改訂新版 世界大百科事典 「プライベートプレス」の意味・わかりやすい解説
プライベート・プレス
private press
私家版印刷所。イギリスの彫刻家E.ギルは〈一般の商業印刷は,出版社など得意先の注文に応じて仕事をするが,プライベート・プレスは印刷(出版)すべきものをみずから選定し,いっさいを機械力に頼らず,製作品に美術的な要素をもつように心がける〉という。すなわち,プライベート・プレスは多くの場合,商業印刷のように営利を目的とせず,小さな印刷工房をもち,みずから出版すべき本を選定し,発行部数を限定,活字は工房特定の書体のものを用い,用紙は特漉の手漉紙を使用,組版は手組み,印刷はハンドプレスによる手刷り,装丁・製本等も材料ともども特殊入念なものとすることをたてまえとする。
19世紀末から20世紀初期にかけてイギリスで活躍したW.モリス主宰のケルムスコット・プレス,およびコブデン・サンダーソンThomas J.Cobden-Sanderson(1840-1922)のダブズ・プレスDoves Press,ホーンビーC.H.St.John Hornby(1868-1933)のアシェンデン・プレスAshenden Pressの三つは三大プライベート・プレスとして挙げられる。19世紀のイギリスでは産業革命の進行とともに,それまで培われてきた手工業はしだいに圧迫されていった。書物生産もその例に漏れず,機械化されスピード化され安直化されていった。W.モリスは,これらは書物に質的堕落をもたらすものとして排し,ウォーカーEmery Walker(1851-1933)の協力を得てケルムスコット・プレスを設立,近代的コマーシャリズムの特徴であり,欠点である大量生産による粗製乱造とはまったく反対の,手作業を主とした小規模ではあるが,中世的美意識のあらわれともいうべき不朽の精選作品を生み出した。コブデン・サンダーソン,ホーンビーの場合も同じようなことがいえる。またウォーカーは印刷,写真,写真製版のすぐれた研究家であり,また美術・文芸評論家としても著名で,モリスとは友情で結ばれ,モリスの次女メイ・モリスは〈もしウォーカーなかりせば,ケルムスコット・プレスはいかなる形においても存在しなかったろう〉と述べている。1931年には印刷芸術への貢献により印刷家として初めてナイトに叙せられた。
ダブズ・プレス
コブデン・サンダーソンはイギリス中流階級の生れで,ケンブリッジ大学で医学と神学を学び,その後,弁護士を志し,法律と文学を学んだ。隣人のモリス夫人のすすめで手工製本術hand book-bindingの習得を志し,ロンドンの著名な製本家ロジャー・カバリーに弟子入りし,数年後に独立してダブズ製本工房を設立,手作りの総革製本に従った。1893年3月までに143点の作品を発表しているが,表紙のデザインはいずれも独創的なもので,金箔押しと空押し(からおし)を組み合わせ,格調が高く,調和がとれ,19世紀のイギリスにおける最も偉大な製本家と称された。彼はモリスの死後その衣鉢を継ぎ,1900年ウォーカーと共同でダブズ・プレスを設立,プレス専用のダブズ体活字を用い,01-16年の間に51点,56巻の本を印行した。代表作の《ダブズ・バイブル》5巻(1903-05)は,刊本では世界の三大美書の一つと称されたが,コリン・フランクリンは〈イギリスのプライベート・プレスの初期の傑作の一つ〉くらいが適切であろうと述べている。コブデン・サンダーソンはのちに仕事上のことでウォーカーと不仲となり,第1次世界大戦中の17年7月,プレスを閉鎖するにあたり,ダブズ体活字を他に流用されることをおそれ,ダブズ体活字の父型と母型をテムズ川の川底に沈めてしまった。
アシェンデン・プレス
イギリスの出版社スミス父子会社の支配人であったホーンビーの始めたアシェンデン・プレスは,勤務の余暇を利用し,妻や妹たちの手助けを借りて始めたものである。第1次世界大戦中の一時中断を除き,1895-1935年間に主要刊本40点,小冊子類13点,合計53点54巻を印行した。ホーンビーもモリスやコブデン・サンダーソンと同じく印刷にはしろうとだったので,初期にはウォーカーやその他の専門家の助言を受けた。はじめは30~50部ほどのきわめて少部数の印行で,私的に配付するにとどめたが,のちには《ダンテ著作集》をはじめセルバンテスの《ドン・キホーテ》,ボッカッチョの《デカメロン》など世界的に著名で重厚な本も印行した。ほとんどは限定250部以下のものばかりである。
日本でのプライベート・プレス(本)
ケルムスコット・プレスの刊本の全冊そろいは,第2次大戦後に日本に入り,国立国会図書館など3ヵ所が所蔵し,《チョーサー著作集》の総豚皮特別装丁本(ダブズ製本工房製作,限定48部)は東京大学付属図書館など3ヵ所が所蔵する。そのほか,三大プライベート・プレスの刊本はふぞろいながら,かなり多数のものが公私の大学や図書館,個人の研究家・愛好家のもとに所蔵されている。
日本では漢字を含め多数の文字を使用するため,海外のようなプライベート・プレス(私家版)は育ち難かったが皆無ではない。いわゆる〈古活字版〉の一つの後陽成天皇の慶長勅版をはじめ,各寺院版,キリシタン版,嵯峨本(光悦本)なども一種の私家版といえよう。また日本では江戸時代に多くの書肆(本屋)の発生をみたが,太田全斎著《韓非子翼毳(よくぜい)》20巻(限定20部),林子平著《海国兵談》16巻などはいずれも私家版ということができよう。現代でも寿岳文章の向日庵,日本愛書会,柳宗悦(やなぎむねよし)などの私家版は著名である。
執筆者:庄司 浅水
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報