ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヨハネス2世」の意味・わかりやすい解説
ヨハネス2世
ヨハネスにせい
Johannes II
[没]535.5.8. ローマ
ローマ出身の第56代教皇(在位 533~535)。本名はメルクリウス Mercuriusで,登位の際に改名した初めての教皇。メルクリウスという名を異教徒的と考え,ヨハネス1世(在位 523~526)と同じ名前を選んだ。451年のカルケドン公会議で異端とされ追放処分となっていたネストリウス派(キリストの位格〈ペルソナ〉を神性と人性に分け,聖母マリアが神の母であることを否定する異端)の聖職者たちと対立した。534年にはビザンチン皇帝ユスチニアヌス1世(在位 527~565)に促され,ネストリウス主義に傾倒するコンスタンチノープルの修道士集団,アコエメティ派を糾弾した。アコエメティ派が 534年3月に破門されると,キリストの神性と人性をめぐる論争は終わった。
ヨハネス2世
ヨハネスにせい
Johannes II Comnenus
[没]1143.4.8.
ビザンチン皇帝 (在位 1118~43) 。アレクシウス1世の長男。ヨハンネス (ヨアンネス) 2世とも呼ばれる。4歳のとき王位継承権を認められ,父の死後即位。コムネノス朝最大の皇帝。マケドニアとトラキアに来襲したペチェネグ人を撃退 (1122) ,セルビア,ハンガリーにも遠征し (28) ,バルカン半島で帝国の権威を高めた。東方ではメリテネのダニシュメンド太守国,キリキアのアルメニア分離国家 (37) を征し,十字軍国家の一つであるアンチオキアのノルマン公国をも征し,帝国の統治権を認めさせた (37) 。シチリアのロジェール王に対する反対同盟をピサと神聖ローマ皇帝コンラート3世との間で形成したが,実行をみないうちに狩猟中の事故 (暗殺ともいわれる) により没。
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