北ヨーロッパの立憲君主国。ノルウェー語でのノルゲNorgeは「北方の道」を意味する。正式名称はノルウェー王国Kongeriket Norge。スカンジナビア半島の西半分、半島面積の約40%を占める。東側はスウェーデン、フィンランド、ロシアと国境を接し、そのほかはバレンツ海、ノルウェー海、北海、スカゲラク海峡に囲まれている。面積(海外領を除く)32万3802平方キロメートル、人口452万0947(2001年センサス)、466万1000(2006年推計)。首都はオスロ。
高緯度地方の北緯57度57分33秒から71度11分8秒の間に広がり、ほぼ中央から北は北極圏に含まれる。北極圏内の夏は「真夜中の太陽」といわれる白夜の地域として旅行者たちによく知られるが、冬は一日中太陽が上らない日が何日間も続く。農地は国土のわずか3%、林地は26%、そして約70%は湖沼、氷河、岩山である。また氷河時代の痕跡(こんせき)であるフィヨルド(峡湾)が発達するうえ、約5万とも数えられる島嶼(とうしょ)があり、その海岸線の総延長は地球の4分の3周以上の3万5800キロメートルと概算されている。海外領土にはスバールバル諸島、ヤン・マイエン島がある。
国旗はスウェーデン、デンマークなどと同じ「スカンジナビアン・クロス」とよばれる十字旗で、他国とは色が異なり、赤地に、白い縁どりのある紺色の十字を染め抜く。国歌『われらが愛する山の国』Ja, Vi Elsker Dette Landetは1864年の制定。
[竹内清文]
地質学上フェノスカンジア楯状地(たてじょうち)とよばれる先カンブリア代の結晶質の岩石が分布する地域は、南東部地方と北部のフィンマルク東部だけである。残りの広い地域は、カンブリア紀などに堆積(たいせき)した岩石が、古生代中ごろのカレドニア造山運動を受けて褶曲(しゅうきょく)山脈をつくり、そのカレドニア山地が、その後の侵食・隆起、そして氷河作用によって現在の地形をつくりだしたのである。
ノルウェーの山地は平均高度が500メートルぐらいであまり高くなく、山形はだいたい高原状である。そして2000メートル以上の高原状の山頂は万年雪と氷で覆われ、平らな高原氷河の端から谷間に向かって急な谷氷河が垂れ下がる所もみられる。第四紀の氷期にスカンジナビア半島を覆った氷床は、山地はもちろん平地にも氷食の跡を残した。ノルウェーでは、細長いフィヨルドと、それに続く深いU字谷をつくった。とくに西部では、高さ数百メートルに及ぶ両岸の断崖(だんがい)や、河水が滝となって落下する懸谷が雄大な景観をみせている。最長のフィヨルドはソグネフィヨルドで、200余キロメートルの湾奥部まで青緑色の海水を静かにたたえている。
[竹内清文]
高緯度に位置し、冬の日差しはきわめて弱いにもかかわらず、西岸のベルゲンでは最寒月(1月)の平均気温が1.3℃と、日本の仙台(宮城県)程度の気温である。夏は最暖月(7月)の平均気温が14.3℃と非常に涼しい。しかしながら、年によって、たいへん暑い夏、あるいは寒い冬にみまわれるなど、年変動が大きいことが注目すべき特色である。降水量は南西岸でもっとも多く、ベルゲンの年降水量は2250ミリメートル、2007年の降水日数は244日を数えた。北へ、そして内陸へ進むにつれて減少し、オスロでは年降水量763ミリメートルとなる。
森林が国土の約4分の1を占めるノルウェーでは、そこに卓越する樹種はモミとマツである。植生は南東部においてもっとも豊かである。
[竹内清文]
オスロフィヨルドに流出するグローマ川(延長598キロメートル)をはじめ、大きな河川の流域からなる。森林面積はノルウェーの森林全体の約60%を占めるほどで、伐採された木材は河流を下って、下流部の製材・パルプ・製紙工場へ搬入される。中・下流域の平野は肥沃(ひよく)な土壌で覆われ、ノルウェーでもっとも豊かな農業地帯である。大麦などの穀物や野菜、そして果物の栽培のほか、酪農・養豚が盛んである。豊かな水力を利用した電力と、水深の深いフィヨルド海岸は化学、電気冶金(やきん)、造船、パルプなどの工業を発達させた。したがって首都オスロをはじめ、オスロフィヨルドの両岸に並ぶドラメン、シーエン、フレドリクスターなどの都市を成長させ、ノルウェーで最大の工業地域を形成している。
[竹内清文]
ノルウェーの海岸は、至る所にフィヨルドが発達するが、とくに南西岸地方には、この国最長のソグネフィヨルドをはじめ、ハルダンゲルフィヨルド、ノールフィヨルドなど有名なフィヨルドが続く。大小さまざまなフィヨルドの湾口部には、ノルウェー第二の都市ベルゲンをはじめ、クリスティアンスン、オーレスン、スタバンゲルなどの都市があって、いずれも水産業、造船業、貿易など海に関連した産業に依存している。最近は北海油田の開発に伴い、人口の増加は著しい。また豊富な水力電気を利用した化学、金属精錬などの工業が、オルダールやオッダなどフィヨルド湾奥部の町を発達させている。
[竹内清文]
トロンヘイムフィヨルドの周辺には、大麦、ジャガイモ、果樹などを栽培する耕地や、マツ、モミの茂る森林が広がる。その南にはドブレフィエルやトロールヘイメンといった1500メートル以上の山地がある。北のナムソスにかけては出入りの多い美しい海岸が続き、変化に富んだ景観が展開する。トロンヘイムフィヨルド南岸のニド川河口に発達したノルウェー第三の都市(オスロ、ベルゲンに次ぐ)トロンヘイムは、13世紀まで同国の首都であった。
[竹内清文]
ほとんどが北極圏内にあり、夏の数週間「真夜中の太陽」を見るための旅行者でボーデやトロムセの町はにぎわう。北部の人たちは、ロフォーテン諸島付近のタラ漁や、遠洋漁業のニシン漁などに従事する。第二次世界大戦後は水力発電や鉄山の開発が進み、大製鉄所がモ・イ・ラナに建設されて、工業化の波が押し寄せている。なお、スウェーデンのキルナ鉱山などに産する鉄鉱石の積出し港ナルビクや、トナカイの放牧で暮らしをたてる先住民サーミ人の生活も、この地方では忘れることができない。
[竹内清文]
ノルウェーの最初の住民は紀元前1万年ごろの南方からの移住者だが、紀元前15~前3世紀にスウェーデンとデンマークの影響を受け、前1世紀ごろよりローマの文化が流入した。8世紀ごろまでに共同体が形成され諸部族に分かれていたが、890年ごろハーラル美髪(びはつ)王Harald Hårfager(885?―931?、在位890ころ~940ころ)が統一した。のちに分裂するが、キリスト教布教に熱心なオーラフ2世(聖王。在位1015~1028)が再統一を果たした。ノルウェー王位はクヌード大王らのデンマーク支配に一時(1028~1035)服したが、マグヌス善王Magnus den Gode(1024―1047、在位1035~1047)はこれを回復する。同王の死後ふたたび分裂・内乱状態が続いたが、スベッレ王Sverre(在位1184~1202)が長子相続制を確立後、孫のホーコン・ホーコンソン王Håkon Håkonsson(1204―1263、在位1217~1263)時代に中世ノルウェー王権は最盛期を迎えた。マグヌス改法王Magnus Lagabøte(1238―1280、在位1263~1280)は全国的な法典を作成したが、このころより穀物供給を掌握するドイツ商人の進出が著しく、スウェーデン、デンマーク両王国との関係が重視される。スウェーデンとの同君連合(1319~1343)を経て、ホーコン6世Håkon Ⅵ(1340―1380、在位1343~1380)の子、オーラフOlaf Ⅳ(1370―1387、在位1380~1387)は、1375年デンマーク王となり、父の死後ノルウェー王を継ぎ(1380)、以後434年間に及ぶデンマークとの同君連合に入る。
