イタリアの物理学者。イタリア北部のコモに生まれる。同地の王立学院を卒業し、1774年にそこの物理学教授、5年後にはパビア大学の自然哲学教授になった。さらに1815年パドバ大学に迎えられその理学部長を兼務した。
初め詩や散文など文学に深い関心をもっていたが、ルクレティウスの『物の本質について』を読んで感銘を受け、自然探究への志を強くした。18歳ごろから静電気学の研究に進み、当時この分野の権威であったノレJean-Antoine Nollet(1700―1770)やベッカリーアGiambatista Beccaria(1716―1781)に文通を通じて指導と多くの示唆を受けた。1769年、最初の論文「電気火の引力について」をベッカリーアへの手紙の形で発表した。以後、空中電気の測定を含め静電気の研究を進め、電気盆、蓄電器、検電器など一連の電気機器を考案した。また、同じころに沼気(メタン)の研究などの気学の研究も行っている。
イタリアの解剖学者ガルバーニが有名な「カエルの実験」によって動物の体内に電気発生の機構が存在すると結論し、10年に及ぶその研究結果を1791年に発表すると、ボルタはただちにこの問題に取り組んだ。初めガルバーニの説を受け入れていたが、追試などの検討を経て、やがてそれを否定し、異種の金属の接触自体に電気発生の原因を求めた。動物電気論者との論争を行いつつ、1794年から1797年にかけて、彼は自分の考案した精密な検電器を使って種々の異種金属間の接触によって生じる電気量を測定し、金属の電気列(電気化学列)をみいだし、接触電位差の考えに到達した。こうして1799年に、銅板と亜鉛板の間に湿った布を挟んだものを何十組も重ねて有名な「ボルタの電堆(でんたい)」をつくり、さらに銅と亜鉛を希硫酸溶液に浸した電池を発明し、翌1800年それをイギリスの王立協会に報告した。この発明は、持続的な定常電流の獲得を可能にすることによって、その後の電磁気学や電気化学の発展を招来する画期となった。1801年、ボルタはアカデミー・フランセーズの大集会でナポレオンを前にして電気実験を供覧した。このときナポレオンは彼に金メダルと勲章を贈り、のちに伯爵の称号を与えた。彼は王立協会からその会員に推挙されるとともにコプリ・メダルを受け、フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章を贈られるなど数々の栄誉のうちに、1827年3月5日に郷里のコモで没した。
[井上隆義]
イタリアの物理学者。コモの生れ。少年時代に読んだルクレティウスの《事物の本性について》に感銘を受けて化学や電気学に関心をもつようになり,18歳から電気の研究に取り組み,一方,フランスのJ.A.ノレなどとの文通によっても多くの知識を得た。彼の最初の研究成果は,1769年トリノの物理学教授をしていたG.ベッカリーアあての手紙の中で述べられている。そこにはすでに電気盆の着想がみられるが,この装置についてはその後の75年のJ.プリーストリーあての手紙の中で,エレットロフォロ・ペルペトゥオ(いつまでも電気を担っているものの意味)の名で完成が述べられている。75年コモの王立学院の物理学教授となり,78年からはパビア大学で物理学を教えた。ボローニャ大学の解剖学者ガルバーニは,80年からカエルの脚に及ぼす電気作用の研究をしており,カエルの脚の筋肉収縮は脳髄から出て神経を通って筋肉に流れ込む〈動物電気〉の作用によるという説を提唱していた。これに対してボルタは,さまざまな実験を基礎にして,この〈動物電気〉説に反対し,93年,作用は何らかのしめった物体に接触した金属から発するという〈金属電気〉説を提唱し,さらにその後,しめった物体がなくとも異種の金属板を互いに接触させただけで,それぞれ異符号の電気を帯びることも見いだした。しかし金属板だけをいくら重ねても,回路に起電力を生じさせることができないことに気づき,1800年のローヤル・ソサエティ会長あての手紙の中で,電流発生装置として,銀円板と亜鉛円板の間にしめった厚紙をはさんだものを柱状に積み上げた装置(電堆と呼ばれた)を示し,同時に,塩水を入れたコップを銀板と亜鉛板の2種の金属を結んだ円弧でつなぐコップ電池についても述べている。この電堆や電池の発明は,連続して電流をとり出すことを初めて可能とし,静電気に代わって動電気の時代を開くことになった。
執筆者:日野川 静枝
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イタリアの物理学者.コモ王立学院卒業後に静電気の研究をはじめ,1769年には“電気火の引力”を出版した.1775年母校の物理学教授となり,電気盆を考案し,また沼気(メタン)の研究を行った.1779年パビア大学の物理学教授となる(~1819年).1782年に,論文“もっとも弱い人工的または自然的電気をもきわめて感知しやすくする方法について”をイギリスのロイヤル・ソサエティで発表,また1787年には微量の電気を検出できる麦ワラ験電器を発明し,1791年にロイヤル・ソサエティ会員となるなど,静電気学研究で評価を受けた.1791年L. Galvani(ガルバーニ)による実験を知り,かれの動物電気説を批判して,異なる金属による接触から電気が発生する説(接触説)を唱えた.これらの成果は“異種導体の単なる接触によって起こされる電気について”と題して,イギリスのロイヤル・ソサエティで朗読された.1801年Napoléonに招かれ,一連の発明をフランス人科学者らの前で報告するなど,英仏の科学者と活発な交流を行った.1816年に著作集全5巻を刊行.1827年にコモで死去した.
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…【小田 英郎】
[自然]
国土は東西約350km,南北約700kmの,ほぼ長方形の形状をなしている。ボルタ川が北から南に貫流して東部海岸でギニア湾に注ぐ。海岸線は単調で砂浜,潟湖および急崖が連続し,ボルタ河口には巨大な三角州が形成されている。…
…アフリカ西部の川。主としてブルキナファソ(旧オートボルタ)に源を発し,ガーナを貫流してギニア湾に注ぐ。長さ約1600km。…
…普通一つの詩節は韻律の異なる二つの部分に分かれ,前半部をフロンテfronte,後半部をシルマsirmaと呼ぶ。さらにフロンテは同じ構造を有する通常二つの部分(ピエデpiede)に分かれ,シルマも同様に二つのボルタvoltaに分割し得る。1詩行は多く11音綴ないし7音綴である。…
…これらは《筋肉の運動における電気力ノート》(1791)で公表されている。この説に対して賛否両論があったが,A.ボルタから痙攣は金属の接触によるとする強力な反論が提起された。通常ボルタの見解のほうが正しかったとされている。…
…これは摩擦電気を利用した起電機で,その後改良され,初期の電気研究に用いられたが,18世紀後半になると静電誘導の現象を利用した起電機が主流となった。(1)電気盆 1775年にA.ボルタが発明したもので,図1のように絶縁体の柄をつけた金属板とエボナイト板からなる。あらかじめ摩擦により負の電荷を帯電させたエボナイト板に金属板を近づけ,同時に金属板を接地すると,金属板は静電誘導により正に帯電する。…
…二つの異なる導体を接触させたとき,両者の間に生ずる電位差。この現象はA.ボルタによって発見されたので,ボルタ効果Volta effectと呼ばれる。接触前には二つの導体A,Bの電子に対する化学ポテンシャルは一般に異なった値をとる。…
※「ボルタ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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