インドネシア,中部ジャワのジョクジャカルタ付近をさす地名で,古来この名を冠した王国が二つある。一つは732年にサンジャヤSanjayaが建てたヒンドゥー王朝マタラムであり,いま一つは16世紀末ごろから18世紀半ばにかけて存在したイスラム王朝マタラム(マタラム・イスラム)である。ここでは前者を扱うが,以下に述べるように,歴史学の用語としては,やや厳密さを欠く。
最初にマタラム国の王と自称しているのは,中部ジャワ・ケドゥー州のチャンガル碑文(732年)に記される王で,この王はいわゆるサンジャヤ朝の創始者である。しかし約半世紀後には中部ジャワでシャイレンドラ朝が盛んになり,ボロブドゥールその他の仏教建造物を創造するのであり,やがて832年ごろシャイレンドラ朝のサマラトゥンガ王が死去したが,その男子が幼少だったため,サンジャヤ朝に嫁いだ王女プラモーダワルダニーの夫でマタラム王のラカイ・ピカタンが実権を得たのである。これ以後,中部ジャワでは仏教に代わってヒンドゥー教関係の建造物が盛んに造られるようになり,ジョクジャカルタ近郊のプランバナン遺跡群,とくにその中心をなすロロ・ジョングランの石塔はこの王国の芸術的達成の高さを示している。929年に即位したシンドクSindok王(在位929-947)のとき,おそらく噴火,大地震,伝染病,外敵侵入のうちのいずれかの理由により,都は東部ジャワ内陸部のクディリに移動し,このときから1222年の滅亡まではクディリ朝と呼ぶのが普通であるが,王たちは依然としてマタラム王を称していた。
執筆者:永積 昭
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中部ジャワに成立したイスラム王国(1582ころ~1755)。建国の時期と事情については不明な点が多い。3代目の王パヌムバハン・セナパティ・インガラガ(在位1584ころ~1602ころ)の時代から武力による周辺地域の征服が始まり、4代目の王スルタン・アグン(在位1613~45)の時代にジャワ中部、東部のほとんどを支配下に収め、二度にわたってオランダ東インド会社の根拠地バタビア(ジャカルタ)を攻撃した。その子アマンクラット1世(在位1645~77)はオランダ東インド会社とは友好関係を維持したが、国内では反対者を殺すなどして独裁的地位を固めた。このためマドゥラの領主トゥルナジャヤが1674年に反乱を起こした。国王は会社に援助を求めてこれを鎮圧したが(1682)、このときから王国は会社の干渉を受けるようになったうえ、領土の割譲を迫られた。
こののち王国では二度にわたる王位継承戦争(1703、1719~23)、1744年のバタビア華僑(かきょう)のオランダに対する反乱の応援のための戦争があり、そのたびごとに会社の介入が起こり、北海岸に面した領土のすべてを失った。オランダはむしろ国王の権威を利用して間接的に領土を支配する政策をとったが、たまたま東インド総督ファン・イムホフVan Im'hof(在任1743~50)の失敗から第三次の王位継承戦争が起こった(1749~57)。これは実質的にはオランダのマタラム支配に対する抵抗であったが、オランダは反乱軍内部の対立を利用してこれを鎮圧し、ついで1755年に、まだ残っていた王国の領土をジョクジャカルタのスルタン領とスラカルタのススフナン侯領に分割し、王国の歴史は終わった。
[生田 滋]
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…約2km四方にわたって,ヒンドゥー・ジャワ期すなわち7世紀から13世紀に及ぶ石造のヒンドゥー教寺院跡が点在していることで有名である。ディエンとはサンスクリットで〈神々の座〉を意味し,サンジャヤ王に始まる古マタラム王朝ゆかりの聖地である。1864年以来数度にわたって発掘調査され,その結果809年から1210年にいたる碑文や神像,会堂や住居の遺構などが発見された。…
※「マタラム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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