改訂新版 世界大百科事典 「キリスト教音楽」の意味・わかりやすい解説
キリスト教音楽 (キリストきょうおんがく)
キリスト教は世界に分布するさまざまな宗教の中でも,とくにすぐれた音楽的伝統をもち,高い芸術的レベルの音楽文化を育成した。ただし,他の宗教にも数多くの宗派宗旨があるように,キリスト教にも,カトリックとプロテスタントの二大教会の別があり,それぞれの内部に数多くの教派があって,音楽的伝統も一様ではない。芸術的に見た場合,それらの中でとくに重要なのは,パレストリーナやベートーベンのミサ曲によって代表されるローマ・カトリック教会,バッハのカンタータや受難曲によって代表されるルター派のドイツ福音主義教会,パーセルのアンセムやヘンデルのオラトリオによって代表される英国国教会,ボルトニャンスキーの教会コンチェルトによって代表されるロシア正教会などである。
イエス・キリストの生涯を書き記した新約聖書の福音書には,ただ1ヵ所だけ音楽に言及した個所がある。イエスは十字架につく前に弟子たちと最後の晩餐をともにし,〈彼らは,さんびを歌った後,オリーブ山へ出かけて行った〉とある。ここで歌われたのは,旧約聖書の《詩篇》の歌(プサルモディアpsalmodia)であったと考えられる。その後,初期キリスト教の時代を通じて,キリスト教の中心は主として地中海の東方(オリエント)にあり,新たに作られる賛歌(ヒュムノスhymnos)の類を加えながら,シリア聖歌,アルメニア聖歌,コプト聖歌,ビザンティン聖歌など,それぞれ地方色をもつ典礼聖歌の伝統が形づくられていった。
西方キリスト教会の音楽は,初期の段階ではこれらの東方の伝統に負うものであった。4~5世紀の教父アウグスティヌスは彼の《告白》の中で,〈少し前からミラノの教会では,多数の聖職者が声と心を聖なる熱心でひとつにあわせ,人の心を慰め教化する旋律で礼拝を行うようになった。……この頃,東方教会の慣習にならって,会衆の心が悲しみに沈み,飽き飽きしないようにと,賛歌と詩篇の歌が採り入れられたのである〉と語っている。
今日までグレゴリオ聖歌の名で知られるローマ・カトリック教会の単旋律の典礼聖歌は,これらの東方聖歌が西方の世界に受け入れられながらしだいに変貌していったものである。聖歌の名前は,中世の典礼の整備と布教活動に大きな功績のあった教皇グレゴリウス1世(在位590-604)にちなんでいるが,歴史的に見れば,およそ12~13世紀まで創作が続けられた。その間に,東方聖歌を受け入れる最初の拠点になったミラノのアンブロジオ聖歌,アルプス北方のガリア聖歌,スペインのモサラベ聖歌など地方的な典礼も存在したが,ローマ教皇権の拡大に伴ってしだいに統一へと向かった。今日の研究によれば,その間に予想以上に北方からの影響が強かったことが指摘されている。グレゴリオ聖歌の最後の発展段階に好んで作られたのは,セクエンティアsequentia(続唱)とよばれる歌唱形式であるが,シラビックで韻律的な旋律の作り方や同じ楽句を2度ずつ反復して先へ進む形式に,同じ時代の騎士歌人トルベールの〈レーlai〉の形式や,中世の世俗舞曲〈エスタンピーestampie〉と共通するものが見られるのは興味深い。
単旋律の聖歌であるグレゴリオ聖歌の最後の発展期であった12~13世紀は,同時にポリフォニー(複旋律)音楽の発展の時期でもあった。パリのノートル・ダム大聖堂の礎石は1163年にすえられたが,祭壇と内陣の部分がまず完成した12世紀末,ここにレオナンLéonin(レオニヌスLeoninus)とペロタンPérotin(ペロティヌスPerotinus)という2人の巨匠が姿を現す。彼らはグレゴリオ聖歌を基礎として,1~3声部の対位旋律をそれに重ね合わせるオルガヌムorganumと呼ばれる初期のポリフォニーの形式を確立した。その響きは,禁欲的な祈りの歌であったグレゴリオ聖歌に比べれば,はるかに華麗であり,ステンド・グラスの光彩を思わせる。ゴシック時代はまた,宗教音楽の内部に演劇的な精神が浸透した時代でもあった。受難や復活に関する聖書のくだりを,福音史家(中声),キリスト(低音),その他の人物(高声)に分けて朗唱する典礼劇や,旧約聖書の題材,諸聖人の物語を劇化してページェントの形で歌い演じる神秘劇(ミュステリウム)もこの時代に起こった。