[荒川明久・村井誠人]
1397年オーラフの母マルグレーテは、オーラフの死後、統治者として君臨し、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー3国の同君連合「カルマル連合」を組織した。以後、徐々にノルウェーはデンマークの影響下に組み込まれ、クリスティアン3世Christian Ⅲ(1503―1559、在位1534~1559)治下には法的に完全なデンマークの一地方として扱われるに至る。したがって、教会の土地・財産の没収を定めた1536年の宗教改革はデンマークによる支配の伸張の手段と化し、翌年にはニダロスのカトリック大司教オーラフ・エンゲルブリクトソンOlav Engelbriktsson(生没年不詳)の亡命によってノルウェーの旧教勢力は完全に力を失った。また、ハンザ貿易の衰退により、イギリス、オランダなどの国々を相手とする木材、干魚貿易は、経済的繁栄を促した。1661年フレゼリク6世治下で成立したデンマーク絶対王政は、1687年クリスティアン5世Christian Ⅴ(1646―1699、在位1670~1699)の「ノルウェー法」によってノルウェーに中央集権化をもたらした。18世紀後半には自作農化が進み、またヨーロッパを舞台とする戦争では、海運国ノルウェーはデンマーク政府の「中立」によって繁栄、デンマークからの独立気運が高まった。デンマークのナポレオン戦争の敗北を機に、キール条約によってノルウェーはデンマークから手放されたが(1814)、条文ではスウェーデン王へ割譲され、独立闘争も簡単に鎮圧され、スウェーデンとの同君連合(1814~1905)に移行した(モス条約)。その間に成立した自由主義的なアイスボル(アイッツボル)憲法と「連合法」を根拠に外交・防衛以外の自治権を得た。
[荒川明久・村井誠人]
知識階級と農民層との対立は、文化的にはデンマーク文化の継承者対ノルウェー文化再興者の対立であり、政治的には右派対左派(左翼党)の対立となって現れた。左翼党政権が1884年に成立し、議会主義が確立され、1898年普通選挙、1913年国政への女性参政権が認められた。1880年にはノルウェーは世界第3位の商船保有国となり、自らの領事館を要求、この問題の解決を求め、1905年に独立国となった。デンマーク王室からカール王子を迎え、王子はホーコン7世王Håkon Ⅶ(1872―1957、在位1905~1957)となった。
第二次世界大戦中、中立政策がナチス・ドイツによって破られたため、戦後は中立志向を維持しつつも、1945年国際連合、1949年NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)に参加、経済的には1959年EFTA(エフタ)(ヨーロッパ自由貿易連合)に加盟した。
[荒川明久・村井誠人]
ノルウェーは立憲君主国であり、現国王ハーラル5世Harald Ⅴ(1937― 、在位1991~ )は1991年に即位した。憲法は1814年に制定されたアイスボル(アイッツボル)憲法(オスロ北約48キロメートルのアイスボルEids‐vollで制定)を数回にわたり修正しながら現在に至っている。国会はストルティングStorting(「国会」の意)とよばれ、議員数169のうち4分の1(42議席)が第一院に相当するラグティングLagtingを、残りの議員が第二院にあたるオデルスティングOdelstingを構成する二院制をとっていた。しかし、2007年2月に憲法が改正され、2009年9月の議会選挙後に、第一院を廃止して変則的な二院制を解消し、一院制に移行する。内閣は首相および16人の閣僚からなる。議員の任期は4年で、全国19の選挙区から比例代表制によって4人から15人までの代表を選出する。投票権は18歳以上のすべてのノルウェー人に、被選挙権は18歳以上で、ノルウェーに10年以上居住する国民に付与され、外国人の投票権も1983年から地方選挙に限り3年以上の居住者に認められた。主要政党を2005年の総選挙獲得議席順にあげると、労働党、進歩党、保守党、左派社会党、キリスト教民主党、中央党、自由党となる。
1935年から単独または連立で労働党政権が続いてきたが、1970年代後半から石油景気の影響で保守党が議席を伸ばし、1981年には保守連立のウィロックKåre Willoch(1928―2021)政権が誕生した。しかしその後は保革伯仲のなかでEC(ヨーロッパ共同体)加盟や予算問題をめぐって少数政党がキャスティング・ボートを握り、1986年労働党ブルントラン少数単独内閣、1989年保守党スィーセJan Peder Syse(1930―1997)連立内閣、1991年ブルントラン内閣復帰と政権はめまぐるしく交代した。ブルントランは1996年に引退し、労働党ヤーグランThorbjørn Jagland(1950― )が首相の座についた。しかし、1997年9月の総選挙で労働党は前回得票率を下回り下野、10月キリスト教民主党のボンデビックKjell Magne Bondevok(1947― )を首相とする中央党、自由党3党による中道連立内閣が成立、議席数が全体の25.5%という少数与党政権となった。2000年3月内閣信任決議案が否決されボンデビック内閣は総辞職、労働党のストルテンベルグJens Stoltenberg(1959― )が首相に就任、労働党の単独少数与党となった。2001年9月の総選挙で労働党は第一党となったが、議席数が全体の26%と前回の39.4%から激減した。これにより10月、ストルテンベルグ内閣は総辞職し、キリスト教民主党のボンデビックが首相に返り咲き、保守党を中心としたキリスト教民主党、自由党の3党による中道右派連立内閣が成立した。2005年9月の総選挙では、教育、社会福祉の充実を掲げた労働党が第一党となり、左派社会党、中央党と連立政権を樹立、労働党のストルテンベルグがふたたび首相に就任した。
[大島美穂]
地方公共団体は19の県(フィルケfylke)とその下位の434の市町村(コミューネ)から構成されるが、県知事が内閣の任命する官吏であることから県議会の権限は著しく制限され、市町村議会が重要性をもつ。市町村議会は13~85人の4年任期の議員からなり、そのほかに市町村議から執行部たる行政委員会委員および市町村長を選出する。
[大島美穂]
外交政策は1905年の独立を待って初めて正式に展開されるようになった。他国に長い間支配されてきた歴史から、ノルウェーはとくに自国の主権維持に気を配ってきた。1949年にNATO(ナトー)加盟を果たしたおりにも、平時における外国軍事基地の設置拒否を条件に折り込み、1962年には国内への核兵器持ち込み禁止の保障を得ている。また、EC加盟については、1972年と1992年の2回にわたり国民投票を行い、主権の制限や漁業、農業政策、福祉政策への影響を恐れる加盟反対派が多数を制した。他方、他の北欧諸国との協力や、北方のバレンツ地域、バルト海地域における地域協力にも積極的で、第三世界への経済援助や国連での活動など国際的貢献度も高い。また、平和活動にも熱心で、2002年のスリランカ内戦の停戦や、2008年のクラスター爆弾禁止条約の成立に貢献している。
[大島美穂]
