ミヤコ蝶々(読み)ミヤコ チョウチョウ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「ミヤコ蝶々」の解説

ミヤコ 蝶々
ミヤコ チョウチョウ


職業
漫才女優 司会

本名
日向 鈴子(ヒュウガ スズコ)

別名
別名=日向 すゞ子(ヒュウガ スズコ)

生年月日
大正9年 7月6日

出生地
東京市 日本橋区小伝馬町(東京都 中央区)

経歴
東京・日本橋で生まれたが、両親の離婚により4歳で神戸に移り住む。父と生母継母とも芸事と縁があり、昭和2年“娘を一人前の芸人にしたい”と願っていた父が、懇意にしていた漫才師・横山エンタツと相談した上で、娘を座長とした都家蝶々一座結成。7歳で初舞台を踏み、少女漫才で各地を巡業楽屋を学校代わりに育った。12年継母の治療費を工面するため朝鮮・中国への外地公演に出たが、帰国直前に継母は亡くなっていた。17年吉本興業に招かれ、一座を解散して入社。やがて同社の大看板であった漫才師・三遊亭柳枝と知り合い、結婚。当時、柳枝には妻の他に3人の愛人がおり、戦後は夫と柳枝劇団を結成して活動していたが、夫の浮気が原因で離婚。その痛手からヒロポン中毒に陥るも、精神病院に入って健康を回復。23年連れ合いで、柳枝の弟子であった上方トンボとコンビを組み、芸能界に復帰。上方トンボ改め南都雄二との夫婦コンビで舞台に立ち、女性上位の漫才で売り出した。30年から夫とラジオ番組「夫婦善哉」の司会を始め、様々な一般人夫婦から結婚生活のエピソードを引き出して人気を得る。37年南都と離婚したがコンビは継続し、38年からは元夫婦コンビでテレビ版「夫婦善哉」を開始、48年に南都が亡くなった後も一人で続け、50年番組は終了した。この間、30年「弥次喜多漫才道中 化け姫騒動の巻」で映画初出演、31年「漫才長屋は大騒ぎ」で映画初主演。33年NHK「茶羽織」でテレビ初主演。一方、日向すゞ子の名で舞台の脚本、演出も手がけ、遺産相続がテーマの「おもろい一族」、老後問題を扱った「ぼけましておめでとう」、生まれて初めて丸刈りの尼僧役に挑戦した「雪のぬくもり」など、人情劇に社会性を加えた“蝶々喜劇”を作り出した。東京・日本橋の生まれながら、“浪花のオカン”的な存在で、上方を代表する喜劇女優として人気を博した。53年NHK放送文化賞、59年紫綬褒章受けた。自伝「女ひとり」「おもろうて、やがて哀し。」がある。

受賞
紫綬褒章〔昭和59年〕,勲四等宝冠章〔平成5年〕 郵政大臣賞〔昭和31年〕,京都市民映画祭女優助演賞〔昭和39年〕,大阪府民劇場賞〔昭和39年〕,大阪芸術賞〔昭和45年〕,日本放送批評家賞〔昭和46年〕,日本放送作家協会大衆演芸賞〔昭和48年〕,芸術祭賞優秀賞(テレビ部門)〔昭和54年〕,上方お笑い大賞(秋田実賞 第8回)〔昭和54年〕,NHK放送文化賞(第30回)〔昭和53年〕,名古屋演劇ペンクラブ年間賞〔平成2年〕,上方お笑い大賞20週年記念特別賞(第20回)〔平成3年〕,大阪舞台芸術賞(特別賞)〔平成7年〕

没年月日
平成12年 10月12日 (2000年)

伝記
決定版 上方芸能列伝おかんはおかんや―最後の巨星ミヤコ蝶々雲の別れ―面影のミヤコ蝶々 澤田 隆治 著佐村 多賀雄 著新野 新 著(発行元 筑摩書房浪速社たる出版 ’07’01’01発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「ミヤコ蝶々」の解説

