メーン(読み)めーん(英語表記)Sir Henry James Sumner Maine

日本大百科全書(ニッポニカ) 「メーン」の意味・わかりやすい解説

メーン(アメリカ合衆国)
めーん
Maine

アメリカ合衆国北東端部の州。面積8万6026平方キロメートル、人口127万4923(2000)。州都オーガスタ。東と北をカナダに、西をニュー・ハンプシャー州に接し、南は大西洋に面する。北西部はホワイト山地、中央部はニュー・イングランド山脈、南東部は海岸低地と分かれ、州土の5分の4は森林に覆われ、とくに北部の山岳地は野生生物の宝庫として知られる。複雑に入り組んだ海岸域は大小多くの島々を有するとともに、天然の良港が発達し、最大都市のポートランドや、ルーイストン、バンガーなど主要都市が集中する。また、氷河作用を受けた2000以上の湖が点在し、開発されずに残された豊かな自然は狩猟、釣り、キャンプ、スキーと格好のレクリエーション地を提供している。アケーディア国立公園、マウント・デザート島をはじめとする多くの景勝地に恵まれ、観光産業は近年、州経済の要(かなめ)になってきている。気候は地域により異なるものの、ほぼ温暖湿潤気候を呈する。水産・林産資源に恵まれており、古くから林業漁業が発達してきた。全盛期の活気はみられないが現在も盛んであり、とくにロブスター水揚げは全米の80%を超え、イワシ漁でも広く知られる。1920年ころまで工業をリードしていた繊維業の衰退のあとは、缶詰や食品加工の分野が発達し、パルプ製紙、紙加工など世界有数の業種から靴などの皮革、電気機器など各種工業が発達する。農業は土地や気候条件に恵まれず、牧畜酪農が中心をなすが、それでも全米の95%を生産するブルーベリーやリンゴ、ジャガイモトウモロコシなどの農産物が収穫され、全米に出荷される。

 1498年イタリアのG・カボートが海岸域を探検した。1604年のフランス人の移入に続いて、07年にイギリス人も移入を始めたが、本格的な定住は23年に始まる。52年以来長くマサチューセッツ植民地の一部に甘んじてきたが、1820年に第23番目の州として認められた。メーン大学、ベイツ大学、ボウドン大学の所在地でもある。州名は周辺に多く点在する島々と区別するのにメーンランド(本土)とよばれたことによる。

[作野和世]



メーン(Sir Henry James Sumner Maine)
めーん
Sir Henry James Sumner Maine
(1822―1888)

イギリスの著名な法学者。ケンブリッジ大学で給費生として勉強したのち、1847年から1854年まで母校で欽定(きんてい)講座担当教授を務め、その間の1850年にはバリスターの資格を付与され、また、1852年からはインズ・オブ・コート(法曹学院)でローマ法と法学を講じるようになった。その成果をまとめたのが名著『古代法』(1861)であって、このなかで、それまでの法の発展を「身分から契約へ」ということばで表現したことは有名である。これは、近代社会の特徴を巧みに説明したものとして、法学以外の分野でも広く用いられる。1862年にインドに赴き、総督評議会の法律委員として7年間勤務し、1869年から1878年までオックスフォード大学の法史学・比較法の教授、1887年から1888年までケンブリッジ大学の国際法の教授を歴任した。彼はドイツ歴史法学の影響を受け、それまで分析法学が主流であった法学研究に歴史的・比較的な方法を導入した。イギリスにおける歴史法学はメーンに始まるとされる。おもな著作には、前掲の『古代法』のほか『村落共同体』(1871)、『制度の初期の歴史に関する講義』(1875)などがある。

[堀部政男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メーン」の意味・わかりやすい解説

メーン
Maine, Sir Henry James Sumner

[生]1822.8.15. ケルン
[没]1888.2.3. カンヌ
イギリスの法学者,歴史学者。イギリスの歴史法学派の代表者。ケンブリッジ大学卒業。 1847年に同大学民法教授となり,同時にローマ法を研究発表し,63~69年インド総督法律顧問としてインド法の集成に尽力,カルカッタ大学の代理学長をつとめた。 69年よりオックスフォード大学の歴史学,法理学教授,87年よりケンブリッジ大学国際法教授を歴任。古代法や村落共同体における法的観念の研究を通して法人類学の基礎を築いた。主著に『古代法』 Ancient Law (1861) がある。

メーン
Maine

アメリカの戦艦。その爆発事件がアメリカ=スペイン戦争の一因となったことで有名。 1895年就航。全長 98.84m,船幅 17.37m,排水量 6650t。 98年1月 25日キューバにおけるアメリカの権益擁護のためハバナ港に入港したが,同年2月 15日朝大爆発を起し,死者 260名,負傷者 47名を出して沈没。爆発の原因については不明。当時キューバではスペインに対する内乱が長期化して,キューバにおけるスペイン軍の非人道的行為に対する非難がアメリカで高まっており,この事件でキューバ人への同情とキューバ干渉論が一層刺激されて,98年4月のアメリカ=スペイン戦争開始にいたった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報