日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ハレ・ウィッテンベルク大学
はれうぃってんべるくだいがく
Martin-Luther-Universität Halle-Wittenberg
ドイツのハレ市にあり、1817年、ハレ大学にウィッテンベルク大学が吸収合併されてできた大学。
[椎名萬吉]
ウィッテンベルク大学
Universität Wittenberg (Leucorea) ザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢明侯)が1502年ウィッテンベルク市にザクセン領邦大学として創設した神学、法学、医学、学芸(のちに哲学)の4学部からなる大学(ドイツ最後の中世的大学)。宗教改革期にルターとその協力者メランヒトンの指導によりルター派の牙城(がじょう)となった。また1536年の学則改正によってプロテスタント系大学のモデルとなり、三十年戦争(1618~1648)のころまでドイツで最大の規模を誇った。その後は後退し、18世紀にはルター派正統を墨守して敬虔(けいけん)主義と啓蒙(けいもう)主義に反対し、大学の水準も活力も低下した。1813年、フランス軍の占領により授業の休止を余儀なくされ、2年後のプロイセン王国による市併合ののちも再開されることがなかった。
[椎名萬吉]
ハレ大学
Friedrichs-Universität zu Halle ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(1701年から初代プロイセン国王フリードリヒ1世)により、1694年、ハレ市に神学、法学、医学、哲学の4学部編成でルター派プロテスタント系大学として創設。しかし当初から宗派主義の桎梏(しっこく)から解放され、近代的な哲学と科学の導入、4学部の同格化、ドイツ語(母語)による講義および「学問の自由」の高唱などが行われたことから、ヨーロッパにおける最初の近代的大学であるといわれる。これは、斬新(ざんしん)な思想のゆえにライプツィヒ大学を追われてきた敬虔主義神学者フランケAugust Hermann Francke(1663―1727)と自然法学者トマジウス、および啓蒙主義者C・ウォルフに負うところ大であったが、その後もニーマイアーAugust Hermann Niemeyer(1754―1828)、ウォルフFriedrich August Wolf(1759―1824)など優れた人材を迎えて神学、官房学、言語学の発展に寄与し、18世紀のプロイセンのみならずドイツの指導的大学となった。またこの間、1717年にはフランケ創設のフランケ基金を基に、医学部のユンカーJohannes Juncker(?―1759)によってドイツ初の大学病院が開設された。1806~1808年フランス軍により閉学。解放戦争中ナポレオンの弟ジェロームBonaparte Jérôme(1784―1860)の命により一時「廃学」。
[椎名萬吉]
ハレ・ウィッテンベルク大学
ウィーン会議(1814~15)による領邦確定の結果、ウィッテンベルクの市と大学が1815年にプロイセン王国に編入されてから2年後、国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世により両大学が合併され、「ハレ・ウィッテンベルク統一大学」となった。19世紀後半から20世紀にかけて医学、自然諸科学、統計学、農学を中心に拡充発展し、各種の研究施設が新設。その結果、ワイマール期の改革によって法学部が法学国家学部となり、自然科学部が新設されて、5学部編成となった。また1933年11月10日(ルター誕生日)から大学の正称もルター生誕450年にちなんで現在のように改められた。
第二次世界大戦末期からほとんど閉学状態にあったが、1946年にソ連の統治下で再開され、その前年からドイツ社会主義統一党指導の下に始まる第一次(社会主義的)大学改革で、従来の5学部が哲学、法学、経済学、教育学、神学、医学、数学・自然科学、農学の8学部と一年制「補習教育部」(ドイツ民主共和国=東ドイツが成立した1949年から労農者学部)に改組。その後、1950年代末からの第二次大学改革を経て、さらに1966年から始まる第三次大学改革の学部再編措置により、哲学、法学・経済学、自然科学、医学、農学の5学部に改組され、これら学部の下にマルクス・レーニン主義、神学を含む20の専門部門(Sektion)が置かれた。しかし、1989年11月、ドイツを東西に分断していた「ベルリンの壁」が崩壊し、ドイツ再統一が実現するに及んで、この大学もドイツ連邦共和国16州中の一つの州の大学として制度および内容が抜本的に改革された。93年にはハレ・ケーテン教育大学とロイナ・メルゼブルク工科大学の一部を統合し、新学則も制定されて今日に至っている。
2000年現在、大学の中央機関として、学生代表も参加する大学会議Konzilと評議会Senatおよび総長部Rektorat(総長・副総長3人・事務局長で構成)が置かれている。教育・研究組織としては、神学、法学、経済学、医学、農学、哲学、数学・自然科学・工学の7学部および8全学学際センターが置かれている。規模の大きい哲学部は、それぞれ自律的な下部組織である教育学、歴史・哲学・社会科学、芸術・オリエント・古典学、言語・文学、音楽・スポーツ・話術の5専門領域Fachbereichから、また数学・自然科学・工学部も同様に、生物化学・生物工学、生物学、化学、地球科学、数学・情報学、薬学、物理学、工学の8専門領域からなる。
2000年現在、教員数約1280人(うち教授300人、その他の教員約980人)、事務係などの職員数約1300人(これに病院要員を加えると総数約5000人)、学生数約1万2800人(うち約90か国からの外国人留学生約790人)を数え、ドイツ東部地域の有力大学の一つとなっている。
[椎名萬吉]
『世界教育史研究会編『大学史Ⅰ・Ⅱ』(梅根悟監修『世界教育史大系26・27』1974・講談社)』▽『Albrecht TimmDie Universität Halle-Wittenberg(1960, Frankfurt/M.)』▽『L. Boehm und R.A.Müller(Hrsg.):Universitäten und Hochschulen in Deutschland, Österreich und der Schweiz(1983, Düsseldorf)』