コムネノス朝(読み)コムネノスちょう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コムネノス朝」の意味・わかりやすい解説

コムネノス朝
コムネノスちょう
Comneni; the Dynasty of Comnenus

ビザンチン帝国王朝 (1057~59,81~1185) 。コムネヌス朝とも呼ばれる。小アジアのパフラゴニアの大豪族コムネノス家のマヌエル・コムネノスがバシリウス2世の治世中,軍功を立て中央に進出,軍人貴族として名をあげた。息子イサキウス1世は文官優遇政策をとるミカエル6世を倒し,即位。軍政確立に努力したが,教会勢力と衝突して退位。一時ドゥカス朝の皇帝が即位したが,再びコムネノス朝アレクシウス1世が帝位につき,ヨハネス2世,マヌエル1世,アレクシウス2世,アンドロニクス1世の諸皇帝を輩出した。対外的にはグイスカルド指揮下のノルマン軍 (1082) ,セルジューク・トルコ (1116) ,ペチェネグ人 (22) ,マジャール人 (28) そしてアンチオキア公国 (37) を破り,バルカン半島と小アジアにおける帝国威信を回復した。しかし国内ではプロノイア制度による封建化が進行,中央集権制が崩壊しはじめていた。また中小自由農民の没落は税収入と兵役人口の減少を招き,軍事力の低下は外国人傭兵の使用を不可避なものにした。傭兵は逼迫 (ひっぱく) した国庫を苦しめ,これがまた属領への重税という形になって表われ,悪循環となった。帝国は東のトルコ,西のイタリア商業都市,ノルマン,十字軍,バルカン半島の新興国家群の間にあって,国内の政治・経済問題を処理しきれないまま,徐々に弱体化していった。 1185年ノルマン軍の首都コンスタンチノープル進軍の報により首都住民は暴動を起し,同年8月アンドロニクス1世は路上で殺害され,同王朝は滅びた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コムネノス朝」の意味・わかりやすい解説

コムネノス朝
こむねのすちょう

ビザンティン帝国の王朝(1081~1185)。小アジア、パフラゴニアの大豪族コムネノスKomnenos家出身のイサキオス1世に始まり、アンドロニコス1世に至る6人の皇帝を輩出。ノルマン、セルジューク・トルコ、ペチェネグ、マジャール人の侵攻を防ぎ、アンティオキア公国を帝国領とするなど、一時的ではあったが対外的に国威を高めた。だが国内では、土地を媒体にした、西欧封建制に酷似したプロノイア制の浸透により封建化が進み、属領統治の屋台骨であるテマ制(軍管区制)が崩壊した。このため中小自由農民層が大土地所有者層に併呑(へいどん)され、国税の収入が下落、軍事力も低下、それにイタリア商業都市の進出で商業が不振となり、国力の弱体化が始まった。

[和田 廣]

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