改訂新版 世界大百科事典 「ナントの王令」の意味・わかりやすい解説
ナントの王令 (ナントのおうれい)
Édit de Nantes
1598年4月13日,フランス国王アンリ4世がナントで発布した王令。〈ナントの勅令〉とも。アンリ4世は1589年登位の後もカトリック(旧教)勢力の根強い抵抗に直面したが,93年旧教に改宗してシャルトルで聖別式を行いパリに入城,以後旧教徒と新教徒の和解に努力を傾注した。ナントの王令はその結実であるが,宗教戦争の渦中にすでに萌芽の見られた〈寛容王令〉の集大成であり,この王令により,1562年以来30余年に及んだ宗教戦乱に一応の終止符が打たれた。王令の規定によれば,新教徒の臣下にも,その信仰のゆえに迫害されることなく生活する権利が認められ(6条),一定の制限下に公開の礼拝を行う権利(9条),差別なく学校教育を受け公職に就く権利(22,27条)が与えられた。また,裁判を公正に行うために,新教徒に関係ある訴訟を扱う〈合同法廷〉が設けられた(30条以下)。さらに秘密条項において,とくに南西フランスの新教徒の拠点では,〈安全保障地〉として武器を持つことを許した。この王令はヨーロッパでも早期の寛容王令として名高いが,信教の自由原則を全面的に実現したものではなく,政治的妥協の産物であり,新教徒に与えられた権利も旧教徒に比べ限定されていた。他方,新教徒に武装を許したことは,〈国家の中の国家〉をつくることともなり問題を残した。
17世紀に入ると,絶対王権の強化とともに,〈一人の国王,一つの法,一つの信仰〉という絶対主義国家の理念が強く前面に押し出されるようになり,ナントの王令の寛容の規定は形骸化していったが,ついに1685年,ルイ14世のフォンテンブローの王令によって,ナントの王令は廃止され,新教徒の大量亡命を引き起こした。フランスに宗教的寛容の理念が定着するには,啓蒙の時代を待たねばならない。その意味で,ナントの王令の直接の法的効果は限定して考えねばならないが,宗教的寛容の理念を示した点で,啓蒙専制君主制に見られる国家と宗教の分離の先駆形態であり,また近代における信教の自由の歴史の里程標として重要な意味をもつ。
執筆者:二宮 素子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報