古代法(読み)こだいほう

改訂新版 世界大百科事典 「古代法」の意味・わかりやすい解説

古代法 (こだいほう)

日本では7世紀末から8世紀初めにかけて,中国の隋・唐の律令法を模範とする体系的な法典としての律令法典が編纂され,施行された。この律令法の施行期を,中国律令法を継受して成った法の施行時期という意味で〈継受法の時代〉ということができるとすれば,それ以前は〈固有法の時代〉ということができる。日本古代における法の発達は,このように律令法を境として2期に大別することができるが,しかしこの区分はかなり便宜的なものであることをも,承知しておく必要があろう。というのは,地理的に中国大陸および朝鮮半島に接する日本は,古代においては高句麗,百済,新羅の朝鮮三国およびいわゆる任那地域からの,人間の移住をともなう文化の流入を間断なく受け入れていたのであって,そうした歴史的条件のもとでは,固有法の時代の法といえども,そのなかに純粋に日本独自のものがどれほど存するか,疑問だからである。それゆえ固有法とみられるものでも,その起源を尋ねれば,実は朝鮮三国,さらには中国から〈継受〉したものであるというような場合の存することを,予測しておかなければならない。たとえば,かつて聖徳太子の独創になるものと考えられていた冠位十二階が,近年,百済の官位制を中心とし,これに高句麗の官位制を参照して作られたものであることが明らかとなったことなどは,その一例である。その意味で上記の二区分は,外国の法を体系的に継受した律令法をもって継受法とし,便宜的にそれ以前の時代と区別したものであるにすぎない。

さて,古代のみならず前近代社会においては,一般に法と慣習は一体となっており,両者は未分化の状態であったといわれる。日本古代においてもこのことは例外ではなかったが,古く《魏志倭人伝》は3世紀の邪馬台国の状況について,〈盗窃せず,諍訟少なし。其の法を犯すや,軽き者はその妻子を没し,重き者は其の門戸及び宗族を滅す。尊卑各々差序有り,相臣服するに足る〉と述べ,このときすでに〈刑法〉および〈身分制〉に相当する法または慣習の存したことを伝えている。こうした法または慣習の生成する基盤としては,つぎの2種のものがあったと考えてよいであろう。(1)人々が集住することによって形成された,地域の共同団体ないし共同組織の内部に生成した秩序,と,(2)政治的社会の発達にともなって生みだされた上位の政治的権力がもつ,共同団体相互間に発生する紛争の調停機能,とがそれである。

 これを刑罰についていえば,いわゆる内部的刑罰は(1)を基盤として生まれた刑罰であり,外部的刑罰は(2)を基盤として生まれた刑罰であるといえる。もっとも今日の学界の共通的理解では,日本の古典にみられる刑罰の多くは(1)を基盤とする内部的刑罰に属し,(2)を基盤とする外部的刑罰は,日本古代においては未成熟であったと考えられている。たとえば,高天原の秩序を乱した素戔嗚(すさのお)尊が,八十万神の合議により千座置戸(ちくらおきど)を科せられたうえで,神逐(かんやらい)すなわち追放刑に処せられたのは,(1)を基盤として生まれた,共同体秩序の侵害者に対する内部的刑罰としての財産没収刑と追放刑(平和喪失)の,神話的表現であったとみられる。またたとえば,天津罪として知られる畔放(あはなち)・溝埋(みぞうめ)・樋放(ひはなち)などの農業用水施設の破壊や,頻蒔(しきまき)(他人が播種した水田に重ねて種をまき,自分の耕作地であると主張する行為)・串刺(くしざし)(収穫期に他人の耕作した田にクシを刺し,自分の耕作地であると主張する行為)などの農業慣行違反等により共同体秩序が犯された場合に行われる大祓(おおはらえ)には,本来は共同体成員全員が参加しなければならなかったと推定されることなどは,こうした慣行が(1)を基盤として生まれたものであることを示している。日本古代においては,(2)を基盤とする法または慣習は,上位の政治権力によって,(1)を基盤とする法または慣習に規制されながらもこれをとりこみつつ,政治的かつ専制的な法として発達したのであった。この点を石母田正は,つぎのように図式化している。

 石母田はまず,(2)を基盤として発達した法または慣習を,族長法としてとらえる。この族長法の特徴は,(1)を基盤とする法または慣習を自己の法にとりこみつつ,これを族長権力の維持のために活用した点にある。たとえば上述の,各地域の共同体が独自に行っていた大祓は,族長によって〈国之大祓〉とされ,族長が挙行するものとなる。またたとえば,内部に発生した犯罪に対し共同体が有した検断権,裁判権などは族長の手中に集中され,盟神探湯(くかたち)などの神判や拷問をともなう裁判が,族長によって行われる。

こうした族長法の展開に並行して,5世紀ないし6世紀ころより,畿内およびその周辺の諸豪族の政治的結合体であるヤマト朝廷の権力が,族長の上位の政治権力として拡大する。石母田は,このヤマト朝廷権力のもとで発達した法を王法と称しているが,この王法もまた,族長法をとりこみつつ自己の法を発達させたのであった。大祓についていえば,王法の発達により,それは大王が挙行する全国的大祓に転じてしまう。また族長の王権に対する反逆すなわち〈謀反(むへん)〉には,その者を処刑しその者の支配領域を没収するという過酷な刑を採用して,王権の強化とその専制化がはかられる。さらに,氏姓制,部民制,国造制等のさまざまな政治制度が創設されて,支配秩序が強化される。この間,族長の一部は王権により国造として編成されるが,国造の有した法は,かれが王権により国造に任命されたことによって保障された領域支配を基礎とし,かつ王権によって制約されるものとなった点において,もはや昔日の族長法とは異なるものとなっていた。石母田はこの段階での法を,国造法と称している。聖徳太子が制定した十七条憲法は,上記のような王法の一つの到達点を示すものである。この憲法は,ヤマト朝廷を構成する諸豪族および服属した国造等のみでなく,国造治下の〈百姓〉〈公民〉をも,人格的臣従関係に基づいて王権のもとに編成しようとした,組織規範であった。