ミヤコ 蝶々
ミヤコ チョウチョウ

昭和・平成期の漫才師,女優,司会者



生年
大正9(1920)年7月6日

没年
平成12(2000)年10月12日

出生地
東京・日本橋小伝馬町

本名
日向 鈴子

別名
別名=日向 すゞ子(ヒュウガ スズコ)

主な受賞名〔年〕
郵政大臣賞〔昭和31年〕,京都市民映画祭女優助演賞(昭39年度),大阪府民劇場賞〔昭和39年〕,大阪芸術賞〔昭和45年〕,芸術祭賞大賞(ラジオ部門)〔昭和52年〕,芸術祭賞優秀賞(テレビ部門)〔昭和53年〕,NHK放送文化賞(第30回)〔昭和53年〕,紫綬褒章〔昭和59年〕,名古屋演劇ペンクラブ年間賞〔平成2年〕,上方お笑い大賞20週年記念特別賞(第20回)〔平成3年〕,勲四等宝冠章〔平成5年〕,大阪舞台芸術賞(特別賞)〔平成7年〕

経歴
芸好きの父が都家蝶々一座を結成、7歳で初舞台を踏み、少女漫才で国内各地から中国、朝鮮半島を巡業し、楽屋を学校代わりに育つ。昭和18年吉本興業に入社。以後、宝塚新芸座、上方演芸、東宝などを経て、36年松竹芸能へ。23年から南都雄二との夫婦コンビで舞台に立ち、女性上位の漫才で売り出す。のちラジオ「漫才学校」の校長役や、30年から雄二とコンビを組んで朝日放送ラジオの「夫婦善哉」の司会を開始、人気を得る。途中の33年には離婚しているが、38年から元夫婦コンビでテレビ版「夫婦善哉」を開始、48年に雄二が死去した後も一人で続け、50年秋終了した。51年「夫婦坂」を執筆、自ら演出・主演。その他、映画やドラマ、舞台にも多数出演。一方、日向すゞ子の名で舞台の脚本、演出も手掛け、遺産相続がテーマの「おもろい一族」、老後問題を扱った「ぼけましておめでとう」、生まれて初めて丸刈りの尼僧役に挑戦した「雪のぬくもり」など、人情劇に社会性を加えた“蝶々喜劇”を作り出した。53年NHK放送文化賞、59年紫綬褒章などを受賞。著書に「女ひとり」「女のらくがき」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「ミヤコ蝶々」の意味・わかりやすい解説

ミヤコ蝶々【ミヤコちょうちょう】

女優・漫才師。本名日向(ひゅうが)鈴子。東京都生れだが,のち兵庫県へ移る。父親が思いつきで芝居一座を結成し,幼くして座長となり,そこでさまざまな芸を身につけた。1942年に大阪の吉本興業に入るとともに,落語家の三遊亭柳枝と結婚。しかし離婚して,1947年に自らの弟子である吉村朝治(のちの南都雄二)と再婚した。その後,夫婦漫才コンビとして売り出し,ラジオ番組の《漫才学校》や《夫婦善哉(めおとぜんざい)》(1955年にスタートした20年にわたる長寿番組で,1963年からはテレビ番組となる)などで人気を博した。1958年に雄二と離婚。その後は関西喜劇を代表する女優として舞台・テレビ・映画などで活躍し,軽妙で温かみのある演技で親しまれた。なお,雄二との付き合いは,雄二が1973年に亡くなるまで公私ともに続いた。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ミヤコ蝶々」の解説

ミヤコ蝶々 ミヤコ-ちょうちょう

1920-2000 昭和-平成時代の漫才師,女優。
大正9年7月6日生まれ。7歳で初舞台,少女漫才として地方を巡業。昭和23年南都雄二とコンビをくみ,30年からふたりで「夫婦善哉(めおとぜんざい)」の司会でラジオ,テレビに進出。雄二没後もテレビ,舞台で活躍。平成12年10月12日死去。80歳。東京出身。本名は日向鈴子。著作に「女ひとり」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「ミヤコ蝶々」の解説

ミヤコ 蝶々 (みやこ ちょうちょう)

生年月日:1920年7月6日
昭和時代;平成時代の漫才師;女優
2000年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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