吉田茂内閣(読み)よしだしげるないかく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉田茂内閣」の意味・わかりやすい解説

吉田茂内閣
よしだしげるないかく

吉田茂を首班とし、合計7年間続いた保守党政権。

[荒 敬]

第一次

(1946.5.22~1947.5.24 昭和21~22)
1946年4月総選挙で自由党は第一党となったが、総裁鳩山一郎(はとやまいちろう)が組閣直前に追放され吉田が首班となった。GHQ(連合国最高司令部)の食糧輸入と放出、暴民デモ禁止声明によって危機を乗り切り、GHQの指令に基づき戦時補償の打ち切り、憲法および付属法令の改正、第二次農地改革を行った。インフレの高進による労働運動激化のなかで、1947年1月GHQは二・一ストを禁止し、4月総選挙の実施を指示。選挙により自由党は第二党となったため総辞職し、片山哲(かたやまてつ)内閣に後を譲った。

[荒 敬]

第二次

(1948.10.15~1949.2.16 昭和23~24)
芦田均(あしだひとし)内閣が昭電疑獄で総辞職したあと、民主自由党総裁吉田が組閣。早期解散に向けて国家公務員法を改正してスト権・団体交渉権を剥奪(はくだつ)し、12月「なれあい解散」。1949年1月総選挙で民自党は264議席を確保した。

[荒 敬]

第三次

(1949.2.16~1952.10.30 昭和24~27)
民自党は絶対多数の議席を確保したが、強力内閣を企図して民主党犬養(いぬかい)派と連立。ドッジ・ラインによる均衡予算の実施、団体等規制令、労働法規改正などで治安対策を強化、下山、三鷹(みたか)、松川事件を利用して共産党と労働運動を弾圧、人員整理を進めた。朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)を機にGHQの指示でレッド・パージや警察予備隊の創設を行い、1951年9月対日講和条約日米安全保障条約を締結した。また講和に向けて破壊活動防止法の制定などを推進した。だが追放解除後、政界復帰した鳩山ら党有力者の反吉田勢力が台頭すると、吉田ワンマン体制は動揺をきたし1952年8月「抜き打ち解散」した。

[荒 敬]

第四次

(1952.10.30~1953.5.21 昭和27~28)
吉田派と鳩山派が首班問題でも激突したが、結局吉田が首班となった。鳩山派は民主化同盟を結成し、1953年3月吉田の議会での「バカヤロー」発言を機に野党の不信任案を成立させた。吉田は解散をもって対抗した。

[荒 敬]

第五次

(1953.5.21~1954.12.10 昭和28~29)
自由党少数単独内閣。選挙の結果は保守党が全体に後退、自由党も過半数に達しなかった。改進党に助けられて、軍人恩給法、独占禁止法改正、スト規制法、教育二法、警察法改正、MSA協定を実現した。だが憲法改正再軍備をめぐる保革対立が顕在化し、党内外の反吉田勢力の動きも活発化するなかで党幹部を巻き込んだ造船疑獄が発覚、1954年12月総辞職し、後を鳩山一郎に譲った。

[荒 敬]

『吉田茂刊行会監修『今ぞ甦る歴代吉田内閣』(1993・国会審議調査会)』『木原健太郎著『信念の人 吉田ワンマン宰相』(2004・霞出版社)』『ジョン・ダワー著、大窪愿二訳『吉田茂とその時代』上下(中公文庫)』


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百科事典マイペディア 「吉田茂内閣」の意味・わかりやすい解説