7世紀末から8世紀初めにかけて,律令法が導入される。律令法導入の契機そのものは,7世紀におけるヤマト朝廷内部での権力闘争による動揺と,朝鮮三国および唐をめぐる動乱から生じた国際的危機の,二つの危機の克服にあったが,これの導入は結果的に,従来の(1),(2)二つを基盤とする法あるいは慣習の流れを止揚して,まったく新しい法的世界を形成することとなった。なぜならば律令法は,天皇を専制主とし,そのもとに諸豪族を官僚として編成して,人民を一元的に統治するための,国家の基本法として制定された,制定法であったからである。現実においてはともあれ,たてまえとしては,律令法以外の法は存在しないものとなったのである。

 律令法典は,7世紀後半の天智朝に近江令が編纂されたと伝えられているが,この所伝を疑問視する学説も有力なので,その点を考慮すれば,681年(天武10)に編纂に着手し,689年(持統3)に施行された飛鳥浄御原令がそのはじめのものとなるが,同令はまだ未熟なものであった。体系的といいうる律令法典は,701年(大宝1)に制定・施行された大宝律令である。その後718年(養老2)ころ,大宝律令を修訂した養老律令が編纂され,757年(天平宝字1)に施行された。大宝律令が施行されたのはこのように短期間であったが,養老律令による修訂は字句の修正などの小幅な改訂にとどまるものであったから,日本の律令法は大宝律令の制定・施行をもって本格的にスタートしたといってよい。そしてそれは,時代により強弱の違いはあれ,以後ながく日本の国制を規定したのであった。

 律令法典そのものの編纂は養老律令で終わったが,律・令の条文を修正する格,および律・令の施行細則としての式は,律令法の施行期間を通じて,単行法令として随時発令・施行された。これらの格・式は9世紀から10世紀初めにかけて,三代の格・式(弘仁格・式,貞観格・式,延喜格・式)としてまとめられたが,それらは時代を追ってしだいに社会の現実に適応する日本的性格の強いものとなっている。また律令法そのものも,法の適用および法解釈において,現実に適合的に運用されるようになっていった。そうしたなかから,平安時代中期以降,公家社会の法としてのいわゆる公家法が生まれてくる。そしてこの公家法を母体として,荘園領主の領主法である本所法や,在地領主・武士の法である武家法が誕生し,やがて中世法の世界に移行するのである。
中世法 →律令法
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古代法 (こだいほう)
Ancient Law

イギリスの歴史法学派の祖とされるH.J.S.メーンが1861年に公刊した主著。その正式名は《古代法,その初期社会史とのつながりおよび近代諸観念との関連》である。内容は副題が示すように,ローマ法を中心にしてインド法,聖書,ゲルマン法などの古代法に反映している人類初期の諸観念およびその発展,初期社会の構造,それら観念の法発展への影響および近代法との関連,法発展の要因などを解明しようとしたものである。その結論としてメーンが,過去の社会および法発展を〈身分から契約へ〉という標語で一般化したことは,あまりにも有名である。
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古代法
こだいほう

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世界大百科事典(旧版)内の古代法の言及

【社会主義法】より

…社会主義法という概念は,旧ソ連において1930年代に確立され,その後広く用いられるようになった概念である。 ソ連では,十月社会主義革命後のソビエト政権下の法は〈プロレタリア法〉〈ソビエト法〉という概念でとらえられていた。それは,社会主義社会建設の完成によって国家と法が〈死滅〉するに至るまでの〈過渡期の法〉とみなされ,しばしば,かっこつきの〈ブルジョア法〉として批判的に認識されていた。30年代に入って,ソ連で社会主義が基本的に実現された,という認識のうえに,新しい段階の法体系を確立する必要が唱えられ,これを〈ソビエト社会主義法〉ととらえ,ひるがえって革命後の法形成全体を社会主義法の形成・発展とみる考え方が確立されてゆく。…

【家族】より

…しかしその後の人類学者の研究の結果,彼の学説には否定的見解が多く出されている。 家族についての先駆的研究としては,これ以前に代表的なものとしてバッハオーフェン《母権論》,H.J.S.メーン《古代法》(ともに1861),フュステル・ド・クーランジュ《古代都市》(1864)が挙げられよう。《母権論》は,原初的雑交Hetärismus期に次いで母権制あるいは女人政治制Gynaikokratieを想定し,父権制に先行するものとした。…

【契約】より

…法律的には後述のように債権・債務関係が発生することを意味する。
[契約行為と社会関係]
 イギリスの歴史法学者H.J.S.メーンは《古代法》(1861)において〈身分から契約へ〉という社会進化の図式を提示し,父権制社会の中で身分的に拘束されていた人間が解放される過程をえがいた。このメーンの書物のドイツ語版(1880)に影響を受けたドイツの社会学者F.テンニースは《ゲマインシャフトとゲゼルシャフト》(1887)において,法律的行為としての契約が合理的な法律関係の特質を示すと同時に,あらゆる合理的な社会関係の表現でもあることを説いた。…

※「古代法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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