マッカーシー(Paul McCarthy)
まっかーしー
Paul McCarthy
(1945― )
アメリカの美術家。ユタ州ソルト・レーク・シティに生まれる。サンフランシスコ・アート・インスティテュートで絵画を学び、南カリフォルニア大学で映画を学ぶ。1960年代より顔で床などに絵を描く「フェイス・ペインティング」を制作。また、テレビ、映画のセット、食べ物、小道具を用いてセックスや排泄、暴力といったテーマで過激なパフォーマンスを行っている。さらにそれらの行為を録画した多くのビデオ作品やビデオ・インスタレーションを制作している。
マッカーシーは、その挑発的で嫌悪感を抱かせる表現のため90年代になるまでは居住地であるロサンゼルスで個展をする程度だった。しかし、その後シドニー・ビエンナーレ(2000)やボルドー現代美術館でのグループ展(2000、フランス)に参加、ロサンゼルス現代美術館(2000)、ニュー・ミュージアム(2001、ニューヨーク)などで個展を開催し、世界中から注目を集めるようになった。とくに、98年にゼツェッション美術館(ウィーン)で開催したマイク・ケリーとのコラボレーション展「ソド・アンド・ソディー・ソック」は、非常に評判になった。
マッカーシーは、同じくカリフォルニアで活動しているケリーと、この二人展を開催する以前から数多くのコラボレーションを行っている。97年(平成9)に小山登美夫ギャラリー(東京)の個展のために来日したときにも、『サッド・サック』(1997、P-House、東京)というタイトルで2人のパフォーマンスを行っている。このタイトルは、アメリカの兵士をキャラクターにしたコミックからつけたもの。マッカーシーは、着ぐるみやかぶりものを装着して、アルプスの少女ハイジやピノキオ、サンタクロースなど誰でも知っているキャラクターを主題にしてパフォーマンスを行うことが多い。それらは、観客をパフォーマンスに導入するための道具として使われるが、一方で彼の残虐ともいえるパフォーマンスに対する観客の脅威を増幅させるための効果的な装置になっている。そして、観客は最終的には眼前で繰り広げられるセックスや排泄行為、そして流血を模した混乱した状況に、滑稽さすら感じる超越的な意識にいたるのである。
またマッカーシーはハリウッド映画に興味をもっていて、それが映像作品をつくるモチベーションになっている。映画のセットのような、完全に虚構の世界で役者や人形を使ってパフォーマンスを行い、密室で撮影をする。さらに、そのパフォーマンスで使用した、泥まみれのぬいぐるみ、こげた人形、ケチャップの空き瓶など、残骸の散らばる撮影現場を作品として展示して、シチュエーション・アート(その場の状況も素材として用いて、寓話的な展開をみせる作品)として成立させる。こうした彼の一連の行為は、従来のアートに対する嫌悪の表現であると同時に、一般社会の固定概念を打ち壊そうとする自我の発露である。マッカーシーは、シチュエーション・アートという、視覚だけではなく時間感覚や潜在意識に訴える表現を行うことで、社会通念として観客が思い描くファンタジーや美意識を破壊し、予想外の展開を導くことが可能となると考えているのである。
[嘉藤笑子]
『「ポール・マッカーシー・インタビュー ファンタジーと狂気のはざまで」(『美術手帖』1994年7月号・美術出版社)』▽『「ポール・マッカーシー・インタビュー :聞き手・村上隆」(『美術手帖』1997年2月号・美術出版社)』▽『Dan CameronPaul MaCarthy(2000, Hatje Cantz Publishers, Ostfildern)』▽『Sod&Sodie Sock; Mike Kelley/Paul McCarthy(catalog, 1998, Secession, Wien)』
マッカーシー(Mary McCarthy)
まっかーしー
Mary McCarthy
(1912―1989)
アメリカの女流小説家。シアトル生まれ。バーサー・カレッジを優等で卒業。著名な批評家エドマンド・ウィルソンら数人と結婚・離婚を繰り返し、反スターリン主義的左翼文芸評論家として活躍。自伝的な小説『彼女の仲間たち』(1942)、『オアシス』(1949)、大学の内紛を描く『学園の森』(1952)、『満ち足りた生活』(1955)などを発表。ベストセラー『グループ』(1963)では名門女子大の卒業生たちの7年間に及ぶ生活を赤裸々に描き、ほかに『アメリカの鳥たち』(1971)、『食人種と宣教師』(1979)、自伝『あるカトリック教徒の少女時代の想(おも)い出』(1957)など。また反戦主義を貫く現地ルポ『ベトナム』(1967)、『ハノイ』(1968)、ウォーターゲート事件を衝(つ)く『国家の仮面』(1974)など批判精神も旺盛(おうせい)であった。