冷戦時は米ソの軍事戦略上重要な地理的位置にあり、とくに北極海に面するソ連との国境地帯は微妙な立場に置かれていた。しかし冷戦終結後はNATOの方針に沿った軍備縮小へと転じている。徴兵制がとられ、18(その年に19歳になる者)~44歳の男子に12~15か月の兵役義務がある。現有兵力は陸軍1万4700、海軍6400(士官数)、空軍約7900であり(1996)、そのほかに予備・後備兵と志願兵からなる郷土防衛隊がある。
[大島美穂]
ノルウェーの経済は、19世紀にはおもに農林漁業に依存していた。20世紀に入ると工業の重要性が増し、第二次世界大戦後は工業がもっとも重要な産業となった。工業の拡大は第一に安価な水力に基づくが、魚類、木材、石油、鉱石など天然資源の利用促進にも原因が求められる。
[竹内清文]
農業は厳しい気候に耐えながら、土地条件のよい南東部のオスロフィヨルドと西岸中部のトロンヘルムフィヨルドの周辺、そして南西岸のヤーレン地方でおもに営まれる。耕地面積は国土の3%に満たないが、機械化と合理的な営農努力、そして国の農業振興策に助けられ、生産性の比較的高い農業に発展した。農業収入の約68%は生乳、チーズ、バター、食肉、卵などの畜産品が占め、耕地では大麦、ジャガイモ、果実、野菜を栽培する。国土の5分の1を占める森林から産出する木材の約90%が針葉樹で、1995年には他の樹種を含め934万立方メートルが伐採された。木材は20世紀初頭までノルウェーの主要輸出品であったが、付加価値の高いパルプや紙にとってかわられた。漁業は世界の四大漁場の一つ北海のほか、北大西洋の広い海域を漁場とし、タラ、サバ、エビ、ニシンなどを主な魚種とし、漁獲高は234万トン(1994)である。また、サケ、ニジマスの養殖が急速に発展している。なお、おもに日本へ輸出するため1970年代に始まったシシャモ漁は、資源保護のため一時期、禁漁措置がとられていたが、2009年から再開された。
[竹内清文]
工業はノルウェーでもっとも重要な経済活動である。パルプ、新聞用紙などの紙製品をはじめ、魚油、缶詰などの水産加工、安価な電力を利用した窒素肥料などの電気化学、アルミニウム、ニッケルなどの電気冶金(やきん)は輸出産業として発展した。機械、鉄、金属加工などの工業部門はおもに国内市場を対象に発達してきた。最近は船舶用、石油掘削用の機械および電気機械工業の発展が目覚ましい。
エネルギー消費量は2017万トン(石油換算、1992)で、水力が46%、石油が40%を占める。電力の99.6%は水力によるもので、国民1人当り発電量は2万8000キロワット時に達し、世界一である。石油は1970年に北海のノルウェー領エコフィスクで海底油田が発見され、1972年に生産が開始されて1983年には約3000万トンを産出した(エコフィスク油田)。当時、環境や安全などに配慮し、議会は石油(天然ガスを含む)の生産限度を年9000万トンと定めたが、1995年現在、原油だけで1億3920万トンを生産している。その他の鉱物資源は鉄、銅、ニッケル、亜鉛、鉛などの鉱石を産出する。とくに北部のロシア国境に近いキルケネス南方にある鉄鉱山は重要である。
[竹内清文]
ノルウェーの高い生活水準は貿易に支えられている。1994年の1人当り貿易額は輸出入あわせて1万4073ドルに上り、人口の少ない中東産油国を除けば世界第6位にあたり、貿易依存度も57.6%と高い。また1970年から1980年の10年間に、輸出は7.5倍という大幅な伸びを示した。これは北海油田の開発が進むにつれ、石油および石油製品の輸出の拡大がもたらしたもので、輸出超過が続いている。輸出構造をみると、品目別では原油、天然ガス、石油製品が47.1%を占め、次いで機械、輸送機械、アルミニウムなどの非鉄金属、水産加工品、新聞用紙などの紙製品である(1995)。地域別ではイギリス19.8%、ドイツ12.7%、スウェーデン9.8%などとなっている(1995)。一方、輸入品目は機械、輸送機械、鉄鋼、繊維などの製造品、石油および石油製品などで、輸入先はスウェーデン、ドイツ、イギリスなどである。
[竹内清文]
独立以来、海運業を終始育成してきたが、第二次世界大戦中、商船隊は大損害を被った。1995年の商船保有量は2155万総トンで、1975年当時の世界第4位から第6位に後退した。ほとんどの商船が外国貿易に従事し、とくに40%を占めるタンカーは、アメリカやイギリスの大石油会社との長期契約のもとに世界の海に活躍している。
道路交通は険しい地形の影響を受け、道路の建設は難航したが、土木技術の進歩に伴い、離島やフィヨルドの海面に架橋するなど、道路の整備は進み、1995年には公共道路の総延長は9万0262キロメートルに達し、重要な交通網を形成している。1850年代初めに最初の鉄道を敷いた国有鉄道は、オスロを中心に北はボーデ、西はベルゲン、南は海岸を迂回(うかい)してスタバンゲルへ通じる。総延長は4025キロメートル(1995)、電化率60.2%である。国内航空路はスカンジナビア航空、ブローテン航空など4社の路線が首都オスロを中心に張り巡らされているが、とくに北極圏内や離島各地を短時間で結ぶ交通手段として大きな意味をもつ。1998年にはオスロ国際空港が、新たに市の中心部から50キロメートルの地点に2本の滑走路をもつ近代的空港として整備された。海上交通は多くの沿岸航路があるが、なかでもベルゲンから最北端の町キルケネスまで足掛け7日かけて航行する航路は、いまも沿岸各地の人々の生活に重要な役割を果たしている。
[竹内清文]
ノルウェー住民のほとんどがゲルマン系に属するノルウェー人であるが、北部には約2万5000人のサーミ人が、またとくにフィンマルクには約7000人のクベンkvenとよばれるフィンランド人が居住する。サーミ人はかつてトナカイの放牧を行っていた遊牧民族で、長らく法的差別を受けたのちに、トナカイ飼育の独占権を付与されたが、現在その大多数は農業または漁業に従事している。さらにサーミ文化の保護を目的とする公共団体が設置され、子弟の公教育に関しても、親が望む場合、教室内でのサーミ語の使用が法的に義務づけられた。クベンに対してはいままでのところなんの公的措置もとられてはいない。
公用語はノルウェー語であるが、そのなかで標準語としてブークモール(ボークモール)とニューノシュク(新ノルウェー語)が認められ、公文書および義務教育での両者の併用が義務づけられている。ブークモールは全国的な力をもつと同時に、とくに東部の地方議会や学校で用いられ、他方ニューノシュクは西部を中心とした地方で多く用いられる。政治的には前者を保守系、後者を革新系が好むうえ、両者とも一律でなく、そのなかにおのおの保守形、革新形として知られることばの差異が存在する。また、地方ごとに書きことばの異なる方言が存在し、その数は大ざっぱな分類でも10以上になり、ことばの画一化を拒否する国民の要求を反映して、公共放送、新聞、雑誌を通じ自由に使われている。
[大島美穂]
人口の約75%が都市部に居住する。人口増加率は年々減少の傾向にあり、60歳以上の割合は最近100年間で2倍の27%を占めるに至っている。国内総生産は1人当り8万2465ドル(2007)で、生活水準は高い。また失業率は1980年には1.7%にすぎなかったが、1992年には5.9%に上昇、2000年には3.4%となっている。物価指数は1980年を100とすると1992年は180と大きく上昇している。2000年の消費者物価上昇率は3.1%である。
[大島美穂]
