日本大百科全書(ニッポニカ) 「カラ・ハン朝」の意味・わかりやすい解説
カラ・ハン朝
からはんちょう
Qara Khan
10世紀の後半から12世紀前半ごろまで存続した、中央アジアで最初のイスラム系遊牧トルコ人王朝。イリク・ハン朝ともいう。その起源についてはウイグル人説とカルルク人説とがあるが、9世紀の中ごろモンゴリアから中央アジア一帯に移住したウイグル人の一派が中心であったらしい。960年ごろ、ベラサグンを根拠としたトルコ人の王(伝説上のサトク・ボグラ・ハン)がイスラム教に改宗し、やがて南方のカシュガルをあわせた。ついでイリク・ハンナスルのときには、西方では999年にサーマーン朝を滅ぼし、南方では于闐(うてん)を征服して、パミールの東西の地方のトルキスタン化を決定的にし、また11世紀には、異教徒の西ウイグル王国と激しい宗教戦争を行い、パミール以東のイスラム化に大きな役割を果たした。
地方分権的な支配体制にもかかわらず、カラ・ハン朝の出現は東西交通を促し、この時代に最初のイスラム的トルコ文化も開花したが、11世紀中ごろパミールを境に東西に分裂し、西部は同世紀末にセルジューク朝に臣属した。1130年代にカラ・キタイが興ると、東カラ・ハン朝の諸都市は征服され、40年代には西カラ・ハン朝の宗主権もセルジューク朝に移り、この王朝は滅んだ。
[羽田 明]