集中的現地調査をもとに、異なる社会の比較研究を行う人類学の一分野。具体的には、制度化された社会行動の体系、つまり家族、親族、政治・経済組織、宗教、儀礼などについて、その機能、構造や意味を分析する。
人類学は、大航海時代に西欧勢力が世界各地に拡大して以来、非西欧社会についての情報が急激に蓄積され、それを整理体系づける学問として19世紀に生まれた。この民族誌的伝統を基盤に、イギリスで20世紀に入ってその経験実証主義的な伝統とフランス社会学とくにデュルケームの理論が結び付き、人類学者自ら現地で集中的に調査を行い、その資料に基づいて社会を分析し、その構造をモデル化するという点で目覚ましい発達を遂げた。
1922年、マリノフスキーとラドクリフ・ブラウンはそれぞれトロブリアンド島、アンダマン島における長期の調査に基づく詳細なモノグラフ(単民族誌)を出版した。これらは、ともに社会諸制度間の機能的関連を重視し、いかに社会的統合が保たれているかを、詳細な具体的事実の分析を通じて明らかにした画期的な著作であった。したがって、この年は、他人の集めた不確かな資料をもとに制度の起源や文化の伝播(でんぱ)を推測する進化主義や文化圏説とはまったく異質の、人類学の新しい領域である社会人類学の誕生を告げる記念すべき年となった。マリノフスキーの機能主義は、たとえば、一見したところ前世紀の遺習にみえるものも、それが現に存在している限りなんらかの機能を果たしているように、社会のあらゆる制度が相互に機能的関連を有しているという前提にたつ。彼が手本を示した社会人類学的調査は、長期間(最低1年)研究者が住民とともに生活し、現地語や習慣を習得しながら参与観察により資料を収集するものである。ラドクリフ・ブラウンの構造主義は、現実の社会関係から構造的形式を抽出することによって異なる社会の制度間の比較を行い法則性の追究を行おうとするものであった。この2人の調査技術と機能構造主義理論を身につけた弟子たちが1930年代から1950年代にかけて、アフリカを主要なフィールドとしつつ、世界各地における本格的なモノグラフとそれに基づく理論的研究を積み重ねていった。
しかし1950年代になると、ラドクリフ・ブラウン流の社会統合の調和的側面の強調、社会人類学のモデルを自然科学に求めたこと、そして歴史的変化の過程への関心の薄さへの反省が内部からもおこった。エバンズ・プリチャードは、社会人類学と歴史学の方法の類似性を指摘、社会人類学が自然科学より人文科学に近いとした。L・M・ファースは早くから個人の選択を重視していたが、1950年代盛んになったオセアニア地域を中心にした選系出自論についての有力な論客の一人であった。グラックマンは、予定調和的な構造主義の限界内ではあるが、紛争や対立という現象に関心を示し、状況分析やネットワーク(個人関係の網の目)論の源流となっている。E・リーチは、社会を硬直した構造としてとらえることに反対し、ミャンマー(ビルマ)の農耕民カチンのモノグラフで、個人の利害に基づく相互作用が、一時的に均衡をもたらし体系を成立させていても、つねに変化の可能性をもっている動態的モデルを提出した。こうした多様な方向への展開を示した第2世代も、綿密な調査資料の記述のうちに、具体的事実と理論的分析との対応関係が明示されているモノグラフを著している点では共通している。
1970年代には、機能構造主義のもっとも忠実な後継者であるフォーテスも含め第2世代が現役を退き、新たなる転機を迎えた。フランスのレビ(レヴィ)・ストロースの婚姻連帯理論、シンボリズム研究の影響、インド研究や、フリードマンMaurice Freedman(1920―1975)の中国研究にすでにみられた文明社会の本格的研究の増大、非西欧出身の研究者の増加などを新しい傾向としてあげることができよう。
こうした社会人類学の真髄に触れるには、概論書を数多く読むより本格的なモノグラフを一冊通読することがもっとも確実な早道である。
[末成道男]