教育の機会均等に対するノルウェーの試みは早く、1737年に地方教育法が施行された。義務教育就業年の全国一律化は1827年で、その後1936年には、従来、社会階層の格差を反映して二元化していた教育システムが一本化された。義務教育は1969年の法律により9年間としていたが、1997年の教育制度の改正で6歳から10年間(小学校が7年間、中学校が3年間)となった。中等教育は1974年に一般教養のためのギムナジウム(普通中等学校)と7種の職業訓練校(おのおの1~2年間の基礎および上級コースをもつ)に統合された。高等教育機関(大学または県立カレッジ)は資格試験に合格したすべての国民に開かれている。また公教育とは別に成人教育も盛んで、約30の組合・クラブなどが政府の資金援助のもとに行う民間教育と、古い伝統をもつ国民高等学校には約半数の国民が参加している。
宗教は福音(ふくいん)ルーテル派を国教とし、ノルウェー国教会には国民の約96%(都市部で95%、地方では97%)が属する。その他の少数派宗教としてはユダヤ教、福音ルーテル派自由教会、メソジスト派がある。
[大島美穂]
1960年代にスローガンとなった「自ら助ける者を助く」に特徴づけられる福祉政策の展開が、他の北欧諸国との密接な情報交換、協力体制のもとに行われている。医療に関しては、すべての住民に対する強制疾病保険が整い、またとくに学童に対しては義務健康管理制度がある。社会保険としては、雇用者側に財政負担を負わせた労働災害保険や国家強制失業保険があり、また16歳以下の児童に対する児童手当や退職前の収入の3分の2を保障する老齢年金など各種年金も整っている。身障者や寡婦、未婚の母に対しては、年金の支給とともに就業のための教育・訓練施設を国家が建設するなどきめ細かな措置がとられている。
[大島美穂]
山がちでほぼ南北に細長く、各地の孤立が生じやすい地形のため、地域主義の伝統が根強く、文化、スポーツ、社会などさまざまな活動が地域の民間諸組織を通じて行われている。とくにスキー、スケート、サッカーに代表されるスポーツ活動は盛んで、ノルウェー・スポーツ協会には2700のクラブのもとに約33万人が参加し、労働組合と並ぶ大組織となっている。なお、ノーベル賞はスウェーデンを中心に選考される賞だが、ノーベル平和賞はノルウェー国会選出の五人委員会が行っている。
[大島美穂]
オスロだけでも国立美術館、ムンク美術館をはじめとし、歴史、工芸など10以上の博物館があり、ノルウェー全土では地方色の豊かさを反映して、460もの博物館がある。公共図書館は1947年の図書館法改正によって、すべての地方自治体への設置を義務づけられた。1214(1992)の公立図書館があり、人口8000以下の市町村では住民1人当り10クローネ、大都市でも5クローネの国家援助がある。僻地(へきち)に対しては、バスや船舶による移動図書館の便が図られている。
[大島美穂]
ノルウェー文学は古代の北欧神話やサガを主体とした叙事詩の伝統をもち、中世のフォークロア(民俗)および宮廷詩人の創作活動を経て、19世紀に入り「国民文学」として注目される作品を誕生させた。前半期のウェルゲランは言語や文学におけるデンマークの影響の払拭(ふっしょく)に努めた人物で、その詩は後進に影響を与えた。後半の民族ロマンティシズムの時代では、イプセンとビョルンソンがノルウェー独自の戯曲を生んだ作家として高く評価され、海外でも多く翻訳されている。ビョルンソンは1903年にノーベル文学賞を受賞したが、そのほか1920年にハムスン、1928年にウンセットが同じく受賞している。同時代にイプセンの『ペール・ギュント』を作曲して音楽の分野で名高いグリーグも、民族ロマンティシズムの運動と結び付いた形で農村の民謡やダンスを題材に作曲を行っている。美術工芸は、現存するバイキング船に古代の優れた彫刻技術をうかがうことができ、現代の彫刻家としてはウィーゲランGustav Vigeland(1869―1943)が有名である。絵画ではムンクが「表現派の始祖」として19世紀後半以来、世界に名をはせた。
[大島美穂]
言論・表現の自由が憲法に明記されたのは、1814年にノルウェー人自らの手で起草したアイスボル憲法においてであったが、その後もスウェーデン支配の下で弾圧を受け、実際にそれが認められたのは1840年であった。書物は年間5580点が出版され(2002)、J・ゴルデルJostein Gaarder(1952― )『ソフィーの世界』のように世界的ベストセラーになったものもある。
日刊紙は77紙あり、総発行部数は227万部(2006)である。放送局は長らく国営の1局だけであったが、1981年の保守連立政権の民営化政策によって民放の参入も始まり、地方ラジオ局やケーブルテレビが設立された。
[大島美穂]
ノルウェーの日本研究者カランArne Kalland(1945―2012)によれば、1639年(寛永16)にベルゲン出身の1人のノルウェー人が江戸幕府3代将軍徳川家光(いえみつ)に拝謁していたことをオランダの史料が示しており、その人物が日本を訪れた最初のスカンジナビア人であったとされる。公式には、1868年(慶応4)日本とノルウェー・スウェーデン王国との間に修好通商条約が結ばれ、1840年代以降北太平洋に進出したノルウェー人による捕鯨業と世界有数のノルウェーの海運業(1880年代には商船保有数世界第3位)とによって、日本とノルウェー間の交流が深まった。とくに1898年ノルウェー人が日本の捕鯨船の砲手に雇われて以来、30年以上にわたってノルウェーの捕鯨技術は日本の捕鯨業の近代化に大いに貢献したと、カランは指摘している。
一方、1905年のノルウェーのスウェーデンからの分離独立は、ヨーロッパの国際関係に及ぼした日露戦争(1904~05)の影響を抜きにしては論ずることができない。ロシアの干渉をよびかねない対スウェーデン戦争の可能性をもはらんだノルウェーの独立への動きは、バルチック艦隊の東方遠征による不在と、それに続くロシアの敗北という特殊な状況のもとで行われた。
ノルウェーの日本への文化的影響は、イプセン、ビョルンソン、ハムスンらによる19世紀後半以降の文学作品に負うところが大きく、とくにイプセンが1892年に坪内逍遙(しょうよう)によって紹介されて以来、文学界・演劇界に与えた影響はきわめて大きい。日本の新劇はイプセンから始まったといわれ、今日もイプセン劇が断続的に上演されているという状況が続き、1978年にはイプセン生誕150年記念として『ペール・ギュント』が上演された。また、ノルウェーではオスロ大学の日本語教師であった稲富正彦(1934―1982)の夭折(ようせつ)を悼んで、彼の生前の日本とノルウェーの文化交流の努力を踏襲すべく「中日・稲富ノルウェー日本文化交流基金」が設立されている。それは、稲富の協力のもとに中日新聞社が日本で催したムンク展の収益が寄贈されて発足したものである。
日本とノルウェーの通商関係は、1957年(昭和32)発効の通商航海条約に基づいて行われている。ノルウェーの輸出額に占める日本の割合は0.95%、輸入額に占める割合は2.21%(2007)で、ノルウェー側の輸入超過となっている。日本はノルウェーからサバ、サケなどの生鮮魚類、化学品などを輸入し、自動車、船舶、機械、電気機械などをノルウェーに輸出している。ノルウェー在留邦人は789人、企業20社が進出(2008)。ノルウェーのリレハンメル冬季オリンピック大会(1994)に次いでの長野冬季オリンピック大会(1998)開催にあたり、1997~1998年には日本各地で「ノルウェー王国芸術祭」が催され、ムンク展などのノルウェー文化紹介が相次いだ。2005年は日本とノルウェー国交樹立100周年にあたり、5月に天皇・皇后がノルウェーを公式訪問した。一方、ハーラル5世国王も2001年の国賓としての訪日をはじめ、たびたび来日している。