[杉浦銀策]
『小笠原豊樹訳『グループ』(1970・早川書房)』
マッカーシー(Joseph Raymond McCarthy)
まっかーしー
Joseph Raymond McCarthy
(1908―1957)
アメリカの政治家。ウィスコンシン州の農家に生まれる。苦学して1935年にミルウォーキーの大学を卒業。弁護士を経て州の巡回判事となる。第二次世界大戦時は海兵隊に入り戦功をあげる。1946年革新党のラフォレットを破り共和党の上院議員に当選。1950年2月、トルーマン政権の対中国政策の失敗に乗じ「赤狩り」に乗り出し、「マッカーシー旋風」を巻き起こす。1952年選挙で再選後は攻撃目標を拡大し、ルーズベルト、トルーマンを裏切り者と非難、さらにアイゼンハワー政権や軍部をも追及するに至った。だが、その非民主的調査とデマゴーグに対する不安と非難はしだいに強まり、1954年末上院はマッカーシー譴責(けんせき)決議案を採択、以後彼の政治的影響力は急速に失われた。
[牧野 裕]
マッカーシー(Eugene Joseph McCarthy)
まっかーしー
Eugene Joseph McCarthy
(1916―2005)
アメリカの政治家。ミネソタ州生まれ。同州セント・ジョンズ大学などで学んだのち教職につく。第二次世界大戦時は陸軍の軍事情報部に勤めるが、戦後は旧職に復帰。1948年ミネソタ州民主農民労働党から下院議員に当選、1958年上院に転ずる(民主党)。1968年ジョンソン大統領のベトナム政策を批判、戦争終結を唱えて民主党大統領候補に出馬、ニュー・ハンプシャー州予備選挙で予想以上の支持を得、「マッカーシー旋風」を起こし、ジョンソンの選挙戦出馬を断念させるに至った。同年夏の民主党党大会ではハンフリーに敗れたが、その後もベトナム戦争に反対し続け、党内リベラルとして知られた。
[牧野 裕]
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マッカーシー
McCarthy, Cormac
[生]1933.7.20. ロードアイランド,プロビデンス
[没]2023.6.13. ニューメキシコ,サンタフェ
コーマック・マッカーシー。アメリカ合衆国の小説家。本名 Charles McCarthy, Jr.,。南部ゴシックの伝統を受け継いだ,アメリカを代表する作家の一人。アメリカ南部,南西部の田舎町を舞台に独善的な人物が登場する作品には,暗い暴力描写や濃密かつ難解な文章が盛り込まれている。
テネシー大学ノックスビル校に通い,1953年から 1956年までアメリカ空軍に所属。1965年に『果樹園の守り手』The Orchard Keeper でデビューし,ウィリアム・フォークナー財団賞に選ばれた。『アウター・ダーク』Outer Dark (1968),『チャイルド・オブ・ゴッド』Child of God(1974。2013年映画化),『サトリー』Suttree(1979)を発表後,1985年に刊行された『ブラッド・メリディアン』Blood Meridianは,その暴力性や非道さゆえに批評家の賛否両論を巻き起こしたが,やがて代表作の一つとして認められた。1992年には『すべての美しい馬』All the Pretty Horses(2000年映画化)で全米批評家協会賞と全米図書賞を受賞した。同作品は,『越境』The Crossing(1994),『平原の町』Cities of the Plain(1998)とともに「国境三部作」Border Trilogyと呼ばれる。2005年に発表した『血と暴力の国』No Country for Old Menは,『ノーカントリー』として 2007年に映画化され,アカデミー賞作品賞などを受賞した。2006年の『ザ・ロード』The Road(2009年映画化)でピュリッツァー賞を受賞。2022年の『通り過ぎゆく者』The Passenger,『ステラ・マリス』Stella Marisが遺作となった。