つづく14世紀は,教皇権の凋落と初期ルネサンスの思潮をうけた世俗音楽の興隆を背景として,宗教音楽は全般的に振るわなかった。しかし,フランスの詩人・音楽家マショーによるポリフォニックな通作ミサ曲(ミサ通常文を一貫して多声部の楽曲に作出したもの。ミサ曲)をはじめとする諸作品があり,また俗語を歌詞とする宗教的な歌曲ラウダlauda(イタリア)やキャロルcarol(イギリス)なども隆盛に向かった。
15~16世紀は,ルネサンスの古典対位法の作曲技法の完成によって,ミサ曲やモテットなどの合唱ポリフォニーの作品が,比類のない芸術的な高みに達した時代である。いくつもの声の旋律線が互いにからみ合って流れるポリフォニーの芸術は,慎重な不協和音の処理によって,みごとな陰影を伴った和声的な美しさを獲得したが,その効果はルネサンスの絵画における空気遠近法の効果に比べられよう。デュファイ,オケヘム,ジョスカン・デ・プレらの手をへて,この芸術は最後にパレストリーナとラッススという巨匠を生んだ。とくにパレストリーナのア・カペラ(無伴奏)合唱曲の呼び起こす穏やかに満ち足りた崇高な美しさは,今日までカトリック教会音楽の理想の姿を示すものと受け取られている。各地の大聖堂と王侯の礼拝堂がルネサンス期の合唱ポリフォニーの発展を支える場所となり,とくにローマ教皇庁のシスティナ,ジュリアの両礼拝堂が,数多くのすぐれた作曲家と歌手を擁して中心的な役割を果たした。
16世紀は,プロテスタントの諸宗派が並び立った時代でもある。すでに15世紀に,ボヘミアのフス派が,独自の宗教的民謡ともいうべき会衆歌をもっていたが,ルター派のドイツ福音主義教会のコラールはその性格をさらに徹底し,音楽的素養のない一般会衆が歌えることを目ざした会衆賛美の歌であった。と同時に,ルターは教会付属の学校で学ぶ若者たちには,人文主義的教養と多声部の楽曲を演奏できる高い音楽的素養を要求した。これが,ドイツ福音主義教会におけるカントライKantorei(児童声を含む合唱隊と器楽奏者からなる聖歌隊)の伝統の確立を促した。カントライの指導者であるカントルは,教会付属学校の音楽の教師をつとめ,教え子たちを引き連れて主日祝日の礼拝に参加した。その代表者を,われわれは18世紀にライプチヒ市聖トーマス・カントルであったJ.S.バッハの姿に見いだすのである。ルター派の福音主義的な礼拝においては,カトリックのミサ曲に代わってその日に奉読される福音書の章句を音楽的に敷衍したカンタータが主要な役割を占め,それに次いで会衆賛美の歌であるコラールに芸術的な手を加えたオルガン・コラールが重視された。
16世紀に興った他のプロテスタント諸教派のうち,英国国教会は,国王の離婚問題という偶発的要因によってカトリックから分離したため,教義においても,典礼音楽においても全般的に保守的であった。カトリックのグレゴリオ聖歌に相当するアングリカン・チャントAnglican chant,同じく聖務日課とミサとを簡略化したサービスservice,モテットの系譜を受けてカンタータに類似した音楽的形態をとるアンセムanthemが,その音楽の主要なものである。カルバンに始まる改革派教会は,聖書の直接的な福音以外のいっさいを虚飾と見るピューリタン的態度によって,音楽的には貧困をもたらした。改革派を基盤として新たに生まれた音楽は,《詩篇》の韻文訳に簡素な4声体の和声付けをした詩篇歌のみである。しかし,その音楽的スタイルが,あとに続くプロテスタント諸派の〈賛美歌〉の源流となった事実には,注目しなければならない。
プロテスタントの離反によって痛手を受けたカトリックは,17世紀に入ると,信徒の教化の手段として,当時新たに興って人気を集めていたオペラの劇的様式に注目し,それを宗教的題材に適用してオラトリオを創始した。オラトリオの初期の大家であるカリッシミGiacomo Carissimi(1605-74)が,当時とくに宣教活動に熱心であったイエズス会のコレッジョ(学院)を背景として活躍したことは意味深い。しかし,この動きはただちに宗派の別をこえて他の諸国にも波及し,フランスのM.A.シャルパンティエ,ドイツのシュッツとバッハ,イギリスのヘンデルらのすぐれたオラトリオ作曲家が現れる。そのようにして,17~18世紀の宗教音楽は多かれ少なかれドラマティックな傾向を帯び,独唱,重唱,合唱,管弦楽を総合したシンフォニックな表現へと向かった。かつては,簡素な旋律的朗唱であった受難曲も例外ではなかった。ミサ曲もモテットも,カンタータも,宗教的な雰囲気の担い手である合唱を重視する一方で,アリアとレチタティーボを組み合わせてシェーナscena(場面)を構成するオペラの作曲手法から多大な影響を受けた。ハイドン,モーツァルト,ベートーベンによる古典派のミサ曲は,それぞれにすぐれた個性を示すと同時に,歴史的に見れば,この流れに沿った作品である。