[村井誠人]
ノルウェーでは「ウルネスの木造教会」(1979年、文化遺産)、「ブリッゲン」(1979年、文化遺産)、「レーロース鉱山都市とその周辺」(1980・2010年、文化遺産)、「アルタのロック・アート」(1985年、文化遺産)、「ベガオヤン/ベガ群島」(2004年、文化遺産)、「西ノルウェーフィヨルド群:ガイランゲルフィヨルドとネーロイフィヨルド」(2005年、自然遺産)、「シュトルーベの三角点アーチ観測地点群」(10か国で登録。2005年、文化遺産)、「リューカンとノトデンの産業遺産群」(2015年、文化遺産)がユネスコ(国連教育科学文化機関)により世界遺産に登録されている。
[編集部]
『木内信蔵編『世界地理6 ヨーロッパⅠ』(1979・朝倉書店)』▽『百瀬宏著『世界現代史28 北欧現代史』(1980・山川出版社)』▽『外務省監修『世界各国便覧叢書 ノルウェー王国・アイルランド・アイスランド共和国』(1984・日本国際問題研究所)』▽『立石友男著『スカンディナヴィア――白夜・極夜の国ぐに』(1987・古今書院)』▽『グンヴァルト・オプスタ著、大島美穂監訳『ノルウェー 白夜とフィヨルドの王国』(1994・ベースボール・マガジン社)』▽『百瀬宏・村井誠人監修『北欧』(1996・新潮社)』
基本情報
正式名称=ノルウェー王国Kongeriket Norge/Kingdom of Norway
面積=32万3782km2
人口(2010)=489万人
首都=オスロOslo(日本との時差=-8時間)
主要言語=ノルウェー語
通貨=ノルウェー・クローネNorwegian Krone
スカンジナビア半島の西半を占める細長い国。ノルウェー語ではノルゲNorgeと呼ぶ。
本土は北緯58°から71°に及び,面積32万4219km2,北部の約4分の1は北極圏に入る。そのほかにスバールバル諸島,ヤン・マイエン島,南極海のブーベ島,ペーター1世島をも領有し,南極大陸の西経20°~東経45°の地域の領有権を主張している。本土の南東部は先カンブリア時代の変成岩よりなり,西岸から中・北部はカレドニア造山帯に属し,現在の脊梁山脈を形成する。これらの地域には,チタン,モリブデン,層状鉄鉱床があり,鉄,銅,鉛,亜鉛の硫化鉱を産する。古生代末にはオスロ・フィヨルド沿いに地溝帯が生じ,火成岩が逬入して多くのカルデラをつくった。南,西,北の大陸棚には厚い中・新生代層があり,北海油田が開発され,北緯71°付近にもガス田が発見された。スピッツベルゲン島には第三紀の石炭を産する。氷河期の厚い氷床は約8000~1万年前に消失し,人類は約7000年前から住みついた。氷の浸食で基盤岩に深いU字谷が刻まれ,それに海水が浸入して西岸沿いの深いフィヨルドをつくり,尖峰と急崖と氷河のアルプス景観が観光客を引きつけている。西岸の河川は急流をなしてノルウェー海に注ぎ,壮大な滝がかかる。脊梁山脈の東は緩やかな大河が流れ,中・下流の平野に森林と耕地が広がる。土壌は薄くやせている。国内には16万の湖があり,サケ,マスが多い。海岸は出入りに富み,約15万の島々がある。氷床消失後の地盤隆起はいまも続き,海岸部で年2mm,内陸で年8mm上昇している。西岸は北上するメキシコ湾流に洗われ温暖で,最北端まで冬も凍らない。南からの暖気団と北極海からの寒気団が出合うため,低気圧の通路に当たる。脊梁山脈の東側は内陸気候で,冬の最低気温は-50℃に下る。平均気温が10℃を超える日は南部で年120日くらい,北部では60日以下である。降水量は西岸で年2500mm,内陸はその半分である。雪は南部で11月に降り始め4月に消えるが,高山では6月まで降る。北部のトロムセー付近はオーロラ帯に当たり,極夜の空を彩る。植物は約2000種生育し,ドイツトウヒを主とする針葉樹林が広く,東部で850m,北部で700mが上限である。下生えは厚い苔とヒースで,コケモモ,野イチゴ類が豊富である。広葉樹ではシラカバ類,セイヨウトネリコ,ナナカマド,ポプラ類が多く,高山にはハイマツ,ハンノキ類が低く育つ。山地と森林にはトナカイ,レミング,ヘラジカ,アカシカ,キツネ,テン,アナグマ,ビーバーなどが多く,ヒグマ,オオヤマネコはまれである。海岸には海鳥が多く,夏に沖の小島に群がって営巣する。山には数種のライチョウがすみ,秋には狩猟の対象にされ,レストランのメニューにも載っている。北海および本土沿岸は,タラ,サケ,マス,サバ,オヒョウなどが多く,北部ではこれらのほかにエビ,キャペリンも大量にとれ,キャペリンはシシャモの名で日本へ輸出される。北極圏のバレンツ海もタラの好漁場で,最近はロシアとの間に領海境界の設定をめぐって論争が続いている。
住民は北方系のノルウェー人がほとんどで,碧眼,長頭,色白を特徴とする。このほか,北部に約2万人のラップ人(サーミ人)が居住する。言語はボクモールとニユーノルスクの二つの公用語(いずれもノルウェー語)がある。ルター派福音教会が国教となっており,国民の約96%がこれに帰属しているが,信仰の自由は保障されている。
執筆者:太田 昌秀
民族大移動期以降,北ゲルマン人がスカンジナビアに移動,定着し,バイキング時代には,ノルウェー人のブリテン諸島への遠征,襲撃(8世紀末)やアイスランドへの植民(9世紀末)がみられ,10世紀初めには,ハーラル1世が沿岸部を統一し,ノルウェー王を名のった。しかし,この時代は,王権と地方豪族の対立と,分立する王たちの内乱が繰り返され,12世紀末にいたり,スベッレ王(在位1177-1202)が世襲一人制の強力なスベッレ王朝を成立させた(バイキング時代の社会のあり方については,〈スカンジナビア〉の項目を参照されたい)。
しかし1319年と80年の2度にわたる男系途絶のため,ノルウェーはカルマル同盟のもとでデンマークへの政治的従属にはいった。社会・経済的にも,ハンザ同盟による商業支配,人口の2分の1以上を奪った黒死病(1349-50)をはじめ,14~15世紀に繰り返された疫病もあり,中世後期は没落の時代であった。
16世紀初めのルター派への改宗以後,デンマークへの属領化が進行する。一方,17世紀以来,林業,製鉄業の発達が農民の富裕化,小作農の自作農化を促し,18世紀になると農民は各地で反税闘争を起こした。ノルウェーは独自の方言をもつ諸地方が独立の傾向をもっていたので,初めは農民闘争は民族的闘争というよりも反中央政府の性格をもったが,産業の発展が海外輸出と結合していたため,しだいにデンマークとの民族的な利害対立が自覚されるようになる。ノルウェーの主要な商品(木材,魚,鉱石)は,主としてイギリス,オランダへ輸出され,一方慢性的に不足していた穀物はデンマークからのみ輸入を許され,しばしばその価格は高騰した。デンマーク・ノルウェー連合王国の最大の輸出品目がノルウェー産木材であること,ノルウェー人口がデンマーク人口に追いついたことも民族的自覚を刺激した。独自の銀行と大学の開設,出版の自由が要求されるようになった。
