アメリカの分子生物学者。シカゴに生まれる。1962年、M・H・F・ウィルキンズ、F・H・C・クリックとともに、「核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその意義の発見」に関する業績によりノーベル医学生理学賞を受けた。彼らの仕事は、遺伝という生物現象のなかでも、もっとも基本的とされるものを、分子生物学的に解明するうえで画期的な成果をあげた。まさに20世紀最大の科学上の業績といえる。
1947年シカゴ大学動物学科卒業後、インディアナ大学大学院で、S・E・ルリアの指導下に、バクテリオファージの増殖に及ぼす放射線の効果について研究し、1950年博士号を取得。その後、デンマークのコペンハーゲンの細胞生理学研究所のカルカーHerman Moritz Kalckar(1908―1991)のもとに留学、核酸の代謝について研究するが、カルカーとナポリに行き、ここでのシンポジウムに出席の折、ウィルキンズに会い、彼の発表した結晶DNA(デオキシリボ核酸)のX線回折を初めて見て、DNAの化学的構造に興味を抱く。1952年イギリスのケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のJ・C・ケンドルーのもとに留学(~1955)、ここに来ていたクリックに会い、協力して結晶DNAのX線解析像を基にしたDNAの構造研究にあたり、1953年DNAの二重螺旋(らせん)構造(ワトソン‐クリックモデル)を発表した。同年、帰国し、カリフォルニア工科大学の生物学の奨学金給費研究員として、RNA(リボ核酸)のX線回折実験を行い(~1955)、1955年ふたたび渡英して、クリックとともにウイルス粒子形成について研究、1956~1961年ハーバード大学生物学助教授を経て準教授、1961~1976年同大学分子生物学教授、また1968~1994年コールド・スプリング・ハーバー研究所所長、1989~1992年国立衛生研究所(NIH)のヒトゲノム研究センター長などを務めた。その著『二重らせん』The Double Helix(1968)には、激しい国際的競争のなかでの、二重螺旋の発見に至る経過が率直に書かれている。他のおもな著に『遺伝子の分子生物学』Molecular Biology of the Gene(1965)、『組換えDNAの分子生物学』Recombinant DNA : A Short Course(1983)、『DNAへの情熱――遺伝子、ゲノム、そして社会』A Passion for DNA : Genes, Genomes, and Society(2000)などがある。また、ワトソンらの仕事を彼の自著以上に歴史的に克明に追った本として、R・オルビー著『二重らせんへの道』The Path to the Double Helix(1974)がある。
[梅田敏郎・道家達將 2018年12月13日]
『ワトソン他著、松橋通生他監訳『ワトソン・組換えDNAの分子生物学』原著第2版(1993/原著第3版・2009・丸善)』▽『新庄直樹他訳『DNAへの情熱――遺伝子、ゲノム、そして社会』(2000・ニュートンプレス)』▽『ワトソン他著、松原謙一・中村桂子・三浦謹一郎監訳『ワトソン・遺伝子の分子生物学』上下・原著第4版(2001/原著第7版・中村桂子監訳・滋賀陽子・滝田郁子・羽田裕子・宮下悦子訳・2017・東京電機大学出版局)』▽『江上不二夫・中村桂子訳『二重らせん』(講談社・ブルーバックス/講談社文庫)』▽『R・オルビー著、長野敬・道家達將・石館三枝子他訳『二重らせんへの道』上下(1982、1996・紀伊國屋書店)』
アメリカのIBM社が開発した人工知能(AI)を活用したコンピュータ。さまざまな人のことばの意味・文脈を理解し、問題を解決する能力をもつ。名前はIBMの事実上の創立者トーマス・ジョン・ワトソン・シニアThomas John Watson,Sr.(1874―1956)にちなむ。2007年からアメリカの人気クイズ番組向けに開発され、2011年に人間のクイズ王を破って注目を集めた。2800個の中央演算処理装置(CPU)で毎秒80兆回の計算処理機能をもち、書籍100万冊分の知識を蓄積し、文字入力された質問からキーワードを拾い出して瞬時に回答を出す。データの関連性や規則性をみつけて分析する機械学習、無数のデータから特徴をみつけ出すディープラーニング(深層学習)などの能力をもつ。医療分野で膨大な論文、症例、病気画像などから適切な治療法の提案などに活用されているほか、コールセンターでの対応、自動運転車のハンドル操作、保険金の査定など幅広い分野への応用が検討されている。なおIBM社は、ワトソンは人間に脅威を及ぼす可能性のある人工知能ではなく、コグニティブ(認知型)コンピューティングシステムであるとの立場をとっている。
