ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リウトプランド」の意味・わかりやすい解説
リウトプランド
Liutprand
[没]972頃
イタリアの歴史家,司教。ロンバルディア地方の貴族で,イタリア王ユーグに小姓として仕えた。ユーグの死後イブレア侯ベレンガーリョ2世に仕え,949年コンスタンチノープルに使節として赴いた。帰国後イタリア王となったベレンガーリョ2世と対立し,955年ザクセンのオットー1世に近づき,961年クレモナ司教となった。その後,ローマの教会会議で勢力をふるい,968年使節として再度コンスタンチノープルに赴いた。958年頃から歴史の著述を始め,その著『贖罪』Antapodosisや『使節報告』Relatio de legatione Constantinopolitanaは,10世紀のイタリア,ドイツ,ビザンチン関係の重要史料。
リウトプランド
Liutprand
[没]744
ランゴバルド王 (在位 712~744) 。幼時内紛のため国を追われたが,帰国して王となった。東ローマ (ビザンチン) 帝国の聖画像破壊令 (→聖画像論争 ) による帝国内の混乱に乗じて,帝国領のラベンナ周辺地域,スポレト,ベネベントを奪い,ほぼ全イタリアを支配。フランク王国の宮宰カルル・マルテルと同盟してイスラムの侵入を阻止,この間の 730~742年にかけて2度ローマを包囲して,しばしば教皇に脅威を与えた。国内的には,王権の拡大,暴力的な復讐の抑止,財産取扱いの重視などの一連の法を発布し,王国の全盛期を築いた。
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