新バビロニアの王。在位,前604-前562年。正しくはナブー・クドゥリ・ウスルNabū-kudurri-uṣur。父王ナボポラッサルの晩年には皇太子としてバビロン軍を率い,たびたび遠征に出た。父王の後を継いで王となった後も,メディアとの同盟関係のおかげで東方の守りを心配することなく,ほぼ毎年シリア,パレスティナ方面に遠征を重ねた。その主たる目的はバビロン軍の力の示威と朝貢国からの貢物の取立てであった。43年に及ぶその治世の中で比較的知られているのは最初の10年ほどで,前604年のアシュケロンの破壊,前601年の対エジプト戦での敗北,前598年のエルサレム攻囲(このときユダ王エホヤキンほかを捕囚として連れ去り,代りにゼデキヤを王に据えた。《列王紀》下24:10~17)などが特に注目される。その後テュロスの攻囲,小アジアにおけるメディアとリュディアの国境争いの調停などあるが,とりわけ前586年のエルサレム破壊といわゆるバビロン捕囚を挙げなければならない(《列王紀》下25:1~22)。このような数次の遠征により得た財宝で諸神殿の再建,首都バビロンの建設,王宮の造営などを行った。こうして彼の治世は長いバビロンの歴史の中でも最も栄えた時期となり,その支配領域もメソポタミアを中心に東はアラプハ,西はガザ,南東はスーサ,南はペルシア湾上の島々にまで及んだ。
執筆者:中田 一郎
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(在位前605~前562)
新バビロニア王国の第2代王。即位直前に皇太子として軍を率いてエジプト軍をカルケミシュで破り,即位後イェルサレムを攻略してユダ王国を滅ぼす(前587ないし前586年)など,新バビロニアのシリア・パレスチナ支配を決定づけた。首都バビロンをメソポタミア最大の壮麗な都市として再建し,新バビロニアに最盛期をもたらした。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…カルデア人は軍事的には強くなかったが,ナツメヤシの生産やペルシア湾貿易のおかげで経済的には豊かであった。宿敵であったアッシリア帝国が滅びた後,カルデア人ナボポラッサルによって新バビロニア王国(カルデア王朝)が建てられ(前625),ネブカドネザル2世の治世に最も繁栄し,当時のバビロンは世界の七不思議の一つに数えられた。イスラエルの民のバビロン捕囚もこの王の治世中のことであった。…
…これはカルデア王朝とも呼ばれる。ネブカドネザル2世(在位,前604‐前562)は,各地に遠征し,反抗する都市は,例えばバビロン捕囚のような形で徹底的に抑圧し,また大規模な首都再建を実行した。1899‐1917年に行われたドイツ人コルデワイR.Koldeweyの発掘によって明らかにされ,よく復元図に示されているバビロンはこの時代のものである。…
…前8世紀ころからは,帝国に編入した諸民族を大規模に強制移住させる政策も定着している。アッシリア
[新バビロニア時代]
カルデア(新バビロニア)朝ではナボポラッサルに次いでネブカドネザル2世が現れ,絶頂期を迎える。バビロンは空前の繁栄を遂げた。…
※「ネブカドネザル二世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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