著し、このなかで、「連続な曲面は平面を二つの部分に分ける」と述べ証明している(ジョルダンの曲線定理)。この証明は「長さをもつ」ことを前提としていたが、これが当時の数学者に刺激を与え、「長さをもつ」ことを前提としない証明が企てられた。二次形式に関する研究にも大きな業績を残している。
[小堀 憲]
アメリカの生物学者、教育者。ニューヨーク州ゲインズビルの生まれ。コーネル大学、インディアナ医科大学に学び、インディアナ大学動物学教授、同学長を経て、スタンフォード大学初代総長(1891~1913)を務めた。日本を訪れること前後3回、太平洋周辺水域の魚類の研究に従い、日本の魚類学の発展に指導的影響を与えた。親日家で、アユの味を高く評価したことも有名。野球を好み、コーネル大学在学中は選手としてプレーし、3打席連続でホームランを打ったことが終生の自慢話であった。また、世界平和財団の理事長として、母国の第一次世界大戦への参加に強く反対するなど平和運動にも挺身(ていしん)した。魚学、平和論など著作は50余点に及ぶ。
[日比谷京]
フランスの数学者。裕福な家庭に育ち,彼の父と同じくエコール・ポリテクニクを卒業して技師となり,1885年まで名義上は技師であった。その間十分な余暇を数学の研究に当て,この期間中に彼の120編の論文の大部分を書いた。1873年からは1912年の退職まで母校とコレージュ・ド・フランスの両方で数学を講義した。現代数学の初等的分野に,ジョルダン曲線,ジョルダン測度,ジョルダンの標準型,ジョルダン代数など,彼の名を冠して呼ばれる概念や定理が多いが,これは彼が現代数学の形成期に大きく寄与したことを物語っている。例えば,彼の著書《置換論》(1870)はガロア理論の普及と有限群論の体系化に対し,また,著書《解析教程》(第3版,1909-15)は解析学の基礎概念の明確化に対し大きく貢献したのである。
執筆者:中岡 稔
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…トポロジーということばも,リスティングJ.B.Listing(1808‐82)が1847年に書いた小冊子の表題として初めて文献に現れた。曲面はこれらの人たちに続いて,C.ジョルダン,シュレーフリL.Schläfli(1814‐95),ディックW.F.A.von Dyck(1856‐1934)らによっても研究され,19世紀末葉には閉曲面の同相による分類が完成した。曲線については,〈自分自身と交わらない閉曲線が平面上にあるとき,それは平面を内と外の二つの領域に分かつ〉というジョルダンの定理が証明され(1893),また正方形の内部をうめつくす連続曲線がG.ペアノによって発見されて(1890),曲線や次元の定義が問題となった。…
※「ジョルダン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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