フランスの哲学者。グルノーブルに生まれる。グルノーブルとソルボンヌ(パリ大学)の両大学に学んだが、その間詩人・思想家ペギーに傾倒し、その研究書を刊行した。1932年に雑誌『エスプリ』を創刊、第二次世界大戦中は発禁処分を受けて中断し、地下に潜ってレジスタンス運動に加わった。1944年終戦とともに、雑誌を再刊して健筆を振るった。彼の思想的立場はペルソナリスム(人格主義)であり、それをまとまった形で述べているのが『人格主義とは何か』(1947)および『人格主義』(1949)である。彼が「ペルソンヌ(人格)」とよんでいるものは、自由にして、かつ創造的な人間、けっして客体化されない主体的人間のあり方を意味し、その点で「実存」とほぼ同じ概念と解してよかろう。
[西村嘉彦 2015年6月17日]
『E・ムーニエ著、竹下春日訳『実存主義案内』(1964・理想社)』▽『木村太郎・松浦一郎・越知保夫訳『人格主義』(白水社・文庫クセジュ)』▽『池長澄著『エマニュエル・ムゥニエ』(澤瀉久敬編『現代フランス哲学』所収・1968・雄渾社)』
ベルギーの彫刻家、画家。ブリュッセルに生まれる。最初彫刻を学ぶが、のち絵画に転向し、シャルル・ド・グルー(1825―70)に師事する。1859年ウエストマール・トラピスト修道院に滞在し、以後20年間修道院生活を題材にした作品を制作。78年以降、ベルギーの工業地帯を訪れて労働者をテーマに社会批判的な作品を制作する。85年、絵画とともに彫刻をも手がけ、鋳銅と石とをおもな素材に、炭坑夫、製鉄工、人夫などをモデルに力強いリアリズムの制作を行うかたわら、絵画ではとくに煤煙(ばいえん)や炎を暗い色調で描いた。主題の選択ではミレーの影響があるとされるが、バルビゾン派のリアリズムよりもさらに明確な象徴性と社会主義的な感情が作風の基盤をなしている。とくに彫刻ではベルギーを代表する存在で、労働者を造形化した最初の作家として知られる。死後、ブリュッセルの住居はムーニエ美術館となった。
[野村太郎]
フランスの哲学者,人格主義の創唱者。ベルグソンやペギーの影響のもとに1932年10月,機関誌《エスプリ》を創刊,以来人格主義哲学を現代フランスの社会,政治,文化的諸問題に適用する。第2次世界大戦中,反ナチ・レジスタンス運動に加わり,41年捕らえられたが,ハンストを行って釈放された。戦後再び《エスプリ》の編集者となる。《人格主義宣言》(1936),《人格主義》(1949)などに見られる彼の人格主義は精神的存在としての人格を中心にし,責任と内面的発達による創造的な人格の完成をめざした。また,人格相互の交わりと連帯による共同社会を理想とし,経済においては資本よりも創造的行為としての労働に重きをおく。
執筆者:高柳 俊一
ベルギーの画家,彫刻家。ブリュッセルに生まれ,同地の美術学校に学ぶ。1860年ごろより主として宗教的題材を写実主義的に,のちには印象派風の明るい色調を取り入れて描く。82-83年のスペイン旅行後は彫刻に転じ,炭鉱や工場に取材して肉体労働者の姿を力強く直截に表現した。これらの人物像はのちの社会主義リアリズムのような労働の理想化におちいることなく,そこには近代彫刻の彫塑的表現性がうかがえる。87-95年ルーバンの美術学校教授。最後に暮らしたブリュッセル,イクセルIxellesの家は,現在〈ムーニエ美術館〉となっている。
執筆者:中山 公男
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…さらに後者は1901‐14年にドイツで活動して機能主義の美学を標榜するバウハウス運動を準備し,帰国後は装飾を排した近代建築の推進者となった。19世紀の彫刻は新古典主義に支配され,労働者や農民を写実的かつモニュメンタルに表現したムーニエと象徴派のミンネGeorge Minne(1866‐1941)の作品以外は新味に乏しい。後者は後述する第1次〈ラーテム派〉の一員でもある。…
※「ムーニエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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