[矢野 武 2017年3月21日]
アメリカの心理学者。サウス・カロライナ州に生まれる。シカゴ大学卒業。同大学のエンジェルJames Rowland Angell(1869―1949)のもとで学位を得(1903)、動物心理学の諸研究を通じ、行動主義の創始者となった。その後、ジョンズ・ホプキンズ大学の教授となり(1908~1920)、同大学を去ってからは実業界に入り、通俗講演・通俗著述に活躍した。
ワトソンの行動主義は、従来の意識心理学、その内観法に対立するもので、公共的な、反復可能な、自然科学的方法によって、刺激‐反応の関係を研究することが心理学の教義であるとした。また、本能や遺伝に対して環境の要因を強調し、教育、発達、臨床などの面で極端な環境論を展開した。『行動主義者からみた心理学』(1913)を発表以後、動物心理学、発達心理学、一般心理学にわたって多くの著作を残し、以後の行動主義の発展に深い影響を与えた。
[小川 隆]
『安田一郎訳『行動主義の心理学』(1980・河出書房新社)』
アメリカの実業家、IBMの創設者。ニューヨーク州の片田舎(いなか)にアイルランド移民の子として生まれる。店員、行商人などで一時を過ごしたのちNCR社に入社、営業部長にまで昇進したが、1913年社長と衝突して辞職した。しかし翌年CTR社(1924年IBMと改称)に社長として迎えられた。以来、「考えよ」Thinkということばをモットーに研究開発と販売促進を有機的に関連させた独自の経営を行い、82歳で他界するまで精力的な活動を続け、今日のIBMの基礎を築くとともに、コンピュータの改良と普及に大きく貢献した。仕事だけを生きがいとした反面、歴代大統領とも親交が厚く、業界団体のためにも尽くすところが大であった。
[小林袈裟治]
『T・G・ベルデン他著、荒川孝訳『IBMの創立者ワトソンの伝記』(1972・ぺりかん社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アメリカの分子生物学者。シカゴ大学卒業後,インディアナ大学で学位を得た。タンパク質の研究のためコペンハーゲンに留学したが,イギリス,ケンブリッジに移ってF.H.C.クリックとともに核酸の分子構造研究に没頭,1952年暮れに二重らせんモデルを完成,翌年《ネイチャー》誌に発表。刷上がり1ページにまとめられた最初の論文は,その短さにもかかわらず,ダーウィンの《種の起原》とならんで,生物学史上最も影響力の大きい論文と称され,分子生物学発足の里程標となった。その後細胞レベルの分子生物学研究を続け,ハーバード大学教授を経て,コールドスプリング・ハーバー研究所長。89年国立衛生研究所のヒトゲノム研究センター長。ヒトの遺伝子の全容を解明しようとする国際的研究〈ヒトゲノム〉プロジェクトのリーダーをつとめる。92年4月同研究所長辞任。《遺伝子の分子生物学》(1965,現在流布している第3版は1976)はこの分野の代表的な教科書。1962年クリック,M.H.F.ウィルキンズとともにノーベル生理学・医学賞を受けた。モデル確定までの研究者の競争の内幕,人間模様をつづった《二重らせん》(1968)は,露悪的ともいえる率直さと生気ある筆致で,研究者間にも社会にも大きな反響を呼んだ。
執筆者:長野 敬
アメリカの経営者。ニューヨーク州のキャンベルに生まれ,商業学校を終えた後,ピアノやミシンのセールスマンを始めた。1895年にナショナル金銭登録機(NCR)社に入り,1908年に取締役となった。NCR社長のパターソンからは多くを学んだが,販売方針で対立して13年に解雇された。翌14年,はかり,タイムレコーダー,統計用製表機を扱っていたコンピューティング・タビュレーティング・レコーディング(CTR)社の再建を引き受け,24年には代表取締役となり,社名をInternational Business Machines(IBM)と変えた。35年の社会保障法の成立に伴って政府から統計機の多額の注文を受けて事業を拡大する一方,1933年から4年間は国際商業会議所の会頭を務めた。海外にも積極的に進出し,49年には海外事業を統括するIBM世界貿易会社を設立した。彼は,強力な販売部門,機械のレンタル制度,従業員尊重の経営によってIBMの基礎を確立した。その後IBMは,彼の長男ワトソン2世(1914-93)が引き継ぎ,世界最大のコンピューター会社に成長した。