マッカーシー
McCarthy, John
[生]1927.9.4. マサチューセッツ,ボストン
[没]2011.10.24. カリフォルニア,スタンフォード
アメリカ合衆国の数学者,コンピュータ科学者,認知科学者。人工知能 AI分野の先駆的研究者として知られた。1951年プリンストン大学で数学博士号を取得,その後,ダートマス・カレッジやマサチューセッツ工科大学,スタンフォード大学の教授を務めた。常識的知識の形式化を研究し,1955年に「人工知能」という用語を初めて用いた(→ダートマス会議)。1958年に開発したプログラム言語の LISPは当初,おもに人工知能や情報技術 ITの分野で利用された。1990年代にはあまり使われなかったが,21世紀に入ると,特にオープンソース利用者の間で注目されるようになった。また,人間の発話行為をベースにしたプログラム言語 Elephant2000の開発にもかかわった。1988年京都賞,1990年ナショナル・メダル・オブ・サイエンス,2003年ベンジャミン・フランクリン賞など数々の賞を受けた。
マッカーシー
McCarthy, Mary (Therese)
[生]1912.6.21. アメリカ,ワシントン,シアトル
[没]1989.10.25. アメリカ,ニューヨーク
アメリカの女流作家。バッサー女子大学卒業後,『ネーション』誌などの書評,『パーティザン・レビュー』誌の劇評を担当。4回の結婚のうちの2番目の夫で批評家の E.ウィルソンの影響下に小説『彼女の仲間たち』 The Company She Keeps (1942) を発表して認められた。離婚後バード大学その他でしばらく教鞭をとったのち,『オアシス』 The Oasis (49) ,『学園の森』 The Groves of Academe (52) ,『不死身』A Charmed Life (55) など知識人の弱点を鋭く観察した小説を発表して注目され,特に 1930年代を背景に名門大学を卒業した8人の女性の人生を描いた『グループ』 The Group (63) は大胆な性描写で話題を呼んだ。ほかに,反戦を唱えた『ベトナム』 (67) ,「国際状況」小説『アメリカの渡り鳥』 Birds of America (71) ,ウォーターゲート事件を追及した『国家の仮面』 The Mask of State: Watergate Portraits (74) など。
マッカーシー
McCarthy, Eugene J.
[生]1916.3.29. ミネソタ,ワトキンズ
[没]2005.12.10. ワシントンD.C.
アメリカ合衆国の政治家。フルネーム Eugene Joseph McCarthy。1935年セント・ジョーンズ大学を卒業し,高校で教えながらミネソタ大学で修士号を取得した。1940~43年セント・ジョーンズ大学の教壇に立つ。第2次世界大戦中,国防省で文民の情報技術者として働いたが,終戦後教育の世界に戻った。1948~58年ミネソタ州選出下院議員,1958~71年同上院議員を務めた。1968年の大統領選挙でベトナム戦争反対を掲げて民主党の大統領候補の指名獲得を目指したが,民主党全国大会でヒューバート・H.ハンフリー候補に敗れた。しかし選挙運動初期におけるマッカーシーの成功は,インドシナ半島へのアメリカの介入停止へと民主党指導部の政策を転換させるのに貢献した。詩人,コラムニストとしても著名。
マッカーシー
McCarthy, Joseph Raymond
[生]1908.11.14. ウィスコンシン,アップルトン近郊
[没]1957.5.2. メリーランド,ベセズダ
アメリカの政治家。ウィスコンシン州マーケット大学卒業後,弁護士,巡回判事となった。第2次世界大戦では海兵隊員として従軍。民主党員であったが 1946年ウィスコンシン州の連邦上院議員選挙に共和党の指名を獲得して当選,52年再選。この間,50年2月上院特別調査委員会の委員長として「赤狩り」に乗出し,反共旋風を巻起した。しかし,あまりにも極端なため反発を受け,54年 12月上院の非難決議により急速に影響力を失った。 (→マッカーシズム )
マッカーシー
McCarthy, Lillah
[生]1875.9.22. グロスターシャー,チェルトナム
[没]1960.4.15. ロンドン