吉田茂内閣【よしだしげるないかく】

(1)第1次。1946年5月22日〜1947年5月23日。日本自由党日本進歩党を基礎とし,日本国憲法を公布,第2次農地改革を実施。二・一スト占領軍の圧力で切りぬけ,最初の国会選挙に与党が敗れて総辞職。(2)第2次。1948年10月19日〜1949年2月5日。芦田均内閣のあとを受け民主自由党を基礎とし総選挙を実施。(3)第3次。1949年2月16日〜1952年10月29日。民自党絶対多数の上に立ち米国占領政策を忠実に履行,経済四原則,レッドパージ朝鮮戦争協力,サンフランシスコ講和条約を締結。(4)第4次。1952年10月30日〜1953年5月20日。党内の反対派が強化されて野党と連合し,不信任案が成立して総辞職。(5)第5次。1953年5月21日〜1954年12月9日。日米協力体制を整えるために強引な政策を行ったが,民主勢力の反対が強まり,党内反対派の強化,造船疑獄などから民心が離れ,総辞職。→吉田茂
→関連項目阿波丸事件池田勇人石橋湛山斎藤隆夫佐藤栄作幣原喜重郎日本協同党連立政権

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「吉田茂内閣」の解説

吉田茂内閣
よしだしげるないかく

日本自由党・民主自由党・自由党の吉田茂を首班とする内閣。途中一時期の中断をはさみ,前後7年余に及んだ。

1第1次(1946.5.22~47.5.24)。GHQの覚書によって日本自由党総裁鳩山一郎が公職追放され,吉田が日本進歩党と連立し組閣。新憲法の公布をはじめ戦後民主化の基本的制度を整備するとともに,食糧不足や労働争議の多発など不安な社会情勢のなかで,経済再建のための傾斜生産方式を採用した。1947年(昭和22)4月の新憲法下初の総選挙で社会党に第1党の席を奪われ,総辞職。

2第2次(1948.10.15~49.2.16)。芦田内閣の崩壊後,民主自由党を基盤として成立。アメリカが経済復興を重視し始めたので,インフレ克服のための引締め政策を実施した。国会の内閣不信任案可決と同時に解散。総選挙の結果,民主自由党は単独過半数をえた。

3第3次(1949.2.16~52.10.30)。国会の安定多数を背景とする第3次内閣が吉田政治の頂点で,ドッジ・ラインの超均衡予算による経済再建と講和条約の締結を主要課題とした。講和条約の発効後に衆議院を解散,再び選挙で勝利した。

4第4次(1952.10.30~53.5.21)。独立後の安全保障政策への保守勢力内部と野党側の反発によって,しだいに苦境においこまれ,内閣不信任案も可決されて国会を解散した。

5第5次(1953.5.21~54.12.10)。過半数を割って少数与党内閣として成立。逆コースの進展,造船疑獄の発覚,保守勢力の内紛などにより,翌1954年(昭和29)12月総辞職し,吉田政治に終止符がうたれた。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「吉田茂内閣」の解説

吉田茂内閣
よしだしげるないかく

第二次世界大戦後,5次にわたる吉田茂を首班とする日本自由党・民主自由党の内閣
〔第1次〈1946.5〜47.5〉〕鳩山一郎日本自由党総裁が公職追放にあい,吉田内閣が成立。日本国憲法制定,第2次農地改革令を発布。二・一ゼネストはGHQの指令で回避したが,総選挙で敗れ総辞職した。〔第2次〈‘48.10〜49.2〉〕芦田均内閣が昭和電工疑獄で倒れたあと組閣。少数内閣であったが,'49年2月の総選挙で民主自由党は絶対多数を獲得。〔第3次〈‘49.2〜52.10〉〕'50年レッド‐パージ,警察予備隊創設,'51年サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約を締結した。〔第4・5次〈‘52.10〜54.12〉〕いわゆる「バカヤロー解散」後,第5次内閣を組閣。'54年3月MSA協定調印,自衛隊創設。6年間,親米政策を主とし労働運動を弾圧。造船疑獄の発覚により国民の支持を失い,党内も分裂して,鳩山内閣が成立した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の吉田茂内閣の言及

【対日占領政策】より

…46年1月4日には軍国主義者の公職追放が指令された。こうした一連の改革の仕上げが憲法改正であって,GHQ草案にもとづいて幣原内閣によって作成された憲法改正案が,46年6月吉田茂内閣によって議会に提出されて成立し,11月3日公布,翌47年5月3日施行されたのである。新憲法の制定にともない,刑法,民法をはじめ諸法律も改正もしくは新たに成立し,一連の民主改革が進められていった。…

※「吉田茂内閣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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