民族的利害対立はナポレオン戦争の間に頂点に達した。親ナポレオンのデンマーク政府は,大陸封鎖政策のためノルウェー木材のイギリス輸出を禁じ,イギリスは報復としてデンマーク穀物のノルウェー輸送を実力で阻止したからである。独立闘争はしかしライプチヒの戦(1813)によって方向転換を余儀なくされる。この戦いの勝者であるスウェーデン皇太子カール・ヨハンは敗者デンマークとのキール条約によって,デンマークに代わってスウェーデンがノルウェーと〈同君連合〉を結ぶ権利を得た(1814年1月)。ノルウェーの農民,市民,軍人,官吏などからなる各地の代表者はエイズボルに集まり,当時最も民主的な内容をもつ独立の憲法を採択した(1814年5月。エイズボル憲法)が,スウェーデンの軍事的圧力と列強の利害,思惑はノルウェーの独立を許さず,スウェーデンとの同君連合のやむなきにいたった。しかし憲法のおもな内容は存続し,高い程度の自治が認められた。
19世紀はあらゆる営業規制,特権の廃止と,鉄道,蒸気船による交通発達を基礎とした産業発展の時代である。産業の中心が,製鉄などの冶金工業,捕鯨を含む漁業,木材(のちパルプ,紙)工業など,地方的性格のものであったため,富農の産業資本家化現象が強くみられる。無記名投票による政党政治が確立されたのは1884年であるが,このとき首相となったスベルドルップSverdrupを出した〈左翼党〉は,独立と営業の自由を求める農民,都市民を基盤としている。国の産業が外国市場と強く結びつき,また海運業が発達したため,独自の領事館を海外にもつことが切望され,ノルウェー国会はこれを〈連合王国〉に繰り返し要求した。しかしこれは外交の一元性を損なう。王による数回の拒否ののち,1905年6月7日ノルウェー国会は独立を宣言,スウェーデン側の要求したノルウェー国民投票は2000対1の割合で独立を支持,11月にデンマーク王子カールをノルウェー王ホーコン7世として迎えた。この独立劇の平和的成功には,軍事行動を主張するスウェーデン世論を抑えた同国の社会民主党政府の態度,北欧に強い利害関心をもつロシアが日露戦争と第1次革命のため拘束されていたことが関係している。
20世紀のノルウェーは,外交的には列強利害の間に苦悩する小国の一例である。第1次世界大戦に際しては,他の北欧諸国とともに中立を維持したが,食料輸入の減少に苦しみ,大戦後半には,対英通商に対するドイツの潜水艦,機雷攻撃によって船舶のほぼ半数を失った。第2次大戦で,その武装中立はナチス・ドイツの軍事占領によって踏みにじられ(1940年4月),政府と国王はロンドンに亡命した。労働者,教員,牧師などあらゆる国民各層は〈祖国戦線〉に結集してサボタージュと抵抗を組織し,船舶の大部分はイギリスへ逃れ,ノルウェー国旗を掲げて連合軍側輸送に従事した。大戦後ノルウェーはNATOに加盟したが,外国軍事基地を置かない政策をとっている。
内政的には,20世紀は水力発電を動力とする産業発展と社会福祉の充実をみた。ロシア革命の影響と急速な工業化に伴う労働運動を背景に前進したノルウェー労働党は,1935年に農民党と連合政権をつくって第2次大戦を迎え,戦後もほとんどの時期に政権を握った。その下で労働者保護と農作物価格保証から出発し,あらゆる弱者を保護し,社会的平等全般を目ざす福祉政策が推進されてきている。
→スカンジナビア
執筆者:熊野 聰
ノルウェーは議会制度を有する立憲君主国である。行政権は国王に属するが,国事会議(内閣)により行使され,国事会議はノルウェー議会(ストーティング)の多数信任に基づく。予算支出,徴税を含む立法権は議会にあり,議会は4年ごとの選挙で165名の議員が選出される。1898年男子に選挙権,1913年に婦人参政権がみとめられ,投票年齢は20歳以上。国内は19県,450コミューネ(市町村)に分かれる。,地方自治は発達しており,4年ごとの総選挙の中間年に地方選挙がある。
司法は三審制である。またオンブド(他国ではオンブズマン)という独得の機関があり,行政権の乱用から国民を守るための制度で,消費者の利益を保護するものと,軍内部の不平不満を処理するものと,その他とがある。
第2次大戦後国際連合創設に際し,初代事務総長トリグベリーを送った。1949年NATOに加盟,同機構と連結する国防政策を確定した。国連特別委員会のすべてに参画し,OECDに加入,欧州会議等のメンバーである。ECへの加入は72年の国民投票で支持を得られず,73年自由貿易協定を結んでいる。北欧諸国は広く言語,文化を共通にし,相互の協力は緊密である。相互に旅券同盟を結び,労働市場を共有し,社会立法の面でも広範囲な協力関係にある。また相互協力のための議員・政党レベルの北欧理事会を有している。ほかに政府レベルでの閣僚協議会もある。発展途上国援助は年々増加を示し,78年でGNPの1%目標を達成している。うち半分が2国間の,半分が機関援助である。1960年よりEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)メンバー国であるが,92年EEA(ヨーロッパ経済領域)加入した。94年のEU加盟国民投票で反対多数のため加盟を断念した。
国防では,NATO加盟国であるが,非核三原則を政策化しており,〈平時〉の外国軍駐留と核兵器持込みを許していない。兵役は義務制であり,19~44歳の男子が対象となる。初期兵役は12~15ヵ月間である。政府の国防予算は毎年政府予算のほぼ10%前後を占める。
北海大陸棚(南西ノルウェーより350km)に油田,天然ガス田があり,ノルウェーの重要な天然資源となっている。確認可採埋蔵量は石油10億t,天然ガス14億t。1965年に最初の採掘ライセンスが許可されて以来,開発をすすめ,75年には実質的な石油輸出国となった。しかし石油,天然ガス資源の活用は適当かつ控え目な開発ペースを守ることを議会で決議している(年間生産量9000万tを限度)。ノルウェーの経済発展には安価な電力が決定的な役割を果たしてきた。電力生産は年間1000億kWh。1人当り電力消費量では世界第1位でデンマークに電力輸出を行っている。また資源としては森林,水産物,鉱石などにも恵まれている。
第2次大戦後,西欧諸国の経済は大きく変動したが,ノルウェー経済も例外でなかった。第1次産業は後退し,国民生産における鉱工業の割合も伸び,またサービス部門の割合も大きく増加した。労働人口の1/3が工業部門であり,GNPの1/3を占める。農業は,国土のわずか3%が耕作可能である。就業人口は総人口の7%を占める。酪農畜産の分野で高度の自給が実現している一方,穀物はもっぱら輸入に依存している。農産物価格は政府と農業団体の年次交渉で決定される。農業の特徴は小規模自作農家と規模の大きな買付販売協同組合組織との組合せである。森林が多く(国土の1/5),樹種はマツ,カバが主で,2/3が農家所有。家具,スキー,紙,パルプ,木材などの関連産業も盛んである。漁業は沿岸漁業であり,世界第5位の漁業国で,年間漁獲量300万tのうち70~80%がシシャモ,タラ,ニシンである。タラはもっぱら冷凍・加工・乾燥品となる。なお,ノルウェーでは電力の40%以上が電気化学,電気冶金産業に向けられており,ヨーロッパ第1の未加工アルミニウムの生産国である。造船部門も重要であり,また北海石油産業への機材生産に貢献している石油産業部門は新しい産業で,石油精製部門とともに急速に発展しつつある。産業経営はほとんど私企業である。商船船腹量は2240万トン,世界船舶の4.7%を占め世界第6位,〈ノルウェーの浮かぶ帝国〉といわれる。このうち9割以上が外国間輸送に従事している。海運収支が貿易赤字をカバーする構造になっている。船腹の半分は船齢5年以下である。外国貿易では,国民1人当り貿易高でノルウェーをしのぐ国は世界で日本のみである。おもな貿易相手国はEC諸国と北アメリカで全輸出の80%を占める。またこれら諸国からの輸入も総輸入額の80%である。
