知恵蔵 「ねぶた祭」の解説
ねぶた祭
ねぶたの人形は、水滸伝(すいこでん)・三国志や、日本の歌舞伎・神話などに題材を採る。大きさは、台車(高さ約2m)も含めて幅9m・奥行き7m・高さ5mで、数十人掛かりで引く。「はねと」は、浴衣姿で頭には花笠、肩にはたすき、浴衣の下はピンクか青のおこし、腰にはブリキでできた器ガガシコを付け、白足袋に草履を履けば、誰でも参加できる。この衣装で山車の周りを「ラッセーラ、ラッセーラ、ラッセラッセラッセラー」と叫びながら、ぴょんぴょんと跳ねる。
ねぶた祭の起源は、旧暦7月7日に行われた七夕の灯籠(とうろう)流しと言われ、ねぶた(=睡魔)という穢(けが)れを飾り物と一緒に海や川に流す行事だった。平安時代初めの坂上田村麻呂の蝦夷(えぞ)征討に結びつける起源説は、田村麻呂が青森まで侵出していないことからも根拠の無い伝説であろう。天明8年(1788)の『奥民図彙』にある「子ムタ祭之図」には、10人前後に担がれた灯籠が描かれているが、それらはほとんど角型で、「七夕祭」「織姫祭」などの文字が書かれているだけである。この角型灯籠が、文政年間(1818~29)から幕末にかけて「人形ねぶた」となり、明治に入ると、高さ20mを超える大型ねぶたも登場した。太平洋戦争後、電線や歩道橋のために高さが5mに制限されると、北川金三郎(1880~1960年)は、リアルで迫力のある組人形を制作するようになり、名人と呼ばれた。1958(昭和33)年から、「青森ねぶた祭」として各賞の審査が始まり、企業が中心となるとともに、観光行事として注目されて現在に至る。青森市以外にも、絵が描かれた扇形ねぶたが中心の弘前市のほか、黒石市、大湊市、五所川原市などに特徴のある「ねぶた祭」がある。なお、青森市では「ねぶた」と濁音で発音するが、弘前市では「ねぷた」と半濁音である。
(秋津あらた ライター / 2009年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報