改訂新版 世界大百科事典 「イタリア政策」の意味・わかりやすい解説
イタリア政策 (イタリアせいさく)
ザクセン朝,ザリエル朝,シュタウフェン朝のドイツ国王・神聖ローマ皇帝がおこなったイタリア支配政策。皇帝政策ともいう。カロリング帝国が三つに分裂したのち,イタリア,ブルグントを含む中部地域では早くにカロリング家の血統が絶え,各地の有力者が王を自称して対立抗争を続けた。ザクセン朝のオットー1世はイタリア王ロタール2世の寡婦アーデルハイトの援助を名目に,2回にわたりイタリアに遠征し(951,961),教皇ヨハネス12世から神聖ローマ皇帝の冠を受けた(962)。以後ドイツ国王はローマ教皇より皇帝として加冠されるのが慣例となり,そのためイタリアを支配下に置くことが必要となったが,これは教皇との関係いかんという厄介な問題にドイツを巻き込み,両者の対立は国王ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世のとき,教会改革の問題ともからみ叙任権闘争(1075-1122)にまで先鋭化した。12世紀後半,フリードリヒ1世はイタリア支配を再建するため,積極的な政策を試みたが,北イタリア諸都市,教皇,シチリア王国の連合に敗れ,息子ハインリヒ6世をシチリア王女と結婚させて和解した。のち王統の断絶でハインリヒ6世はシチリア国王をも兼ね,息子フリードリヒ2世はシチリア統治に専念し,これがシュタウフェン朝の没落を早める一因となった。
イタリア政策の功罪をめぐり,19世紀にドイツ歴史家の間で皇帝政策論争(ジーベル=フィッカー論争)がおこった。批判論者は近代ドイツの政治的分裂の原因が,中世ドイツ皇帝がイタリア経営に力を注ぎ国内統治をないがしろにした点にあるとし,擁護論者はイタリア政策がその時々の国内事情と密接に結びついていたと主張し,その後,後者が有力になりつつあるとはいえ,論争は現在まで尾をひいている。
執筆者:平城 照介
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報