ヨハネス8世(英語表記)Johannes Ⅷ Palaelogus
Iōannēs Ⅷ Palailogos[ギリシア]

改訂新版 世界大百科事典 「ヨハネス8世」の意味・わかりやすい解説

ヨハネス[8世]
Johannes Ⅷ Palaelogus
Iōannēs Ⅷ Palailogos[ギリシア]
生没年:1390-1448

ビザンティン帝国皇帝在位1425-48年。マヌエル2世の息子で1421年来共同皇帝となり,父の死後即位。オスマン帝国軍に対抗するため西欧軍事援助を必要としイタリアに赴き(1437),フェラーラフィレンツェ公会議で東西両教会の統一宣言に署名したが(1439),実効はあがらなかった。バルナの戦(1444)に続くコソボの戦(1448)の敗北により,キリスト教徒反撃は失敗し,ビザンティン帝国に対する包囲網はますます縮まった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヨハネス8世」の意味・わかりやすい解説

ヨハネス8世
ヨハネスはっせい
Johannes VIII Palaeologus

[生]1390
[没]1448.10.31. コンスタンチノープル
ビザンチン皇帝 (在位 1425~48) 。ヨハンネス (ヨアンネス) 8世とも呼ばれる。マヌエル2世の息子で 1421年以来副帝をつとめ,父の死後,即位。バルカン半島におけるオスマン・トルコの勢力伸長 (1422年の首都コンスタンチノープルの一時占領,30年のテッサロニカ占領) に対し,37年みずからイタリアにおもむき,西ヨーロッパの援助を求めた。 39年にはフェララ・フロレンスの公会議でローマ・カトリックの首位権を認め,東西両教会の統一宣言に署名するなどしたが,実効はなかった。帝位継承問題で心を痛め,さらに 48年コソボの戦いでトルコ軍勝利の悲報に接し,心労のあまり没した。

ヨハネス8世
ヨハネスはっせい
Johannes VIII

[生]? ローマ
[没]882.12.16. ローマ
教皇 (在位 872~882) 。スラブ人のキリスト教化の問題でメトディオスを支持し,典礼でのスラブ語使用を認めた (→キュリロスとメトディオス ) 。 879年フォチオスをコンスタンチノープル総大司教として容認し,ギリシア教会との対立収拾。サラセン人の侵略に対しては皇帝と協力して対処し,875年カルル2世 (禿頭王) ,881年カルル3世 (肥満王) に加冠して帝位継承権裁治者としての教皇の力を強化した。

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