1967年より実施された国民保険法は,保険と年金を組み合わせた総合的システムで,すべての国民が加入を義務づけられており,老齢年金と付加年金が基本となっている。保険料は使用者側,被雇用者側がそれぞれ60%と20%を負担し,残りの20%を国と地方自治体で補塡する。健康保険は,医療機関での治療はもちろん,慢性疾病については,付添いまでをまかなう。疾病期間を通じて疾病給付金が支払われる。また慢性疾病や長期間にわたる疾病で収入を断たれた人には,これに対する手当が支給される。年金給付年齢は67歳であり,また年金受給資格を得た平均労働者の場合,年金総額は最高所得時の2/3となる。歯科部門は6~18歳の子どもを除き,健康保険外となっている。なお身体障害児のスポーツ活動参加がすすんでいる。
1870年代に,すでに労働組合が組織されており,現在,賃金労働者の約70%が組合に加入している。労働組合は全国労組単位で労働組合総連合(LO)に属している。これに対し民間企業の大部分が経営者連盟(NAF)に属している。両者の間には労使関係を律する基本協定が存在する(協定期間は2年)。労使交渉が行き詰まった場合は,国家調停官が介入する。これも失敗すると政府は国会に調停裁判所の設置を提案する。その判決は当事者に対して強制力をもつ。ただし国家,社会に重大な影響を与える主要産業部門の紛争に対してのみである。労働者保護法は1956年に成立しているが,現在40時間労働が確立,1日労働9時間を超えてはならず,超過勤務は年間200時間を超えてはならない。また50人以上の従業員を有する企業は職場環境改善委員会の設置を義務づけられている。また従業員の経営参加も認められている。女性の場合は6週間の出産休暇制度がある。年次休暇は1964年休暇法により最低4週間で,労災補償制度も他の北欧諸国と同様完備している。
教育人口は各種学校,大学を合わせ全人口の1/5を占める80万人,うち60万人が初等義務教育を受けている。なお一般学校教育以外に約50万人の成人教育の受講者(市民講座など)がいる。初等レベルの基礎教育は9年制で,7歳から義務教育が始まる(15歳まで)。1クラスは平均20名。基礎教育終了生徒中80%が上級学校に進学する。大学進学率はほぼ20%,オスロ,ベルゲン,トロンヘイム,トロムセーの4大学のほか,七つの地方単科大学があり,2~3年課程の教育を行う。教育はすべてのレベルで国立で無償である。なお独得な制度であるが,サッカーの賭けくじの余剰利益金の半分は科学研究基金へ,他の半分はスポーツ奨励金として寄付される。
国土は山岳が多く,高原と緑の森林に恵まれ,柵に囲まれているのは耕作地だけである。自然を愛好する国民性であり,夏季は魚釣り,水泳,キャンプ,ボート漕ぎ,冬はスキー,スケートのナショナル・スポーツの時期である。クロスカントリーは特に人気がある。また休日を過ごすための山荘が多く,ノルウェー人家庭は6戸に1戸が山荘または海辺の別荘をもち,週末や休暇を過ごすようにしている。
執筆者:武田 龍夫
ノルウェー文化は昔も今も北欧文化の一環としてあるが,この国特有の風土,歴史,国民性がもつ二重性は当然文化にも反映する。荒涼たる山岳地帯,緑青の水をたたえる湖とフィヨルドの比類ない美しさは自然の過酷さをも秘め,対外進出のバイキング精神は頑迷な郷土意識と同居する。鋭敏な社会問題への切込みはときに日本人的ともいえる甘えの心理構造に逃避し,民主主義と福祉を是としながら神秘,隠遁への志向を抑えがたい。これらの二重性は現代芸術にも,たとえば〈新ノルウェー語(ニューノルスク)〉作家ベーソースの繊細な感受性に満ちた小説と,ドゥーンの地方農民の一族史をつづる雄勁な《ユービークの人々》との共存,夭折(ようせつ)したルンデRolf Lunde(1891-1928)の優美な彫像に対するに,ビーゲランの121人の人間像からなる巨大な一本石碑という形で顕現している。
ノルウェー文化の歴史は9~11世紀のバイキング時代に始まる。それ以前にも石器時代の岩壁に刻まれた動物や魚の絵とか,3世紀ころから使われた原北欧語とされる古ルーン文字による碑銘文などもあるが,バイキングの将領たちが南ヨーロッパの先進文化と接触することで彼らの文化意識は目覚めた。キリスト教移入(10世紀)とそれに伴うラテン文字導入(ノルウェーで現存最古のラテン文字本は1050年ころのもの)が大きく寄与したが,上からのキリスト教化は民間の異教信仰を完全には払拭せず,両思想の対比は一貫してノルウェー文化を彩っている。キリスト教美術の典型はトロンヘイムのユダロス大聖堂であるが,13世紀半ばに流行した祭壇前面の絵画も,他国には例は少なく,油絵手法の絵として世界最古の現存品ともいわれる。ラテン文字の導入は新ルーン文字に代わる古ノルウェー語の成立を促した。そして12~13世紀に伝承文学の記録化が鬱勃(うつぼつ)として興る。記述者は,9~10世紀のノルウェー国内の勢力争いからはみ出した豪族たちがアイスランドに入植したその後裔で,したがってそれら〈エッダ〉〈サガ〉と呼ばれる北欧の神話,伝説,歴史の記録や〈スカルド詩〉は,厳密にはアイスランド文学に属する。これがノルウェー文学史に入れられるのは,記述者がもともとノルウェー出身の一族であり,〈古エッダ〉(スノッリ・ストゥルルソン編纂の〈新エッダ〉と区別してこう呼ばれる)の多くの部分が1000年以前にノルウェー本国で成立,伝承されていたものであり,その言葉が古ノルウェー語とさほど変わらぬためである。14世紀半ばの黒死病流行により人口の3分の2を失ったノルウェーは,その後400年間デンマークに従属して,口承民話や歌謡以外に自らの文化を失うが,国を出たすぐれた芸術家の活躍はその間も続く。北欧啓蒙期最大の文学者ホルベアはコペンハーゲン大学の教授となるが,ノルウェーのベルゲンの生れで,〈北欧のモリエール〉と称される彼の喜劇もまた,デンマークとノルウェーの両文学史で扱われる。1772年にコペンハーゲンで結成された〈ノルウェー協会〉による作家たち,ウェッセルJohan Herman Wessel(1742-85)やブルンJohan Nordahl Brun(1745-1816)らもまた同じである。19世紀初頭のロマン派画家もみなドイツに居を構えた。彼らがノルウェー絵画史の第1ページを記すのだが,その筆頭にくるダールは〈ノルウェー絵画の父〉と呼ばれるものの,ドレスデン・アカデミーの教授であった。