1980年代以降の社会人類学の大きな特徴として「――主義の終焉(しゅうえん)」があげられる。これまで社会人類学では、進化主義、伝播主義、機能主義、機能構造主義、構造主義といったそのときどきの社会人類学を代表し、この学問の流れを方向づける理論的パラダイム(一般の範例となるような業績、考え方の枠組み)が次々と生み出されてきた。しかし、エバンズ・プリチャード、グラックマン、ファース、フォーテス、リーチなど第2世代の「巨人」が相次いで現役を退いていった1970年代末以降、社会人類学は学問の流れを方向づけるような普遍的な大理論の構築を目ざすよりも、むしろそれぞれの社会や文化の個別性を強調し、それをどう記述するかということを重視するようになってきた。こうした個別化の流れのなかにあって、ニーダムは「人間の思考の性癖」の追求という人類の普遍的な問題に取り組んできたが、彼に続こうとする動きはこれまでのところ出てきていないようである。
また、1980年代には「機能から意味へ」「説明から記述へ」という考え方が強調されるようになったことを受けて、社会人類学者が自分たちの行っていることを省みるいわゆる「省察人類学」が盛んになった。それまで、社会人類学者は調査地でインフォーマント(情報提供者)から得た資料をもとにして、その社会に存在する社会制度、規則、慣習等の機能を説明することに重点を置いてきた。しかし、「省察人類学」では、いかなる制度も規則も慣習も、それらに意味を与えるコンテクスト(周囲の状況、文化的背景)から離れては実体をもちえず、その意味というものは調査者とインフォーマントが互いに調査し調査される過程において共同で構築していくものであり、それゆえ絶えず変化していく可能性があるものである、と考える。したがって、社会人類学者が行うのは制度や規則や慣習の機能の説明ではなく、これらに与えられる意味がつくりだされていく過程の記述であり、社会人類学者はこの過程に参加している自分自身を省みることが必要となってくるのである。この「省察人類学」と並んで、それまであまり注意を払われることのなかった、人類学者が「民族誌」を書くという行為のもつ意味やそれに伴うさまざまな問題が重要視されるようになってきた。
このほかの近年の動向としては、ヨーロッパ地域研究の増加やジェンダー(社会的、文化的な性差)、エスニシティ(民族性)、ナショナリズム、移民、都市、開発、医療、環境といった現代社会の諸問題と強くかかわりをもつ分野の研究の増大があげられる。
[仲川裕里]
『B・K・マリノフスキー著、寺田和夫・増田義郎訳『西太平洋の遠洋航海者』(『世界の名著59 マリノフスキー、レヴィ=ストロース』所収・1967・中央公論社)』▽『D・F・ポコック著、末成道男訳『社会人類学入門――その思想的背景』(1970・弘文堂)』▽『エバンズ・プリチャード著、向井元子訳『ヌアー族――ナイル系一民族の生業形態と政治制度の調査記録』(1978・岩波書店)』▽『中根千枝著『社会人類学』(1987・東京大学出版会)』▽『J・クリフォード、G・マーカス著、春日直樹他訳『文化を書く』(1996・紀伊國屋書店)』▽『Parkin,D(ed.):Semantic Anthropology(1982,Academic Press,London&New York)』▽『Holy,L(ed.):Comparative Anthropology(1987,Blackwells,Oxford)』▽『Ahmed,A.and Shore,C:The Future of Anthropology(1995,the Athlone press,London)』
社会人類学とは何であるかを説明するとき,最初に問題となるのは文化人類学との関係,または相違である。社会人類学を一つの学問分野と考えると,それには二つのとらえ方がある。一つは,社会人類学は考古学や言語学を含んだ広義の文化人類学の一部門であるとするもの,もう一つは,文化とそのさまざまな現れを研究対象とする文化人類学に対し,社会関係や社会構造を問題とする別個の学問分野であるとするものである。前者は主としてアメリカの文化人類学におけるとらえ方であり,後者はイギリスの社会人類学者に多い見方である。しかし学説史的にも,また現在の2者を比較した場合でも,この両者を研究対象,方法論において明確に区別することはできない。実際にあるのは,社会人類学的あるいは文化人類学的とみなすことのできるいくつかの特徴,そして社会人類学者,文化人類学者と自称する人々であって,それ以上のものではない。言い換えれば,現在では社会人類学を,そして文化人類学も,一つの学問分野と考えるよりも,人間に関する学問(人類学)の一つの学派と考えたほうがよい,ということである。