19世紀から20世紀にかけてのキリスト教音楽は,古典派で達成された基本的な枠組みを継承しつつ,ロマン派以降の新たな音楽的語法を加えて,徐々に近代的な様相を帯びてゆく。しかし,それと並んで見落とすことができないのは,過去の精神的遺産への目覚めである。パレストリーナ様式への復帰を標榜するチェチリア運動,フランスのソレーム修道院を中心とするグレゴリオ聖歌の史料研究と新しい実践(ソレーム唱法),A.シュワイツァー,シュトラウベMontgomery Rufus Karl Siegfried Straube(1873-1950),グルリットWilibald Gurlitt(1889-1963)の3人を柱としたバッハ以前のオルガン音楽とオルガンの再評価(オルガン運動)などが,その例である。19世紀には,ベルリオーズ,メンデルスゾーン,リスト,ベルディ,ブルックナー,ブラームスらの巨匠がおり,20世紀では神秘主義的なカトリシズムの立場に立つメシアンの斬新なオルガン曲や,現代的なネオ・バロック様式によるディストラー,ペッピングなどのプロテスタント教会音楽,オラトリオの歴史に新たなページを書き加えたオネゲル,フランクらの作品がある。にもかかわらず,大きく眺めればロマン派以後のキリスト教音楽には,かつてのような発展のエネルギーはもはや見られない。それは,社会の近代化に伴って,以前のように厳しく訓練された聖歌隊やカントライを維持することが一般的には不可能となったことに一因があり,また啓蒙主義をへたのちのキリスト教は,その精神的支配力において徐々に退潮を余儀なくされているからである。
以上,ローマ・カトリックと16世紀に分立したプロテスタント諸派を中心に述べてきたが,18世紀以降に新たに分立した多数のプロテスタント諸派の中では,ウェスリー兄弟Charles Wesley(1757-1834),Samuel W.(1766-1837)を擁するメソディスト派がとくに重要である。大衆伝道のために平明に歌える旋律と親しみやすい和声付けを旨としたメソディスト派の賛美歌は,芸術的実質においては必ずしも高いものではない。しかし,バプティスト派をはじめ,その後のプロテスタント諸派にきわめて大きな影響を及ぼした。東方諸教会の中では,ギリシア正教の流れを汲むロシア正教会が,スラブ的な陰影の濃い合唱の手法と西方のカンタータの形式を総合して,独自の教会コンチェルトの様式を樹立した。18世紀のボルトニャンスキーは,その代表者である。
日本におけるキリスト教音楽は,16世紀に宣教師によってもたらされたキリシタン音楽が,隠れキリシタンの〈オラショ〉を除いて根絶したあと,明治の文明開化期に入って再び西洋音楽の香りを日本に伝える役割を果たした。その後,今日までの間に,日本の聴衆と演奏団体は,年ごとに行われるヘンデルの《メサイア》公演をはじめ,西欧のキリスト教会が残した芸術的遺産に対して,驚くほどの受容力を示してきた。その一方で,典礼用の音楽,賛美歌,カンタータ,受難曲などの作曲も試みられてきたが,そのレベルは必ずしも高くない。戦後広島に設けられたエリザベト音楽大学(1948年広島音楽学校として発足,63年大学)は,独自の宗教音楽学科をもち,現在ローマ・カトリック系の音楽の拠点となっている。ロシア正教会系の音楽は,東京のニコライ堂が中心である。プロテスタント諸派の教会では,賛美歌の斉唱・合唱が主軸となっているが,最近はパイプ・オルガンを備える教会が徐々に数を増しつつある。
→宗教音楽
執筆者:服部 幸三
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