リウトプランド(その他表記)Liutprand

改訂新版 世界大百科事典 「リウトプランド」の意味・わかりやすい解説

リウトプランド
Liutprand
生没年:?-744

ランゴバルド王国の王。在位712-744年。8世紀初めのイタリアの政治情勢,とりわけラベンナのビザンティン帝国総督とローマ教皇との間の対立を利用し,軍事力によってこの両者を交互に牽制しながら領域を拡大し,他方また諸侯の独立化を抑えて,もともと分立的傾向の強かったこの王国の歴史の中では最大の統一的勢力圏を築き上げた。晩年にはローマ教会の保護者としての立場を強め,教会仲立ちとするローマ人とランゴバルド人の融和に尽力し,ロターリ王法典にも改訂を加えた。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リウトプランド」の意味・わかりやすい解説

リウトプランド
Liutprand

[生]920頃
[没]972頃
イタリアの歴史家,司教。ロンバルディア地方の貴族で,イタリア王ユーグ小姓として仕えた。ユーグの死後イブレア侯ベレンガーリョ2世に仕え,949年コンスタンチノープル使節として赴いた。帰国後イタリア王となったベレンガーリョ2世と対立し,955年ザクセンのオットー1世に近づき,961年クレモナ司教となった。その後,ローマの教会会議で勢力をふるい,968年使節として再度コンスタンチノープルに赴いた。958年頃から歴史の著述を始め,その著『贖罪』Antapodosisや『使節報告』Relatio de legatione Constantinopolitanaは,10世紀のイタリア,ドイツビザンチン関係の重要史料。

リウトプランド
Liutprand

[生]?
[没]744
ランゴバルド王 (在位 712~744) 。幼時内紛のため国を追われたが,帰国して王となった。東ローマ (ビザンチン) 帝国の聖画像破壊令 (→聖画像論争 ) による帝国内の混乱に乗じて,帝国領のラベンナ周辺地域,スポレト,ベネベントを奪い,ほぼ全イタリアを支配。フランク王国の宮宰カルル・マルテルと同盟してイスラムの侵入を阻止,この間の 730~742年にかけて2度ローマを包囲して,しばしば教皇に脅威を与えた。国内的には,王権の拡大,暴力的な復讐の抑止,財産取扱いの重視などの一連の法を発布し,王国の全盛期を築いた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「リウトプランド」の意味・わかりやすい解説

リウトプランド(ランゴバルド国王)
りうとぷらんど
Liutprand
(690ころ―744)

ランゴバルド国王(在位712~744)。ロターリ王(在位636~652)の立法事業とイタリア統一政策を継承し、ビザンティン帝国がイスラムの攻撃にさらされていたのを好機に、ビザンティン勢力をイタリアから一掃しようとし、またローマ教皇および独立性の強いベネベント、スポレトらのランゴバルド系諸侯を強力な統制下に置こうと試みた。この政策が成功するためには、フランク王国に中立的態度を保たせる必要があり、リウトプランドは、フランク宮宰カール・マルテルの対アラブ戦争を軍事的に支援して、フランクとの友好関係を維持しようと努めたが、彼の治世に高揚をみたランゴバルドの部族意識も、その死とともに急速に弱まった。

[平城照介]


リウトプランド(クレモナの司教)
りうとぷらんど
Liutprand
(920ころ―972ころ)

クレモナの司教。外交官、歴史家。北イタリアのランゴバルド系の名門の生まれ。ベレンガル2世の使節としてビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルに派遣され、ついでドイツのオットー1世(大帝)に仕えて、そのイタリア政策に参画した。『報復の書』『オットーの書』『コンスタンティノープル使節記』などの著書は、時の歴史を知るための重要な史料である。

[出崎澄男]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android