ビーティー(読み)びーてぃー(英語表記)John Hugh Marshall Beattie

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビーティー」の意味・わかりやすい解説

ビーティー
びーてぃー
John Hugh Marshall Beattie
(1915―1990)

イギリスの社会人類学者。東アフリカのニョロ人の研究および社会人類学の理論・方法論に関する論考で顕著な業績をあげた。アイルランドに生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジで哲学、とりわけカントの哲学を深く学び優秀な成績を得た。卒業後は、当時イギリスの植民地であったタンガニーカ(現、タンザニア)に1940年から行政官として赴き、タンガニーカの諸地方で勤務した。その間、現地の人々に誠意をもって接しつつ、しだいに現地の文化関心を深めた。1949年度の1年間、オックスフォード大学で社会人類学を学んだ後、官職を退き大学院に進みエバンズ・プリチャード教授の指導のもとで研究者を目ざした。1951年から1955年に延べ22か月にわたって行われたウガンダのニョロ人の現地調査の成果は、『ブニョロ――アフリカの一王国』(1960)、『ニョロ国家』(1971)などに代表される優れた著作と、多数の論文として発表された。その他にも思考形態あるいは儀礼に関する社会人類学的論考が多いのは、ニョロ人をはじめとする諸民族の豊かな文化をできるだけ深く知ることはもとより、人間経験の普遍性とその特定文化における表れを追求した結果でもあった。この哲学的・理論的関心が社会人類学教育への熱意と結びつき、『異なる文化――社会人類学の目的・方法・成果』(1964)という教科書の執筆となったが、高い評価を受け多くの国で翻訳された。オックスフォード大学では1953年から1971年まで社会人類学の講師および上級講師としてエバンズ・プリチャード教授とともに多数のアフリカ研究者を養成した。この間1956年に博士号を得ている。1971年から1974年にはオランダライデン大学で、アフリカの社会・文化人類学教授を務めた。それ以前からもアメリカをはじめ世界のいくつもの研究・教育機関から客員教授ないし研究員として招かれることが多かった。オランダから帰国後もオックスフォードに住み、1978年に妻が死亡するまで積極的に教育活動と執筆活動を続けた。

[小川正恭 2018年12月13日]

『蒲生正男・村武精一訳『社会人類学――異なる文化の論理』(1968・社会思想社)』『Bunyoro ; An African Kingdom(1960, Holt Rinehart & Winston, New York)』『Other Cultures ; Aims, Methods and Achievements in Social Anthropology(1964, Cohen & West, London)』『The Nyoro State(1971, Clarendon Press, Oxford)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ビーティー」の意味・わかりやすい解説

ビーティー
Beattie, James

[生]1735.10.25. キンカーディン,ローレンスカーク
[没]1803.8.18. アバディーン
イギリスの哲学者,詩人スコットランド学派の代表者の一人。常識哲学の立場に立ち,D.ヒュームの懐疑論に反対した。詩の領域では,ロマン主義の先駆者の一人で,未開時代のスコットランドの牧羊詩人をスペンサー連で歌った『吟遊詩人』 The Minstrel (1771~74) の作者として知られる。主著『真理の本質と不変性』 Essay on the Nature and Immutability of Truth,in Opposition to Sophistry and Scepticism (70) 。

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