この対外的先取性とは裏腹に,ノルウェー人の郷土意識は頑固なほど強い。それによってデンマーク属領時代にも自らの国民意識を保持しえたのだろう。ノルウェー国民の意識は1814年にナポレオン戦争の後始末としてデンマークから分離し,スウェーデンと同君連合の体制に組み込まれてから一気に文化の花を開かせる。ノルウェー独自の芸術は各分野ともここにその歴史を始めるといってよい。すなわち国民的ロマン主義思潮である。直接の結実は,民話伝説を収録したアスビョルンセンPeter Christen Asbjørnsen(1812-85)とモエーJørgen Moe(1813-82)のしごと(《ノルウェー民話集》第1巻は1841刊),牧師のランスタMagnus Brostrup Landstad(1802-80)が集めた民謡集,リンネマンLudvig Mathias Lindeman(1812-87)のメロディ採譜,独学の言語学者オーセンIvar Aasen(1813-96)のノルウェー特有の語彙・文法の収録・整理等々のしごとである。オーセンの《ノルウェー国民語文法》(1848),《ノルウェー国民語辞典》(1850)は,デンマーク語式の書き言葉に対してノルウェー自体の言語(ランスモールLandsmål。今日の〈新ノルウェー語〉の前身)を形成する基盤となった。国民的ロマン主義は各分野にすぐれた芸術家を育成する。美術では,ダールの後,デュッセルドルフ・アカデミーに学んだ画家たち,たとえば《ハルダンゲルの婚礼》を合作したティデマンAdolph Tidemand(1814-76)とギューデHans Gude(1825-1903),音楽では民謡演奏を土台にした名バイオリニストのブルOle Bullや作曲家のヒェルルフHalfdan Kjerulf,文学では親デンマーク派のウェルハーベンと激しく対立した熱血詩人ウェルゲラン,膨大な《ノルウェー国民の歴史》8巻を書いた歴史家ムンクPeter Andreas Munch(1810-63)らが現在まで続くこの国のロマン的性格の基を築いた。第2次大戦中の反ナチス抵抗運動,1970年代のEC(ヨーロッパ共同体)参加拒否の姿勢を支えるものでもある。
国民的ロマン主義芸術は19世紀前半の多くのヨーロッパ小国にみられた。しかしノルウェーのように次の時代,主として1880年代,90年代に世界的な芸術家を集中的に輩出させた例はほかにない。すなわち劇作家イプセン,詩人ビョルンソン,作曲家グリーグ,画家ムンク,小説家ハムスンらの名が挙げられる。彼らはいずれも生涯の少なからぬ時期を外国で過ごし,そこで自己の芸術表現能力を磨いたにもかかわらず,絶えず自らのノルウェー性を自覚して,故国に舞い戻る。イプセン,ムンクのように,自国で評価されず失意のうちに国を出た場合,この矛盾はいっそう激しく,それがヨーロッパを主導する前衛的作家たりえた主要因だったといえるだろう。イプセン,ビョルンソンと並べられて近代ノルウェー文学の四巨匠とされるJ.リーやヒェランにも過激な社会問題意識と人間心理の不合理さを認める二重性は明らかにみてとられる。
20世紀のノルウェー芸術が今もって前世紀末の所産を乗り越えられないのは,この矛盾性を鋭く実感することが少なくなっているからかもしれない。1905年のスウェーデンからの完全独立はそれまで絶えざる政治問題であったスウェーデン国王との抗争から国民を解放した。19世紀半ばには後進的農業国だったのが,20世紀には先進的福祉国家になった。不安の画家ムンクでさえ,20世紀になると明朗な色調の楽天性をみせ,人間の不可思議な心理と行動をえぐっていたハムスンも自らの反文明観をナチズムに結びつける。かつて,11世紀にノルウェーに入ってきて隆盛を極めた教会建築様式スターブヒルケstavkirke(樽板造りの木造教会)は今日ノルウェーでのみ完全な形で観察される特異な建築芸術であるが,同様に,この国の独創でなくとも,それなりに特異な芸術作品は20世紀ノルウェーにもある。中世世界を活写したウンセットの歴史小説《クリスティン・ラブランスダッテル》,オスロ市庁舎内の壁画を頂点とする〈フラスコ画三巨匠〉,レーボルAxel Revold(1887-1962),ロルフセンAlf Rolfsen(1895-1979),クローグPer Krohg(1889-1965)らの壁画制作,反ロマン的《ペール・ギュント》の舞台の劇音楽(1948)を書いたセーベルードHarald Sæverudの作品等々である。しかし,彼らが矛盾より調和に近いことも事実である。今日ノルウェーでは他の北欧諸国同様,芸術も国家の財政的援助のもとにしか成り立たない。劇場が公立であるだけでなく,美術家も文学者も音楽家も公的援助を受ける。福祉社会の内部矛盾に目を向ける芸術家は少なくないが,その告発さえ公的援助なしに可能でない。1976年に自殺した作家ビョルネベーJens Bjørneboe(1920-76)は社会告発の劇を書き,自由の希求を主題とした小説で賞を取り,匿名で書いたポルノグラフィー小説が発禁にされ,少女凌辱で裁判にかけられたが,人口過疎の福祉国家がはらむ諸矛盾を一身に具現していたともいえよう。しかし,この新たな矛盾を世界的に評価される芸術表現へと昇華させた例はまだ出ていないのである。
執筆者:毛利 三彌
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古くからノルマン人が居住した地方で,9世紀末初めて統一王国が形成された。11世紀前半一時デーン王クヌーズ(クヌート1世)の支配に服し,14世紀末カルマル連合によりスウェーデンとともにデンマーク王のもとで同君連合を形成。16世紀スウェーデンが分離独立したのちも,この国はデンマークの宗主権下にとどまったが,1814年キール条約で,今度はスウェーデン王のもとで同君連合を形成するに至った。しかしその後独立の機運が高まり,1905年国民投票を行って分離独立し,立憲王国となった。第二次世界大戦中ナチス・ドイツの侵略を受けたが,戦後国土を回復,49年NATO(ナトー)に加盟。72年EU加盟問題が起こったが,国民投票で否決,94年再び国民投票の否決によりEU加盟を断念している。
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…ゲルマンという呼称の由来は不詳であるが,この語が文献上最初にあらわれるのは,前80年ころ,ギリシアの歴史記述家ポセイドニオスが,前2世紀末におけるゲルマンの小部族,キンブリ族Cimbriとテウトニ族Teutoniのガリアへの侵寇を叙述した記録においてである。もっともそれ以前,前4世紀の末に,マッシリア(マルセイユ)にいたギリシア人航海者ピュテアスが,ノルウェーやユトランド半島に出向いた際の記録の一部が残っているが,そこではまだそこに住んでいた民族について,ゲルマンという呼称は使われていない。 考古学的出土品を根拠に,新石器時代までさかのぼって,ゲルマン人の居住分布が推定されるが,それによると,ゲルマン人の原住地は,南スウェーデン,デンマーク,シュレスウィヒ・ホルシュタイン,並びにウェーザー,オーデル両川にはさまれた北ドイツを含む一帯の地域であったというのが,現在の定説である。…
…その一つは,移動前,ゲルマニアの東部にいた東ゲルマン諸族,次はその西部にいた西ゲルマン諸族,そしていま一つは北方スカンジナビア半島やユトランド半島にいた北ゲルマン諸族である。東ゲルマンに属する部族としては,東ゴート,西ゴート,バンダルWandalen,ブルグントBurgunder,ランゴバルドLangobardenなどが数えられ,西ゲルマンでは,フランクFranken,ザクセンSachsen,フリーゼンFriesen,アラマンAlamannen,バイエルンBayern,チューリンガーThüringerなどが,また北ゲルマンでは,デーンDänen,スウェーデンSchweden(スベアSvear),ノルウェーNorwegerなどが挙げられる。このうち北ゲルマン諸族は,前2者よりやや遅れ,8世紀から11世紀にかけ,ノルマン人の名でイングランド,アイルランド,ノルマンディー,アイスランドならびに東方遠くキエフ・ロシアにまで移動し,それぞれの地に建国したため,通常これを第2の民族移動と称する。…
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