社会人類学を一つの学派として見たとき,それはイギリス流構造機能主義と,少なくともある時期までは同義であった。この学派は1920年代の初めから活躍しだしたマリノフスキーとラドクリフ・ブラウンという,その理論的方向が決して同じではなく,あるときには対立的でもあった2人をその祖として始まった。それぞれの最初の主たる著作(マリノフスキーの《西太平洋の航海者たち》,ラドクリフ・ブラウンの《アンダマン島人》)を同じ年(1922)に出版した後,20年代,30年代には,マリノフスキーはイギリスにおいて,ラドクリフ・ブラウンは南アフリカ,オーストラリア,アメリカにおいてそれぞれ研究活動を続けるとともに,後進の指導,言い換えれば社会人類学者の育成を行った。その結果,エバンズ・プリチャード,R.ファース,M.グラックマン,M.フォーテス,E.R.リーチ,といった多くの俊秀が育った。また,ラドクリフ・ブラウンのシカゴ時代の指導により,F.エガンをはじめとする社会人類学の一派がアメリカに形成されたことも見のがせない。マリノフスキーが42年に亡くなり,イギリスに戻っていたラドクリフ・ブラウンの活動もその盛りを過ぎてきた第2次世界大戦後,彼らに取って代わったのが前記の一群の研究者たちであった。大戦前からのオセアニアやアフリカにおける調査活動が,戦時中の情報収集活動という形をも取りつつ,引き続いて行われ,それが大戦後,主として親族関係や社会構造に関する論文,著作となって一挙に発表されたのであった。彼らはまた,戦後になって完全に認知,確立されるに至った社会人類学の,イギリスの各大学における実質的には最初の教授として,この学の振興を図った。40年代,50年代は,イギリス社会人類学の最盛期であり,理論的には低迷していたアメリカの学界や,ヨーロッパ大陸各国の戦前からの伝統を持った民族学の分野にも多大の影響を及ぼした。
社会人類学の特徴は,分析の結果得られた仮説よりも,分析の方法または従来の他の学問による理論に対する方法論的懐疑に多く存する。マリノフスキーとラドクリフ・ブラウンという理論的には一致をみない2人が,同じ学派の祖と考えられうるのは,彼らが行い,提唱した調査と分析の方法が次の3点においてほぼ一致するからである。(1)対象は小さな社会,あるいは大きな社会の中の小さな独立性のある共同体であること。(2)調査は対象地域に長期間住み込み,参与観察participant observationという,調査者自身も対象の社会の生活の流れの中に身を置き,その中に視点を持つ形で行われること。(3)分析は,当該の社会の各制度や要素がいかなる機能をもって統合された社会システムを構成し,かついかに働いているかを探るところにあること。最初の2点は,それまでの人類学における,広い地域にわたる資料収集と比較的短期間の調査行というスタイルについての反省として,第3点もまた,それまでの文化伝播の経路や先史時代の再構成という問題設定への批判として出てきたのである。最初の2点はマリノフスキーのトロブリアンド諸島の調査がその祖型となり,第3点,すなわち構造-機能論はラドクリフ・ブラウンによって,究極的には自然科学の持つ厳密性と整合性を範型とする方向に突き詰められた。
このような方法と立場から小規模社会を見るとき,前世紀からもっぱら,その中の奇異な習俗と奇妙な呼称の体系に注意が払われていた親族関係が,社会システムの基礎として新たに分析の中心的課題となったのは論理的必然であった。そして親族関係の奇異に見えた諸点が,社会の内部の他の要素や制度との関連の中で,いかに(正当に)機能しているかを解くとき,社会人類学,つまり構造機能論は最もよくその強さを発揮したといえる。しかし構造機能論の弱さは当初からその方法の中にあった。対象を小さな社会に限ったとき,それは規模だけを問題としたのではなく,その社会の他からの独立性と自律性を同時に前提として設定していた。