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イタリアの哲学者。ナポリの貧しい家庭に生まれる。幼年期に頭蓋骨(ずがいこつ)を傷めるほどのけがをし、一生涯心身ともにその結果に悩まされる。ほとんど独学に等しく、とくにチレントの一寒村で家庭教師をしていた時期(1686~1695)に古典、ローマ法、哲学などの書物を熱心に読んだ。1699年ナポリ大学で修辞学の教授となり、さらによい地位を求めたが、一生その職にとどまらなければならなかった。
デカルトの数学的合理論を一面的な解釈として退け、人間の言語、文学、習慣、宗教、法律など文化的活動全般の権利を回復しようとする。また、デカルトのコギト(われ考える)は、自己の存在は明らかにするが、存在の学へ導くものではないとし、ファーレ(つくる)、すなわち対象を精神のなかで再構成することのなかに、真理の新しい基準をみいだす。この認識論にたち、人間の所産でない自然に関する科学よりも、人間のつくったものとしての歴史にもっぱら関心を向ける。人間の歴史は、人間認識の感覚、表象力、理性の三段階に呼応する三つの周期――原始的で神々の時代、詩的で英雄の時代、市民的で真に人間の時代――の絶えざる循環を通じて発展するものであり(いわゆる「コルシ」「リコルシ」の理論)、しかもこの発展はけっして運命的なものではなく、人間の自由な自己実現だとする。この歴史観は主著『新科学』(1725)のなかで述べられている。
[大谷啓治 2015年10月20日]
『清水純一・米山喜晟訳『世界の名著33 ヴィーコ』(1979・中央公論社)』
南アフリカ共和国の黒人意識運動の指導者。東ケープ州キングウィリアムズタウンに生まれる。ナタール大学在学中(1966~1972)、南アフリカ政府の人種主義政策に反対する南アフリカ学生国民連合(NUSAS)に最初参加したが、白人学生との共闘より黒人意識の変革が重要であると自覚し、1969年7月全黒人南アフリカ学生組織(SASO)を結成し、翌1970年NUSASから分裂した。以後、黒人意識運動は学生以外にも広まり、1972年には黒人会議Black People's Convention(略称BPC)が結成され、ビコは名誉会長になった。運動と並行して文筆活動を行い、同年大学を追放され、保安警察監視下でキングウィリアムズタウン内に行動は制限された。しかし文筆活動を続けたためその間たびたび逮捕され、1977年8月には五度目の逮捕で警察の拷問を受け、9月12日留置所内で死亡した。この事件が明らかになると世界各地の人々が南アフリカの人種主義政策を激しく非難した。
[林 晃史]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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