翻訳|bionics
生物学との境界領域にある工学の一部門。生物のすぐれた機能を工学的に実現し活用することを目的とする。バイオニクスという言葉は,生命を意味するギリシア語ビオスbiosの格変化したビオンbionと,学術を意味する接尾語イクスicsとを合成したものである。1960年9月にアメリカで開かれたバイオニクス・シンポジウムで,この言葉がはじめて公式に用いられた。この時期は,パターン認識,ゲームの理論,問題解決などの人工知能の研究の開始された時期で,バイオニクスでの中心的研究課題も,人間をはじめとする生体のすぐれた情報処理機能の工学的理解と活用とに向けられてきた。感覚,運動,学習,記憶,探索,計画などの機能は,体性神経系での情報処理によるものである。体性神経系での情報処理の仕組みについては,神経生理学,神経解剖学などの分野で多くの知見がつぎつぎと得られている。これらの知見と,もっとマクロな心理学レベルなどでの知見とを参照して,生体と同じような機能を工学的モデルとして実現する試みがいろいろとなされている。これらのモデルは,すぐれた知能機械の雛型としての意味を持つだけでなく,生理学や心理学の研究を進める上での作業仮説としても大きな意味を持つものと考えられる。バイオニクスでは,現在,モデルの構成に主眼がおかれていて,以下に述べるようないくつかのモデルが研究されている。
ニューロン,すなわち神経細胞は神経系での情報処理の基本要素で,情報を電気化学的なパルスとして伝えるための細長い繊維状の軸索が細胞本体から出ている。軸索の先端が他の神経細胞と接合する部分はシナプスと呼ばれる。シナプスへパルスが伝えられると,細胞内に電位変化が生じ,神経細胞によるパルスの発生に影響をあたえる。神経細胞の構造と機能はかなりよく調べられており,その機能の数学的定式化,電子回路やコンピューターによるモデル化がなされている。これらのモデルは,視覚や聴覚,あるいは記憶や学習の神経回路モデルの基本となる。
文字・図形・物体の認識,あるいは音声認識の仕組みを明らかにすることを目ざして,いくつかの研究がなされている。初期の代表的な研究はカエルの網膜で発見された明暗のコントラストや動きに反応する細胞を,電子回路でモデル化したものである。その後,ヒューベルD.H.HubelとウィーゼルT.N.Wieselらによってネコやサルの大脳で発見された,直線状のコントラストや左右両眼の同時刺激に反応する細胞の機能をモデル化して,文字認識や両眼立体視の試みがなされている。さらに最近になって,テキスチュアつまり模様の識別や運動立体視などのバイオニクス的研究が進んでいる。また,これらの高度な視覚機能の実現のためには,本質的にどのような処理が必要なのかという見地からの研究の重要性が認められるようになってきている。聴神経系についても,音刺激の周波数分析や,音源の空間的位置の検出などに関連のある細胞が発見されていて,これらの機能のモデルが発表されている。
学習・記憶は神経細胞の,シナプスでの情報伝達特性が変化するためではないかと考えられている。神経細胞のこのような性質を可塑性といい,神経生理学などの分野で活発な研究がなされている。可塑性神経細胞をモデル化したものとして,ローゼンブラットF.Rosenblattのパーセプトロンと呼ばれる図形や文字の識別を学習する機械がよく知られている。最近では,さらに高度なパターン認識機能を学習するコグニトロン,連想機能を持つアソシアトロンなどが発表されている。これらの神経回路は自己組織化神経回路と呼ばれる。これらのモデルは,視覚神経生理学や,小脳での運動制御の学習の神経機構の研究者からも大きな関心をもって迎えられている。
→神経系
執筆者:杉江 昇
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ギリシア語で「生命の源」を意味するbionに、「―学」を示す接尾語icsをつけた造語で、生物の優れた機能を取り入れた機械やシステムの開発を目的とした工学の一分野である。バイオニクスの語は、1958年、アメリカ空軍のスティールJack Ellwood Steele(1924―2009)によって提案され、公式には、1960年9月、アメリカのオハイオ州デイトンで開かれた第1回バイオニクス・シンポジウムで初めて使用された。このシンポジウムが開催された背景には、第二次世界大戦後急速に発達したエレクトロニクスを中心とする技術の行き詰まりがある。人間や動物にとって何の苦もないパターン認識や柔軟な身体の動きを、当時の計算機や機械で行うのは容易ではなかった。そこで生物に学び、真似(まね)をしようという動きが出てきたといえる。しかし、期待された成果の出ないまま、1970年代になると、応用を強く意識したバイオニクスという研究は後退し、生体情報工学など、生体での情報処理の原理を解明することを目標とした研究が進められるようになった。バイオニクスが生物の情報原理を求めているのに対し、一方で、生物の構造や材料に着目して、その優れた機能を実現しようとする研究が活発に行われるようになった。これをバイオミメティックスとよんでいる。ちなみに、この用語は、1950年代後半から1960年代にかけて、生物物理学者のシュミットOtto Herbert Schmitt(1913―1998)が命名したとされている。さらに2005年ごろから、個体だけでなく、生態系としての優れた仕組みを人工的に実現しようとする研究が日本を中心に始まっている。これをネイチャーテクノロジーとよんでいる。
[鈴木良次]
『南雲仁一編『バイオニクス』(1966・共立出版)』▽『鈴木良次著「生物工学」(渡辺格編『生物学のすすめ』所収・1969・筑摩書房)』▽『石田秀輝著『自然に学ぶ粋なテクノロジー――なぜカタツムリの殻は汚れないのか』(2009・化学同人)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…生物学・医学と工学との境界領域に位置する。生体工学,バイオエンジニアリング,バイオニクスbionicsとも呼ばれる。分子生物学,生物物理学,生理学,解剖学,心理学などを基礎学問とし,遺伝子工学,細胞工学,発生工学,医用工学,人間工学,制御工学,人工知能などの幅広い応用分野をもつ。…
…生物学・医学と工学との境界領域に位置する。生体工学,バイオエンジニアリング,バイオニクスbionicsとも呼ばれる。分子生物学,生物物理学,生理学,解剖学,心理学などを基礎学問とし,遺伝子工学,細胞工学,発生工学,医用工学,人間工学,制御工学,人工知能などの幅広い応用分野をもつ。…
※「バイオニクス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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