プロレタリア映画(読み)プロレタリアえいが

改訂新版 世界大百科事典 「プロレタリア映画」の意味・わかりやすい解説

プロレタリア映画 (プロレタリアえいが)

プロレタリア階級の手によってつくられるプロレタリア階級のための映画の総称で,1918年にレーニンが初代教育人民委員A.V.ルナチャルスキーとの対話のなかで〈われわれにとってもっとも重要なものは映画である〉といったことがその出発点となった。すなわち,映画は資本家階級の手に握られた場合は〈ブルジョア的思想の宣伝手段〉となり〈大衆への阿片〉となるが,労働者階級の手のなかでは〈人民解放のための武器〉となるということが十月革命(1917)以後はっきりと認識されて,ソビエト映画の歴史が形成されていくことになるのである(詳しくは〈ソビエト映画〉の項目を参照)。ソ連に次いで,東欧諸国,中国においても,同じように映画の獲得が,プロレタリア階級の大きな文化的目標となって映画史が形づくられることになるが,ドイツや日本ではそれが商業主義と結びついて〈傾向映画〉と呼ばれる屈折した流れとなった。以下,ここでは日本映画史に独自の重要な地位を占める〈傾向映画〉について述べることとする。

〈傾向映画〉とは,資本主義的な企業のなかでつくられながら,社会主義的あるいは左翼的イデオロギーに〈傾向〉した昭和初期(1920年代末から30年代初頭)の日本映画の流れで,left-wing tendency filmあるいは単にtendency filmとの英訳もされるが,呼称の語源は1920年代後半の一群のドイツ映画(ナチスが政権をとって民主的な企画が弾圧されるまでつづいた),すなわちG.W.パプスト監督《喜びなき街》(1925),ゲアハルト・ランプレヒト監督《第五階級》(1925)等々に冠せられたTendenzfilmの直訳といわれる。

 〈傾向映画〉は,アメリカ映画一辺倒だった日本映画が,初めてヨーロッパ映画,とくにソビエト映画の〈モンタージュ〉の手法の影響を受けてつくられたもの(筈見恒夫《映画五十年史》)であると同時に,築地小劇場による新劇運動マルクスの《資本論》の翻訳,プロレタリア芸術運動の組織化(1928年には〈全日本無産者芸術連盟(ナップ)〉が結成)など,知識的小市民層の〈左傾〉が社会的現象になってきた時代の産物でもあった。その先鞭をつけたのは,当時29歳の青年監督伊藤大輔が,封建時代の下郎を主人公にして社会的不正,階級制度を痛烈に批判した時代劇《下郎》(1927)である。この映画が,当時〈危険思想〉といわれた社会主義的イデオロギーにつらぬかれているということから,初めて〈イデオロギー映画〉あるいは〈傾向映画〉と呼ばれた。しかし,〈傾向映画〉ということばが真にジャーナリズムに乗るのは,プロレタリア作家,片岡鉄兵(1894-1944)の新聞連載小説を映画化した内田吐夢監督の《生ける人形》(1929)がヒットしてからである。左翼思想といっても時流に乗った形式的なものであったと内田吐夢はのちに回顧しているが,地方から東京へ出てきて打算的な立身出世主義を処世哲学とする野心的な1人の青年が,生きている人形のように翻弄(ほんろう)される無残な姿を描いて,資本主義社会の巨大なからくりと冷酷さをあばいた映画であった。つづいて,《幕末五剣録》を構想していた伊藤大輔が,幕末という思想的激動期を迎えて苦悩する良心的知識人ともいうべき幕臣の悲劇を描いた《一殺多生剣》(1929),圧制に苦しむ農民の封建的支配制度に対する反抗を,領主の御家騒動をからませながら〈抵抗のドラマ〉として描いた《斬人斬馬剣(ざんじんざんばけん)》(1929)をつくり,失業武士の生活苦と反抗意識を描いた辻吉朗(1892-1945)監督の《傘張剣法》(1929),林房雄,片岡鉄兵といったプロレタリア作家が脚本に参加して〈怠惰なる有閑階級〉と〈誠実なる労働者階級〉との対比を描いた溝口健二監督《都会交響楽》(1929)などがつくられた。1928年末に結成された〈プロキノ(日本プロレタリア映画同盟)〉が活動を開始するのも,上記の作品群がつくられたのと同じ29年であった。

