( 1 )明治末期、装本の美術工芸的要素が強まるにつれ、「製本」にかわって装い釘(てい)じる意の中国風の熟字「装釘」が使われたのがはじまり(新村出「装釘か装幀か」)。
( 2 )「装幀」は書画を掛け物や額に仕立てること。「幀」は本来「とう(たう)」であるが、慣用によって当てる。
( 3 )「装丁」という表記は、昭和三一年(一九五六)の国語審議会報告「同音の漢字による書きかえについて」で決められたもの。
書物を形づくること,その方法をいう言葉。長沢規矩也著《図書学辞典》(1979)によれば,装幀とは書画を掛物や額に仕立てることで,〈装訂〉と書くのが正しく,訂はきちんとまとめる意,とあるが,訂は一部でしか使われていない。常用漢字のなかに幀がないので,音だけ当てて丁を用いることが多い。〈装幀〉という言葉が本来の意味を離れて,いわば誤用が定着してしまった原因の一つには,和装本の表紙づくりや裏打ちの仕事が,書画を表装する仕事と似通っていたこともあげられよう。書物の大部分が工場の機械によって大量生産される現代では,言葉に本来含まれていた〈製本〉に相当する意味は失われ,ブックデザインの同義語として用いられている。しかし〈装丁〉の定義は必ずしも明確ではなく,ジャケット(いわゆるカバー)デザインのみを指していわれる場合もあり,また〈趣味の装丁〉などのように〈手製本〉の意味で使われている事例もある。
デザインの対象となるのは,ジャケットや表紙ばかりではない。著者から出版者に渡された原稿が,書物という品物の形になるまでの間には,多くの造型的要素がある。装丁者はそれらを書物の内容と条件にふさわしい意匠として一つにまとめ上げる。具体的には,本の判型,造本・体裁,本文活字の組み方,余白の取り方,扉・見返し・表紙・ジャケット・箱などのデザインと材料,帯や花ぎれの色に至るまで,つくろうとしている本のために一つ一つを選び,あるいは考案して,設計図を書き指示を与える。必要があれば絵や写真,タイトル文字,仕上り見本などもそえて設計図を出版者に渡す。書物はこの指示に従って工場で印刷・製本される。現状は,以上の作業のうち半分以上が出版者側で決定されるのが普通である。
最も古い形態,木簡や粘土板を省略していうと,書物と呼ばれるものの最初の形は,洋の東西を問わず巻子本(かんすぼん)であった。中国では1~2世紀にかけて,それまでの絹帛に代わって紙を書写材料とするようになり,継紙(つぎがみ)の形を経て,巻子本に仕立てられるようになっていった。また古代エジプトのパピルスは早くから,両端に細い軸をつけて巻物に仕立てられた。これは,パピルスの繊維は折り曲げると切れやすかったためである。パピルスはギリシア時代からヨーロッパへ入っていたが,高価であり,代用品として獣皮を薄くなめして書写材料とするようになっていった。早くから良質の紙を材料として用いることができた東洋と,主に羊皮紙やベラム(子牛の皮をなめしたもの)を書写材料とせざるをえなかった西洋とでは,書物造型の歴史も異なった経過をたどる。ヨーロッパ人による最初の紙づくりの成功は12世紀のことであり,書物の材料として一般化するには,なお数百年の歳月が必要であった。皮紙はつなぎ合わせて巻子本に仕立てるには不向きだったので,二つ折にした皮紙を重ね,折り目の内側に糸を渡してとじ合わせ連結してゆく方法が考案される。これが洋式製本の原型であり,紙が自由に使えるようになっても,原理的にはこの製本方法は変わらず今日に及び,全世界の書物の形態としてゆき渡っているのである。
皮紙による最初の冊子型の書物はコデックスと呼ばれるもので,巻子本から冊子型への移行は,2世紀の半ばごろからはじまり4世紀にほぼ完了する。両面に文字を記した皮紙をとじ合わせ,同じ皮紙の1枚表紙で覆っただけのごく簡素なものだが,コプト人の墓から発見された製作年代6世紀ごろと推定されるものには,表紙に簡単な模様と縁どり線を型押ししたものもあるという。やがて表紙には木の厚板がとじつけられるようになる。皮紙が湿気を帯びて波うつのを防ぐために,留金つきの固く重い表紙で保護する必要があったためで,木の表紙であったからこそ,そこに金銀・象牙細工,宝石などを留めつけて飾ることができた。西欧の書物造型史家のほとんどは,工芸としての書物造型の起点を,この中世の〈金銀細工の装丁本〉に置いている。15世紀の半ばごろまでつくられていたこのまばゆいばかりに飾りたてられた書物は,書物というよりは教会の備品の一部と考えたほうが適当で,本文の書写や製本も修道院内で修道士たちの手によってなされた。この時代に書物らしい書物がなかったわけではなく,修道士たちが使うものとして,より質素な革装本もあった。ほとんどが表紙に簡単な模様を空押し(からおし)しただけのものである。きらびやかな金銀細工本のかげで目だたないが,後にヨーロッパの伝統工芸としての製本の主役になるのは,このじみな革装本の系列なのである。他にわずかながらビロードや絹の布装本もあったが,素材の弱さのために,現存するものはきわめて少ない。