執筆者:新宅 純二郎
アメリカの行動主義心理学の創始者。彼はヨーロッパの生理学や生物学における科学的客観主義,ことにパブロフの業績と,E.L.ソーンダイクに代表される動物を使った学習心理学の業績を結合させた。生得説(本能と遺伝の重視)に対し習得説(学習と環境の重視)を主張し,内観や意識など客観化できない概念に対する強い不満と不信を表明し,具体的行動を科学的実験的に扱う心理学を極端なまでに推進した。その宣言文となった《行動主義者のみたる心理学》(1913)を発表して2年後,アメリカ心理学会会長に選ばれたが,1920年には研究者生活を離れて実業界に入り,広告調査会社会長として死んだ。その業績は現代心理学の形式と本質を決定した重要因子の一つであり,心理学思想に革命をひき起こし,後続研究の出発点となったものと評価されている。主著《行動主義の立場からの心理学》(1919),《行動主義》(1924),《行動主義の道》(1928)ほか。
執筆者:梅津 耕作
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アメリカの分子生物学者.シカゴ大学卒業後,インディアナ大学のS.E. Luriaのもとでバクテリオファージを研究し,1950年博士号を取得.その後,コペンハーゲン大学を経て,1951年ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所へ移る.M.H.F. Wilkins(ウィルキンス)やR. FranklinによるDNAのX線写真や,E. Chargaffによる生化学的データをもとに,F.H.C. Crick(クリック)とともにDNA構造の二重らせんモデルを提唱した(1953年).その後,カリフォルニア工科大学を経て,1956年ハーバード大学助教授,1961年同教授となる.RNAのX線解析や,ウイルス粒子形成についての研究も行った.その著書「遺伝子の分子生物学」(初版1965年)が標準的なテキストとなったほか,研究者世界の内幕を描いた「二重らせん」(1968年)が話題をよんだ.1968年よりコールドスプリングハーバー研究所所長を務めた(~1994年).その後は同研究所の名誉職にあったが,2007年に完全に引退した.1988~1992年には国立ヒトゲノム研究センター所長を兼任し,国際ヒトゲノム計画を推進した.1962年CrickおよびWilkinsとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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…イギリスの小説家A.C.ドイルが長編小説《緋色の研究》(1887)で初めて登場させた素人探偵で,この物語の語り手ジョン・H.ワトソン医師と共同で,ロンドンのベーカー街の下宿に住み,一般人が持ち込むなぞの事件や,警察が解決できなくて頼みに来る難事件を,明快な推理と機敏な行動力によって解決する。このホームズ探偵とワトソン医師の名コンビは,次の長編小説《四つの署名》(1890)でも登場するが,まだ評判は高まらなかった。…
…しかしホームズ・シリーズが世界推理小説史上不滅の地位を今日なお占めているのは,創始者ポーのやらなかった新機軸を出したからである。例えば1891年以後,雑誌《ストランド・マガジン》に定期的に読切り短編を連載し,日本でいう〈捕物帳〉形式を確立したこと,語り手のワトソンに,ポーの場合見られなかった人間味を添えたこと,なぞ解きの興味だけでなく,時代の風俗や冒険的興味,すなわちディケンズやコリンズが重視した要素をも取り込んだこと,などである。以後ホームズの後継者,亜流は今日に至るまで後を絶たず,推理小説の一つの定型が確立されたのである。…
…これはウイルスの増殖に必要なのはDNAであることを示唆したものである。続いて,J.D.ワトソンとF.H.C.クリック(1953)はDNAの分析的データを完全に満足させる構造として,二重らせんモデルを提案した。このモデルは4種のヌクレオチドからなるDNA分子がいかに容易に多種類の遺伝子をつくりうるかということだけでなく,生物のもっとも重要な特性である自己増殖がどのような機構でおこるかを複雑な説明なしに人々にわからせた点で画期的なものであり,短期間にDNAを遺伝子の本体として認知させることに成功した。…
