改訂新版 世界大百科事典 「レヘント」の意味・わかりやすい解説
レヘント
regent
オランダ共和国における都市統治者,すなわち各都市の市長および市参事会員で,その多くは富裕な商人層の出身者によって占められた。元来,自治都市を統治する市参事会員は選挙によって選ばれた富裕な上層市民であったが,共和国時代の多くの都市において市参事会員は終身制となり,そのうえ欠員は参事会員の互選によって補充されたので,市参事会員は少数の有力門閥出身によって占められるようになった。これらの門閥は,17世紀オランダの海運,貿易の隆昌によって財産を築いた,アムステルダムを先頭とする商業都市の大商人,海運業者,金融業者などで,豪邸に住み,荘園を購入し,都市貴族としての富と威信を備え,またオランダ文化の黄金時代を築いた階層であった。
一般に17~18世紀のヨーロッパ諸国では強力な絶対君主や中央政府のもとで地方・都市の自治は抑圧されたが,オランダには強力な中央政府がなく,州主権のもとに都市が強大な自治権を享受していたから,各都市のレヘントは市政に強大な権限を振るうことができた。レヘントは各都市の代表として州議会議員となって州の政治を担い,また7州によって構成され,共和国の最高意志決定機関である連邦議会に州を代表する議員として出席した。連邦議会においては連邦財政の過半を負担するホラント州代表の発言権が強く,ホラント州議会を支配したのはアムステルダムをはじめとする商業都市の代表であったから,レヘントは都市,州,国の実質的支配者であった。彼らは〈議会派〉と呼ばれる政治勢力を形成し,商業・貿易の自由=州分権(州主権)体制の確立と維持を志向し,ハーグの総督を中心に集権的統治を推進しようとする〈総督派〉と激しく対立した。
レヘントに関しては,封鎖的な階層を形成して共和国の政治を独占し,分権化の志向によって近代国民国家的統一の形成を妨げ,また役得や汚職によって18世紀の共和国の沈滞と閉塞を生んだと断罪されてきたが,他方,絶対主義諸国家に比べて,レヘントの統治は穏和で文化的・開明的であったとする擁護論も少なくない。
→オランダ共和国
執筆者:栗原 福也
オランダ植民地時代のインドネシア
オランダ植民地時代におけるインドネシア原住民首長の総称。オランダ東インド会社時代の用法はあいまいで,たとえばアンボン,スラウェシ南部,スマトラ西部などでは比較的小さい地域ないし村落の首長をさすこともあるが,ジャワおよびマドゥラではマタラム・イスラムその他の諸王国の衰退に伴い,各地で自立化の傾向を強めつつ,やがて会社の直轄領に組み入れられていく土着支配層の最高位の者だけをさす。インドネシア語,ジャワ語ではブパティBupatiといい,その行政区域はカブパテン(オランダ語ではレヘントスハップ)と呼んだ。カブパテンの首府にはレヘントとオランダ人副理事官(アシステント・レシデント)との両役所が併置され,後者は前者を補佐するという建前で,実は監督し統制した。数カブパテンを合わせた区域はレシデンシーと呼ばれ,オランダ人理事官(レシデント)が統治に当たり,これに相当する原住民官吏は直轄領では存在せず,わずかに特別地区(ソロ,ジョクジャカルタ)の土侯がこれと同等に位した。1937年ごろのジャワ,マドゥラ全土のレシデンシーの数は19,カブパテンの数は約70といわれる。レヘントの任免は時代が下るにしたがい,世襲的身分よりも植民地支配者への忠誠度や行政能力によって決まるようになった。彼らは概してオランダの植民地体制を支える役割を担い,民族主義運動には冷淡であった。独立後の現在,ブパティは共和国中央政府の任命制である。
執筆者:永積 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報