15世紀中葉に発明された印刷術と,それに先立つ製紙法の伝来,この2者の普及は,書物の姿を大きく変える。書物は飛躍的に数が増え,軽く小さくなって持運びや保管に便利になり,費用も安くなる。結果として商品化,つまり神のものから人間の所有物へという変化を明確にしはじめる。書物を売るということは,その後数世紀にわたって,印刷された紙葉を売ることであったのを忘れてはならない。この時期それを買うことができたのは限られた階級の人たちであった。彼らはそれぞれ専属の製本師をもち,自分の所有物であることが一見してわかるような装飾を書物の表紙に刻印させた。表紙装飾は,所有者の地位や富や趣味の良さを誇示するためにくふうを凝らしたものになる。精巧な模様の金箔押しや,別色の革をはめこむモザイクの技法など,現代の製本工芸にみられる技術の基本は,ほとんどすべてこの時代に出つくしたといってよい。金箔押しの技法は,イスラムの世界からイタリアに入り,東西文明の合流点であったベネチアを中心としてめざましい発達をとげた後,ヨーロッパ各国に伝えられる。製本技術と表紙装飾の両面からみて,イタリアはこの時代の最先端をゆく国であった。ドイツではかなり長い間中世風の本づくりが続けられ,金箔押しの技法が導入された後も,空押しによる装飾を好む傾向があったようである。金箔押しの装飾はイギリスでも広く用いられたが,エリザベス1世は革装本よりもビロードや刺繡した布による装本を好んだと伝えられている。また,背バンドはイギリス,ドイツの書物に他の国よりも長く残される。
フランス史上の有名な人物とはけっしていえないが,書物工芸の歴史のうえでは欠くことのできない愛書家グロリエJean Grolier(1479-1565)は,フランス軍および政府の財務官として1510年から20年代にかけてミラノ公国に駐留し,〈グロリエ式装丁〉として有名な多くの蔵書をつくらせた。様式はいくつかあるが,よく知られているのは茶褐色の子牛革かモロッコ革に幾何学的な〈交差テープ文様〉と小さな花形を組み合わせて金箔押しで表し,中央の空間にタイトル,下方に〈ジャン・グロリエとその友らのものIO.GROLIERII ET AMICORVM〉の銘文を入れたものである。複雑に交差し,からみ合ったテープに,色パテで彩色をほどこしたものもある。後にこの手法が色革のモザイクに発展する。3000冊あったといわれるグロリエの蔵書は約500点しか現存しないが,これらの制作年代はほぼ50年間にわたるものであり,ルネサンス期の装飾様式のすべてをみることができるといわれている。グロリエが帰国後フランスにもたらしたものは大きく,ルネサンス期以後はフランスが製本工芸の発展の中心となり,現代美術の表現形式の一つと認められるまでに技術と芸術性を高めた。20世紀最大の製本家といわれるボネPaul Bonet(1889-1971)をはじめ数多くの著名な製本家を生んでいる。
産業革命以後の書物造型の歴史は,複製技術としての印刷の進歩に伴う外見上の美しさは別として,製本面では堕落の一途をたどるといってもいいすぎではない。増加する一方の製本需要に対処するのにかっこうな簡易製本(くるみ製本case binding)が出現し,しだいにほとんどの書物がこの方法で製本されてから版元を出ることになってゆく。外見の差はわずかだが,決定的な違いは,それまでの書物が〈とじつけ〉と呼ばれる名のとおり,強い麻糸にかかえこまれた背とじひも(かがり糸と直角に交差し,背の外側に3~5本通っている)を,表紙の芯紙(カルトン)にあけた穴に通し,しっかりととじつけてあるのに対し,くるみ製本は表紙と中身を別々につくる。中身と表紙をつなぐものは,本の背にはりつけられた薄い寒冷紗と本文の端に3mmほどののりしろでつけてある見返し紙だけである。この方法の開発によって,書物は早く安く同じ物を大量に生産することが可能になったが,反面,比較にならないくらいじょうぶさの点で劣るものになった。1820年代にブッククロス(製本装丁用の布)が使われるようになり,32年ごろクロスへの箔押し法が発明されると,本格的な機械製本の時代がはじまる。現在ではほとんどの書物の製本に,この方法を取り入れている。