イギリスの女優。 1895年デビュー,グリート劇団などでシェークスピア劇のヒロインを演じていたが,のちに J.ベドレン,H.グランビル=バーカーの活躍するロイヤル・コート劇場に出演,G.B.ショーの多くの作品に主演して,近代劇の名女優としての名声を築いた。一時グランビル=バーカーと結婚 (1906~18) 。著書に自伝『わが生涯』 My Life (30) ,『私と友人たち』 Myself and My Friends (33) がある。
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「マッカーシー」の意味・わかりやすい解説
マッカーシー
アメリカの政治家。ミネソタ州生れ。セント・ジョーンズ大学卒業。大学教授を経て,民主党の下院議員,上院議員を務める。1968年の大統領選挙で,民主党の候補者指名(予備選)に立候補した。当初は泡沫候補と見られていたが,ベトナム戦争終結を訴えたことで〈マッカーシー・ムーブメント〉と呼ばれる一大旋風を巻き起こし,当時のリンドン・ジョンソン大統領(民主党)の予備選からの撤退,すなわち引退への一因となった。候補者指名はこうした動きに触発されたロバート・ケネディの出馬があり,ケネディは一躍最有力候補に躍り出たが,同年6月5日に暗殺された。その結果,マッカーシーも予備選に残れず,最終的には予備選に立候補していなかった当時のヒューバート・ハンフリー副大統領が民主党の大統領候補となった。なお,この時の大統領選挙では共和党のリチャード・ニクソンが勝利し,大統領となっている。
マッカーシー
米国の作家。雑誌の編集に関わり,演劇評論家としても活躍していたが,1942年に実験的な構成の《彼女の仲間たち》で作家としてデビュー。《学園の森》(1952年)ではマッカーシイズムを批判したり,ベトナム三部作でベトナム戦争の停止を訴えたり,という政治的発言でも知られる。文芸評論家エドマンド・ウィルソンは2番目の夫(のち離婚)。ハンナ・アレントとの交友も名高い。晩年にはリリアン・ヘルマンと論争。代表作に《グループ》(1963年),《アメリカの渡り鳥》(1971年)など。
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マッカーシー
Eugene Joseph McCarthy
生没年:1916-2005
アメリカの政治家。1968年の大統領選挙で同じ民主党の現職ジョンソン大統領に対抗して,ベトナム戦争終結を唱えて名のりをあげ,60年代末のアメリカ政治に新風をまきおこした。ミネソタ州生れ。同州セント・ジョン・カレッジ卒業,ミネソタ州立大学修士。高校,カレッジで経済学などを教えたのち48年,ミネソタ民主農民労働党Democratic-Farmer-Labor Party of Minnesotaから連邦下院議員に当選。民主党に属し下院を5期10年,59年から上院を2期12年務めた。議員としては主として外交,経済関係で活躍したが,彼の名声はむしろ政治家兼学者,評論家,詩人として高く,68年の大統領選出馬も知識人,学生の間での人気を背景としたものであった。〈マッカーシー・ムーブメント〉と呼ばれた,古い型の政治に対する挑戦はロバート・ケネディの出馬をうながし,ジョンソン引退の一因ともなった。なお,党大会ではハンフリー上院議員が大統領候補に指名された。
執筆者:泉 昌一
マッカーシー
Mary McCarthy
生没年:1912-89
アメリカの評論家,作家。シアトルに生まれ,6歳のとき両親が病没。バッサー女子大学卒業。《ネーション》や《ニュー・リパブリック》などに寄稿する。1930年代初期のトロツキズム運動に関与。34年創刊の《パーティザン・レビュー》の編集に加わり,文芸評論家E.ウィルソンと2度目の結婚をしたがのち離婚し,4回の結婚を経験した。40年代から小説を発表しはじめる。ベストセラーとなった長編小説《グループ》(1963)では,1933年にバッサー女子大を卒業した8人の女性がニューディール政策下のアメリカ社会でたどった人生を通して,〈進歩(プログレス)という観念〉への幻滅が描かれ,大胆率直な性描写と知識階級への痛烈な風刺をこめた悲喜劇が展開される。
執筆者:志村 正雄
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