また,システムの中での機能の連関を問題とするとき,〈いかに機能しているか〉を説き明かすために,〈なぜそのように機能するか〉〈なぜそうなるに至ったか〉という問いは犠牲にされた。換言すれば,分析によって明らかにされた社会のシステムは,社会的空間の中で他の社会やより大きいシステムから切り離され,また歴史的時間においてその社会の過去や未来との関係が不問に付された,ある一時点における一個の静態的モデルとして理解されているのである。ここに構造機能論を中心に置いた社会人類学の問題点があり,そしてこれに対する批判が新たな出発の契機となった。
上述の社会人類学の抱えた問題に関する論争は多岐を極めるが,その後の発展をも視野に入れると,次の二つに整理できる。第1は,その〈構造〉と〈機能的説明〉に関するものである。これは主としてフランスとオランダの構造主義からの影響・批判として起きた。すなわち社会人類学における〈構造〉が,社会関係の実体としての構造なのか,社会関係を理解する際の抽象的モデルであるのか,不明瞭であること。そこに起因して,ある構造の中で,要素や制度が連関しながら社会システムに対してそれぞれ必要なる機能を果たしていると説明するとき,その構造が実体ならば,整合的に説明すればするほどその社会は硬直化した機械のようになり,その結果この整合的な社会システムはいかなる社会変化とも両立しえないものになってしまうし,構造が抽象的モデルであるならば,機能的説明は構造と機能があらかじめ互いにそうあるべく設定されているのだから,循環論に陥ってしまう。これらの批判に対し動態的モデル,すなわち社会的行為の過程を明らかにする試みが出され,また他の同様の社会やそのモデルとの比較の問題も再検討され,現在もなお社会人類学の最も強い関心が向けられている領域の一つとなっている。
第2は,社会人類学における〈歴史〉の復権の問題である。これは第1の問題における時間的変化と関係する。社会人類学の初期において,それが目的ではなかったにせよ,方法論的に歴史を捨象していたことは明らかであるし,そのことに気づいた後も,歴史あるいは時間的な社会変化は,社会人類学の不得手な領域であった。これに対して,調査自体を継続的に行う,また調査を歴史的資料の中で行い,変化の諸相を分析の対象に取る,といった新たな研究の方法がすでに始まっている。また,マルクス主義理論の新たな応用ということも近年活発になってきている。
以上の批判と模索を行いながら,他方,現在の社会人類学は,やはり1960年代のレビ・ストロースの構造主義的分析,ことに世界観,神話の研究に多く触発され,儀礼,シンボリズム等,人々の観念に焦点を持つ問題に見るべき成果を挙げている。イギリスという一地方の学者サークルと揶揄(やゆ)された社会人類学の一側面は,前述の外部からの批判とそれへの内部からの対応,そして新たな対象領域への進出などによって消えつつあり,アメリカ,ヨーロッパ大陸などの他の人類学の学派との交流によって,より弾力のある学的伝統になりつつある。
→人類学 →文化人類学 →民族学
執筆者:船曳 建夫
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…ドイツ流の学風の影響を強くこうむってきた第2次大戦前の日本でも,そうした用法が踏襲され,その傾向は,文化人類学という名称がかなり一般化した今日でも,〈日本民族学会〉〈国立民族学博物館〉などの名まえにみるとおり,なお根強いものがある。 ヨーロッパでもイギリスでは,人間の自然・文化両面を総合して研究する人類学に対して,とくに文化面を対象とする部門に文化人類学という名称が使われたこともあったが,後に述べる理由によって,現在では社会人類学の名称が用いられている。この場合,社会人類学は個別の独立科学であって,人類学の下位部門を構成するものとは考えられていない。…
※「社会人類学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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