… DNAが遺伝物質であることが確定すると,次にDNA分子の中にどのように情報が蓄えられ,その情報が解読されてタンパク質さらには生体の高次構造や機能が作られるのか,さらにDNAの正確な複製はいかにしておこるのかということが問題となった。1953年に発表されたDNAの構造に関するJ.D.ワトソンとF.H.C.クリックのモデルは,これらの問題の解決にとって,画期的進歩をもたらすものであった。DNAはヌクレオチドという単位がくり返して結合したひも状分子が2本,対になってらせん構造を作っている。…
…しかし,オーガナイザーや遺伝子の本体が何かは明らかにできなかった。J.D.ワトソンとF.H.C.クリックのDNA二重らせんモデル(1953)は,遺伝子の本体を明らかにすることにより,生物学再編成の突破口を開いた。1961年に始まった遺伝暗号の解読は数年でほぼ完了し(ニーレンバーグM.W.NirenbergとオチョアS.Ochoa),遺伝情報はDNA→RNA→タンパク質の方向にのみ流れるというセントラル・ドグマ(クリック,1958)が確認され,また遺伝子発現の調節はF.ジャコブとJ.モノのオペロン説で十分説明されるように見えた。…
…1940年代以降理論物理学者M.デルブリュックに率いられて,分子遺伝学が急速に進歩し,いっぽう核酸・タンパク質などの生体高分子の構造解析の方法が発達した。53年J.D.ワトソンとF.H.C.クリックによるDNAの相補的二重らせん構造の発見,60年のペルツM.Perutzによるタンパク質として初めてのヘモグロビンの立体構造の決定がその代表的成果である。その後遺伝暗号が決定され,遺伝子の複製,転写,翻訳機構の基本的理解がなされ,分子生物学の中心ドグマと呼ばれるものが確立された。…
…デルブリュック,ルリアS.E.Luriaに代表される細菌やファージの自己増殖を研究する分子遺伝学グループ,一遺伝子一酵素説を提唱したビードルG.W.Beadle,テータムE.L.Tatumによる代謝の制御を研究する遺伝生化学的研究の開始,そしてイギリスのケンブリッジにおける,ブラッグW.L.Bragg,ペルーツM.F.Perutz,ケンドルーJ.C.Kendrewなどの学派によるX線結晶解析によるタンパク質分子の構造解析が,当時の分子生物学のすべてといってよい。これら,遺伝的,生化学的,物理学的な3学派の方法が統合される形で,1953年にJ.ワトソンとF.クリックによって,DNAの相補的二重鎖構造が解明された。DNA分子の立体構造中に,遺伝子の複製と読取りについての本質的属性が存在することに深い衝撃をうけた分子生物学者は,一方で,彼らの研究方法にますます自信をもった。…
…J.B.ワトソンが1912年に提唱した心理学理論のもとに形成された学派。古代ギリシア以来心理学の伝統は,人間の心とその働きについて思索し,主観的な意識現象を内観法によってとらえ記述するものであった。…
…第1は,思考を意識としてでなく行動としてとらえようとする行動主義心理学の立場からの研究である。J.B.ワトソンは思考を,音声の抑制された自問自答の言語行動とみなし,のどの微小反応の測定により思考過程を明らかにすることができると主張した。また新行動主義では,思考を反応そのものというよりも,刺激に対して外部的反応をひきおこす前に生じる内部的反応とみなし,これを媒介反応と呼んでいる。…
…ブントの方向をさらに発展させ,彼が扱わなかった判断や思考などの高等な精神作用をも内観法で研究したのが,O.キュルペなどのビュルツブルク学派である。一方,連合心理学の経験主義と要素主義を忠実に引き継いだのがJ.B.ワトソンの行動主義心理学である。ただ,パブロフの条件反射学の影響を受けたワトソンにおいては,連合心理学における観念という要素が刺激(S)‐反応(R)という要素に置き換えられており,内観法が否定されて,行動という客観的な観察と測定が可能なものだけが研究対象とされた点が違っている。…
※「ワトソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
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