翻訳|Dodge line
1949年2月GHQ経済顧問として公使の資格で来日したアメリカのデトロイト銀行頭取ドッジJoseph Morre Dodge(1890-1964)が指導して行った厳しい財政金融引締政策。ドッジ・プランともいう。第2次大戦終了後継続していたインフレーションはこれによって急速に収束させられたのであり,日本の近現代史上,松方財政,井上財政とならぶ代表的なデフレーション政策である。もっともドッジ・ラインはドッジ個人の政策とはいえない。というのは,ドッジ来日前の1948年12月,アメリカの統合参謀本部,国家顧問会議,国家安全保障会議により,日本について〈経済安定九原則〉が決定されているからである。その九原則は,(1)総予算の均衡,(2)徴税強化,(3)信用膨張制限,(4)賃銀安定,(5)物価統制強化,(6)貿易統制改善と外為統制強化,(7)輸出増加のため資材割当改善,(8)重要国産品増産,(9)食料集荷改善を定めており,これらは単一為替レート設定の早期実現の不可欠の前提だとされている。この時点でアメリカがこうした政策を打ち出したのは,日本のインフレーションを鎮静させて経済復興を軌道にのせ,激化が予想される極東の冷戦に備えて日本をアメリカの強力な友好国たらしめようとしたからであろう。その政策の具体化がドッジに任されたのである。
ドッジ自身は古典的な自由主義観,勤倹貯蓄志向,安価な政府論の所有者で,西ドイツの1945-46年の通貨安定政策にも携わっており,当時の日本のインフレ政策やそれを指導していたGHQに強い批判をもっていた。ドッジによれば一見生産も輸出も増加しているかにみえる当時の日本経済は,実はアメリカの援助と価格差補給金に支えられている〈竹馬経済〉にすぎず,この竹馬をはずさなければ日本経済の自立と安定はなしえないのであった。その手段として彼は次の四つの政策を中心として,厳しい引締政策を遂行した。(1)1949年度超均衡予算の編成,(2)復興金融金庫の新規貸出停止,(3)米国対日援助見返資金特別会計の設置,(4)1ドル=360円レートの設定。すなわち,(1)は,単に一般会計にとどまらず,特別会計や政府関係機関をも含めた総合予算の均衡であり,しかも純計は黒字を計上して復金債等の債務償還に充当するところの超均衡予算となった。また(2)は,当時のインフレの主因であった復金債の日銀引受の根が断たれることとなったのであり,両者あわせた通貨収縮により,インフレーションが鎮静させられることとなった。さらに(3)と(4)とについていえば,単一為替レート設定は,輸出商品を国際競争に直接さらし,アメリカの援助が従来見えざる輸出入補給金として利用されてきたのを,見返資金特別会計を設けることで会計上の表面に出すとともに,予算上の補給金の廃止と重要物資の統制撤廃を要求したのである。ちなみに1ドル=360円レートはおおかたの予想330円よりかなり円安であり,その後の時期についてはいうまでもないが,当時にあっても輸出促進に好都合に作用したものと思われる。
ドッジ・ラインがあまりにも厳しかったため,日本側ではGHQ経済科学局と連係して,財政による資金引上げを金融面で緩和すべく日銀の買いオペレーションを実施し,デフレーションをディスインフレーション程度にとどめるべく努力した。さらに50年6月に勃発した朝鮮戦争により,ドッジ・ラインは事実上終りをつげた。
執筆者:林 健久
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1949年(昭和24)2月、アメリカ政府は、インフレに悩む日本経済の安定と自立を図るため、当時デトロイト銀行頭取ドッジJoseph Morrell Dodge(1890―1964)をトルーマン大統領の特命公使として日本に派遣した。彼の指導による一連の経済安定政策をドッジ・ラインないしドッジ・プランという。
彼は日本経済を、政府の補助金とくにインフレ下の生活物資への価格差補給金と、アメリカの援助との二つの竹馬にのった竹馬経済と見立て、この竹馬を切るのが自分の仕事であるとした。それは大きくみて三つあった。第一は、総予算(一般会計だけでなく特別会計も含めた)の均衡である。このため、まずシャウプ勧告による直接税中心の税制が確立された。第二は、あらゆる補助金を特別会計分も含めて表面化し、削減することであった。価格差補給金は1949年度予算で大幅に整理削減され、51年度までに全廃された。こうして49年度は超均衡(黒字)予算となる。第三は、インフレの主原因であった日本銀行引受けの復興金融金庫債の発行を停止し、49年度以降債権の回収に専念させることによって、通貨の膨張を抑えた。また、アメリカ援助物資の払下げ代金を新設の「見返り資金特別会計」に集中して、それを復金債の償還原資として運用する措置がとられた。
この結果、闇(やみ)物価は1949年初頭をピークに下落し、物価は急速に安定したが、さらにこれを国際物価にさや寄せさせるために、やがて1ドル=360円の単一為替(かわせ)レートが設定された。この為替レートは68年まで続いた。こうしてドッジ・ラインはインフレ収束と黒字財政をもたらしたが、反面、49~50年にかけて深刻な不況=安定恐慌が発生し、国鉄の公社移行に伴う10万人首切りに関連したかのような下山(しもやま)事件・松川事件、民間企業の大量人員整理などによって民情は騒然となり、社会不安が起こった。この恐慌の深刻化のさなか50年6月に朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)し、日本経済は新たな局面を迎えることになる。
[一杉哲也]
『中村隆英著『昭和経済史』(1986・岩波書店)』
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GHQ財政顧問として来日したデトロイト銀行頭取J.ドッジが策定・実行した日本経済安定化計画。1948年(昭和23)12月アメリカ政府は経済安定九原則を日本政府に提示,翌年2月ドッジを特命公使として派遣し具体化を図った。(1)インフレ収束のための総予算の真の均衡の実現,(2)1ドル=360円の単一為替レートの設定,(3)対日見返援助資金の設定,(4)復興金融金庫の新規貸出停止などからなり,徹底した緊縮予算と単一為替レート設定によって,日本経済の自立化の基礎を確立し世界経済への復帰を図るものであった。この結果,インフレは急速に収まり,ドッジの狙いは成功したが,49年にはデフレ不況が深刻化した。
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…この結果,選挙後成立した第3次吉田内閣は,左翼や労働運動に対する弾圧を強化し,団体等規制令(1949年4月)や人事院規則(1949年9月)を制定するなどの反動路線を強行した。一方経済政策では,48年12月にGHQの示した経済安定九原則をドッジ公使の勧告をいれて強硬にすすめ,徹底的な引締め合理化政策をとった(ドッジ・ライン)。また税制ではシャウプ使節団の勧告にしたがって,所得税を中心とする直接税中心の増税,資本蓄積のための減税を行った(シャウプ勧告)。…
※「ドッジライン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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