スウェーデンの北極探検家、「北東航路」の啓開者。フィンランドのヘルシンキに生まれる。1857年ヘルシンキ大学を卒業。翌年政治上の理由でスウェーデンのストックホルムに移る。1858年スウェーデン王立博物館の教授、鉱物学部長となる。1858~1883年、数次にわたりスピッツベルゲン、グリーンランドを探検し、地理・地質学上で大きな成果を得た。1875~1876年にはカラ海からエニセイ河口を探検している。1878年6月ベガ号でカールスクローナを出発、トロムゼー、チェリュスキン岬を経て9月末ベーリング海峡近くのコリュチン湾で氷海に閉じ込められた。しかし翌1879年(明治12)脱出し、9月横浜に到着、長い間航海者の夢であった北東航路の啓開に成功した。日本では東京地学協会主催の盛大な歓迎会が開催された。一行は2か月にわたり日本に滞在、文物を調査・研究し、和書6000冊、化石などを購入・採集した。この和書はストックホルムの王立図書館に保管され、1970年代末にこれの完全な目録『ノルデンシェルド・コレクション・カタログ』が英文で完成、当時の日本の文物を知る貴重な資料となっている。
1880年4月帰国、男爵に叙せられ、1893年にはスウェーデン科学学士院会員に選ばれた。論文・著書は、地質学、鉱物学、地理学、地図学の分野で178編にも達する。おもなものに北東航路航海の報告のほか、古地図、航海指針を収集・編纂(へんさん)した『Periplus』(1892)、『Facsimile-atlas』(1889)がある。
[半澤正男]
スウェーデンの民族学者。探検家アドルフ・ノルデンシェルドの子。動物学を専攻したのち、南アメリカの各地で考古学・人類学研究を行った。主著『比較民族誌研究』10巻(1918~1938)では、グラン・チャコ地域のインディオやクナ人など南米諸民族の文化パターンを、おもに環境と諸地域間の文化伝播(でんぱ)による要因から検討した。スペイン語、ポルトガル語の記録と彼自身の発掘資料と現地調査の結果から南米諸民族の物質文化、借用語などの文化要素を分析し、それらの地理的分布をドットで表示する方法を開拓し、文化の歴史的伝播関係の再構成を目ざした。オセアニア地域から南米大陸への伝播説を退け、伝播地域を過度に拡大してとらえてゆくドイツ・オーストリア学派の文化圏説に対しては批判的であった。
[宮坂敬造 2018年12月13日]
スウェーデンの北極探検家,地理学者。フィンランドのヘルシンキに生まれ,ヘルシンキ大学で地質学を学ぶ。1858年スウェーデン王立博物館鉱物部長に就任,58-73年5回のスバールバル諸島方面調査に行き,1868年にはソフィア号で当時未到の北緯81°42′まで達した。78年ベガ号でノルウェーのトロムセー港を出発,シベリアの北岸沿いに航行,ベーリング海峡付近の氷海で越冬して太平洋に出,初めて北東航路を開いた。その帰途79年(明治12)9月2日横浜に着き,日本で大歓迎を受け,各地を訪問,自然や民俗の観察を行い,化石や日本書籍を収集した。10月27日に長崎を出帆,スエズ運河を通って80年に帰国,男爵を授けられた。1870,83年にはグリーンランドの調査もしている。晩年は古地図の研究に没頭した。なお持ち帰った約6000点に及ぶ日本書籍は,ストックホルムの王立図書館に所蔵されている。
執筆者:石山 洋
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…その勢力はアラスカに伸び,19世紀の初めには露米会社の設立をみたが,1867年アメリカがアラスカを購入した。 16世紀の半ばから試みられた北東航路の通過に成功したのはスウェーデンのN.A.E.ノルデンシェルドである。1878年7月21日,ノルウェーの北部にあるトロムセーを出発したベガ号は各国の隊員30名を乗せ,種々の調査を行ってベーリング海峡に近づいたが,氷に閉ざされ翌年7月まで越冬した。…
※「ノルデンシェルド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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