ナントの勅令(読み)ナントノチョクレイ(その他表記)Édit de Nantes

デジタル大辞泉 「ナントの勅令」の意味・読み・例文・類語

ナント‐の‐ちょくれい【ナントの勅令】

1598年、フランス国王アンリ4世ナントで発した勅令プロテスタント信仰自由と政治上の平等を認めたもので、ユグノー戦争を終結させたが、1685年、ルイ14世によって廃止。ナントの王令。

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精選版 日本国語大辞典 「ナントの勅令」の意味・読み・例文・類語

ナント の 勅令(ちょくれい)

  1. 一五九八年、フランス王アンリ四世の発した新旧両教徒和解のための勅令。新教徒が信仰の自由と政治上の平等を認められた。これによってユグノー戦争は一時回避されたが、宗教上の対立は残り、絶対主義体制強化のために宗教的統一を求めたルイ一四世によって一六八五年、廃棄された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ナントの勅令」の意味・わかりやすい解説

ナントの勅令
ナントのちょくれい
Édit de Nantes

ナントの王令とも呼ばれる。 1598年4月 13日フランス王アンリ4世がナントで公布した勅令。プロテスタント (ユグノー ) に対して条件付きながら信仰の自由を認め,ユグノー戦争を終結させる役割を果した。おもな条項として,ユグノーの礼拝式執行は既成事実化している場所では容認するが,パリ市内では禁止する。ユグノーに対し相続,大学入学,官吏就任などの権利を確認する。前年まで8年間にわたってユグノーが掌握してきた要塞は今後も安全地帯として保持することを許可する。カトリック,プロテスタント両教徒間の紛争を審理するために,カトリック 10名,ユグノー6名で構成される特別法廷をパリ高等法院内に,両教同数の特別法廷を3地方高等法院内に設置するなどのことを定めた。内容は信仰の自由からほど遠く,決定的にユグノーに不利であったが,カトリック勢力の不満ははなはだしく,高等法院が勅令の登録手続を拒否する態度に出たので,翌年2月アンリ4世はパリ高等法院に対し強硬措置をとらなければならなかった。ルーアン高等法院のごときは 1609年まで登録を遅らせていた。のち,宰相リシュリュー武力でユグノーの政治力を砕いて勅令中の安全地帯に関する条項を無効化し (アレー勅令,1629) ,ルイ 14世は全条項を廃止してユグノーの宗教的,市民的な自由を全面的に剥奪した (フォンテンブロー勅令,85) 。フランスのプロテスタントは一切の自由を奪われて多く国外に亡命した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ナントの勅令」の解説

ナントの勅令
ナントのちょくれい
Edit de Nantes

1598年,フランス王アンリ4世がユグノー戦争を終結させるために発した勅令
これによってユグノーに大幅な信仰の自由や,教育公職の権利を認めた。この点ではアウグスブルクの宗教和議よりも一歩進んだものである。しかし,これで宗教上の紛争が完全に終わったわけではなく,カトリック教徒の優越権も依然として残された。1685年ルイ14世がこれを廃止し,ユグノーの弾圧が再開された。ナントはロアール川河口の都市

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百科事典マイペディア 「ナントの勅令」の意味・わかりやすい解説

ナントの勅令【ナントのちょくれい】

ナントの王令

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世界大百科事典(旧版)内のナントの勅令の言及

【ナントの王令】より

…1598年4月13日,フランス国王アンリ4世がナントで発布した王令。〈ナントの勅令〉とも。アンリ4世は1589年登位の後もカトリック(旧教)勢力の根強い抵抗に直面したが,93年旧教に改宗してシャルトルで聖別式を行いパリに入城,以後旧教徒と新教徒の和解に努力を傾注した。…

※「ナントの勅令」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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