ハワイ王国(読み)ハワイおうこく

改訂新版 世界大百科事典 「ハワイ王国」の意味・わかりやすい解説

ハワイ王国 (ハワイおうこく)

19世紀にハワイ諸島を統一したカメハメハ王朝のこと。ポリネシア人は何千kmもの海を渡ってハワイに移住したが,その第1波は750年ごろマルキーズ(マルケサス)諸島から,第2波はタヒチ島からの大移動で13世紀ごろであった。タヒチ同様ハワイにも階層社会が形成されて貴族平民に分かれ,平民が神の子孫とされる貴族と結婚することはできなかった。ハワイはいくつかの首長国に分かれ,それぞれにアリイ・アイモクと呼ばれる大首長が君臨していた。1778年3度目の探検航海の途上,J.クックはハワイを訪れ,彼のスポンサーの一人サンドウィッチ伯爵の名にちなんで諸島をサンドウィッチ諸島と命名した。翌年再訪したクックは,ボート島民に盗まれたため大首長の一人を人質にしようとして,逆に殺されてしまった。指揮官を失ったクック隊は報復のために島民10名を殺し,150軒の家を焼き払って島を去った。当時ハワイの総人口は30万人に達し,数人の大首長によって分割統治されていた。

 やがて,ハワイに来る捕鯨船などから銃砲火器を入手したカメハメハが勢力を拡張していった。彼は1810年までに各島をつぎつぎに屈服させてハワイ統一を完成し,カメハメハ王朝を樹立した。カメハメハ大王は平民の地位を改善し,貴族や司祭の権利を制限した。カメハメハ2世以降の後継者たちも伝統的な神々の礼拝を禁じ,礼拝所を破壊するなどの手段で司祭階級の権力を奪い,王朝の安定に努めた。しかし,カメハメハ王朝は外部からの圧力に悩まされ続け,生き残るためにはアメリカ,イギリス,そしてフランスなどの外国勢力との均衡をはかるしかなかった。カメハメハ3世時代の1840年には,最初の憲法である立憲君主制憲法の制定に成功した。しかし,このころから本格化したアメリカのサトウキビ業者の入植などにより事態は困難の度を増し,サトウキビ業者たちはアメリカへの併合を推進する中心勢力になっていった。またハワイ人は農園労働者などとして移住してきた中国人や日本人などに職を奪われたうえ,外来者の持ち込んだ悪疫によって人口も激減し,独立の基盤を失ってしまった。93年リリウオカラニ女王がアメリカの圧力で退位させられてハワイ王国は倒れ,翌94年ドールを大統領とする共和国が誕生した。米西戦争に勝ったアメリカは1900年ハワイ併合を実現し,59年1月には50番目の州とした。
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百科事典マイペディア 「ハワイ王国」の意味・わかりやすい解説

ハワイ王国【ハワイおうこく】

19世紀にハワイ諸島を統一したカメハメハ王朝のこと。1778年J.クックが来航して西欧世界と接した時,ハワイは総人口約30万人に達し,数人の大首長によって分割統治されていたが,カメハメハ(大王)が1810年までにハワイ諸島を統一し,土着の中央集権的権力を樹立した。以後,その後継者たちはキリスト教を受容して伝統的な神々への礼拝を禁じたため,司祭層の権力は弱められた。白檀貿易とサトウキビ産業が王国の経済基盤となった。しかし米英仏など列強の干渉を逃れるため,カメハメハ3世は1840年にハワイを立憲君主国として国際的地位を主張した。しかし国際社会に認められるために多くの米国人を官僚に起用して西欧化を図らねばならず,これが米国の影響力を招く結果ともなり,王国にとってはジレンマとなった。やがて米国人の入植が進んでサトウキビ産業が隆盛となったが,ハワイ人は中国人や日本人移民に職を奪われ,また外来の病気がもたらされたこともあり,ハワイ人人口は1890年には約4万人にまで激減した。カメハメハ5世のあと,ルナリロ,カラカウアに次いで1891年に即位したリリウオカラニ(女王)は,米国との合併をめざす白人勢力に対抗して王朝の権力強化を図ったが,1893年,米国の圧力で退位させられてハワイ王朝は倒れた。翌1894年ハワイ共和国が成立。1898年に米国に併合され,1959年に米国の50番目の州(ハワイ州)となった。1993年はハワイ王朝転覆100周年にあたり,ハワイ先住民主権回復運動が高まりを見せた。同年,クリントン大統領は,ハワイ王国転覆に米国軍が関わっていたことを公式に認め謝罪した。→ハワイ語フラ

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