 〈傾向映画〉の頂点は,翌30年の鈴木重吉監督《何が彼女をさうさせたか》の大ヒットで,東京の興行の中心街であった浅草では5週間続映という当時としては例外的な記録をつくった。これはプロレタリア作家藤森成吉の同名の戯曲の映画化で,孤児院で育ち,冷酷な社会にしいたげられた1人の少女が,最後には放火犯として逮捕されるという苦難の道を描き,真の犯罪者は〈彼女〉ではなく矛盾と虚偽に満ちた〈社会〉であると弾劾するものであった。この年には片岡鉄兵原作,阿部豊監督《女性讃》,ロシアの女流作家エリーザ・オルゼシェンコ作《寡婦マルタ》を翻案した田坂具隆監督《この母を見よ》,村田実監督《ミスター・ニッポン》,内田吐夢監督《ミス・ニッポン》,農民一揆を描いた小石栄一監督《挑戦》,ラファエル・サバティニの小説《スカラムーシュ》を翻案した辻吉朗監督《維新暗流史》等々がつくられて話題を呼んだが,これらの〈危険思想〉をはらむとされた〈傾向映画〉に対して,当局は検閲制度というかたちで圧迫を加え,多くの〈傾向映画〉が〈内務省警保局活動写真フィルム検閲係〉の干渉を受け,すくなからぬ削除や改訂を強要され,また,撮影不能に追い込まれる脚本もあった。しかし,〈傾向映画〉はそもそも企業映画会社の撮影所のなかの現象で,会社の同意を前提にしてはじめて存在しえたものであり,左翼思想が流行した時代の流れに迎合便乗した企業会社が資本家的な打算から金もうけのためにつくったものであったから,会社が当局の政治的圧力を甘受するとともにたちまち退潮のきざしを見せ,翌31年には,時流に乗ることを拒んでいた松竹の唯一の〈傾向映画〉といわれる細田民樹原作,島津保次郎監督《生活線ABC》,そして由井正雪事件の後日譚として失業浪人のグループを描き,エイゼンシテインの《全線--古きものと新しきもの》(1929)のモンタージュを活用したものの,〈遅刻した傾向映画〉などと評された衣笠貞之助監督《黎明以前》などが,〈傾向映画〉の最後を飾る作品になった。

 その後の日本映画は,〈小市民映画〉とか〈心境物〉などと呼ばれた一種の逃避の笑いに移行していくことになる。小津安二郎の映画のシナリオライターとして知られる野田高梧によれば(《キネマ旬報》1930年7月1日号),〈傾向映画〉は〈大抵は,事件本位の荒削りの,線の太い,カセのきいたメロドラマ〉であったが,その反動として,もっと〈細密〉なドラマづくりで,〈平凡人の日常生活の間の或る小さな出来事をピックアップして,それに適当にアレンジすることに依って,そこに一つの劇的な空気を醸し出そうとするやうな傾向〉に移行していくわけである(〈小市民映画〉の項目を参照)。

 なお,〈プロキノ〉によるプロレタリア映画の製作・上映活動は,1934年に政府の弾圧によって壊滅したが,第2次世界大戦後は,労働者階級,市民団体を中心とする観客組織に基礎をおく自主映画運動が,山本薩夫監督《暴力の街》(1950),今井正監督《どっこい生きてる》(1951),《山びこ学校》(1952),亀井文夫監督《母なれば女なれば》(1952),《女ひとり大地を行く》(1953)等々の製作・上映から始まり,その後の〈独立プロ〉の道をひらいて今日に至っている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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