しかし,版元製本,機械製本を早い時期に取り入れて一般化したのは,主としてイギリスとドイツであって,他のヨーロッパの国々,とくにフランスでは,ごく最近まで版元製本は一般的なことにならなかった。薄い一枚続きの紙で中身をくるんだだけの〈仮とじ本〉を買い,アンカットのページを自分で切り開きながら読み,読み終わったものを蔵書として個人的に革装本に仕立てさせるという習慣は,20世紀に入っても続いていたし,現在でも文学書の多くは仮とじ本のまま売られている。中身の2倍よりずっと大きい紙の天地左右をなかに折りこみ,細くチリが出るようにして表紙にしたものを〈フランス装〉と呼ぶのは,これがフランスの仮とじ本の形の一つとして用いられているからである。
7世紀のはじめに中国から製紙法を伝えられた日本の書物造型の歴史は,中国と同じ流れをたどる。巻子本から折本,旋風葉,粘葉(でつちよう)装を経て14世紀ごろに,東洋型製本の定型というべき〈線縫(せんぽう)(袋とじ)〉に到達するのであるが,他に日本独自のものとして,洋本のとじ方によく似た形の〈大和綴(やまととじ)〉と呼ばれるものもあった。この名称についてはさまざまな異論があるが,田中敬著《粘葉考》(1912)に周到な考証をみることができる。現存する巻子本のなかで《平家納経》は他に例をみないほど手のこんだ水晶や金銀透し彫細工の美しさで知られている。冊子形態のものでは,破りつぎなどの料紙のみごとさで有名な《三十六人集》,刊本では〈嵯峨本(光悦本)〉の装丁が群をぬいている。
洋式製本術が日本に伝えられたのは1873年のことである。約30年の過渡期を経て,洋本仕立てのものが書物の主流を占めるようになる。和本から洋本への切りかえは,日本の書物造型の歴史が通過した最大の曲り角であった。この転換,また手仕事から機械による分業生産へと,時の流れに応じた変化がなかったら,〈装丁〉の定義の混乱は起きなかったであろう。日本に洋本の技術を伝えたイギリスは,いち早く版元製本,機械製本を定着させた国であった。そのため日本にはそれ以前の個人製本時代の習慣は伝わらず,日本の洋式製本の歴史は版元製本からはじまった。科学技術の進歩とともに製本機も急速な発達をする。現在は本の背を糸でかがることさえ少なくなり,全自動無線とじ製本機が1時間に何万冊もの書物を生産している時代である。
フランスを中心にまもられてきた個人製本は,実用性から離れてより深く純粋に芸術の領域に入ったといえる。時代の波に流され消えてゆくかにみえた一時期もあったが,近年他の手仕事や手工芸と同様に各国で人々の人気を集めており,個展や国際展が開かれることも多くなった。
装丁,ブックバインディングbookbinding,ルリユールreliureは,もとは同じ意味内容をもつ言葉であった。今日普通に使われるフランス語でルリユールといえば〈製本工芸〉のことである。量産本の製本をいうときには〈普通のcourante〉とか〈機械でするà la machine〉〈工業的industrielle〉などの語をreliureの後につけ加える。一方,ブックバインディングは日本語の〈製本〉と同義であり,製本工芸に当たる語はなく,hand bookbindingやart of bindingが使われているようである。ルリユールは語尾を変えるだけ(relieur(euse))で製本家を意味するが,英語ではデザイナー・ブックバインダーという。フランス語にはブックデザインに相当する語がない。この三語三様の変化に,それぞれの国の人々と書物とのかかわり方,書物造型の歴史が表れている。
→製本 →本
執筆者:栃折 久美子
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出版物の表紙、見返し、扉などの体裁をつくり、外形を整えること、また、そのデザイン。装本ともいう。
[編集部]
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