ロシアソビエト美術(読み)ロシアソビエトびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「ロシアソビエト美術」の意味・わかりやすい解説

ロシア・ソビエト美術 (ロシアソビエトびじゅつ)

本項では,キエフ・ロシアのもとで一応の民族的統一が達成され,東方正教(東方正教会)が国教に定められた10世紀の末から現代にいたるまでの,ロシアの地で展開された美術の特質と流れを概観する。十月革命(1917)をはさんで,それ以前を〈ロシア美術〉,以後を〈ソビエト美術〉と区分される場合もある。

ロシアの美術は,直接的には古代ギリシア美術を知ることなく,10世紀末にビザンティン帝国からキリスト教美術を摂取してからその歴史は始まった。また18世紀には,ロシアであるよりもヨーロッパの中のロシアでありたいという積極的な西欧化政策によって発展するなど,全史を通じてヨーロッパ美術と多くの共通性をもっている。しかし,ヨーロッパ美術と完全に歩調を合わせたのでもなく独自の発展を示すことになった最大の理由は,東方正教世界にとどまっていたことと,ヨーロッパから分断され孤立化された時期が長かったことによっている。いわゆる〈タタールのくびき〉,つまり13世紀から250年にわたる異民族モンゴルの支配による孤立化は,ヨーロッパからの影響を遠ざけ,ロマネスク,ゴシック,ルネサンス期に相当する時代をもたらさなかった。またヨーロッパ美術の模倣から始まった美術が,独自の様式に発展しえたのは,それが風土に根ざして創造され,異教的なもの,あるいはモンゴル襲来後のアジア的なものと巧みに融合されたためである。ヨーロッパ美術との違いは,宗教の相違,そして一方が〈石の文化圏〉にあり,他方がスラブ民族特有の〈木の文化圏〉にあるという本質的な違いでもある。キリスト教への改宗,18世紀のピョートル1世(大帝)の欧化政策,20世紀の革命のような政変や歴史的諸事件と結びついて,美術の流れが急転換するのもロシア美術の大きな特色である。

 美術活動の舞台となったヨーロッパ東部平原はアジアとヨーロッパの境界に位置するが,中央アジアの砂漠と天山などの山脈にふさがれ,南のステップ地帯を除いてアジア大陸側からの文化流入が行われにくかった。そこでスラブ人は,大陸を南北に縦断する国際交易路によって,北はバイキング,ノルマンと,南は黒海の彼方のビザンティン帝国と交易や戦いを通じて接していた。このような地勢が,ヨーロッパ化へのきっかけを作り出したのである。

988年ロシア最初の国家,キエフ・ロシアがキリスト教に改宗すると,既存のアニミズム信仰にもとづく美的創造物はことごとく破壊され,キリスト教に帰依するビザンティン帝国コムネノス朝の,いわゆる宮廷直属のビザンティン美術が伝えられた。封建制強化のためのキリスト教一元化は,異教的なものを包含し同化させる形となり,それがしだいにロシア特有の美的世界をつくることになった。教会美術がビザンティン様式に従いながらも,その厳格な様式から離れて地方的な特色をもちはじめたのは,13世紀から14世紀にかけてであった。その直接の動機は,十字軍によるコンスタンティノープル攻略,それにつづく国際交易路のライン川への移行によってビザンティンとの交流が断たれたこと,そしてタタールのロシアへの侵略開始に伴い森林部に追われたことである。人々は,森を砦(とりで)としてその中に広い平野部を開き都市をつくるという形式を生み出した。古来のフィンおよびスラブ族特有の釘を使わず木組みだけで日用品から家屋までをつくる技術は完成の域に達し,その独特の形を石造建築にも工芸にも応用した。外敵による破壊,そして復興が繰り返されたこの時代には,アトス系の精神性の高い思想が,とくに北東部を中心とするイコンに反映された。

ロシア美術が一つの頂点に達したのは,タタールから解放され国家的統一がすすんだ15世紀末である。コンスタンティノープルが陥落し,モスクワが〈第三のローマ〉としての意識をもったことも手伝って,イタリアから建築家が招かれて,モスクワ・クレムリン内に石造の教会堂や宮殿が次々と建てられた。ロシア美術史における大きな転換は18世紀に起こる。ピョートル大帝の大改革によって,美術は宗教に帰依するのではなく,宮廷の美術に変わる。絵画では,その中心がイコンから肖像画に移るなど,世俗美術が台頭していった。ロシア美術のヨーロッパ美術からの立ち遅れを取り戻すために,あらゆる技術が習得された。そのために,中世以来の伝統的な宗教美術は著しく弱められ,歴史画,風景画,風俗画など西欧の絵画ジャンルの興隆が見られた。

 ロシアの美術史の中で,驚くべき飛躍をとげたのは,19世紀の絵画である。18世紀以来,わずか1世紀の間に西欧の美術の水準に達したばかりでなく,移動展派のように,絵画を媒体として民衆を啓蒙する運動を展開するほどのエネルギーをもった画家グループが登場した。とくに革命寸前には,先鋭的な前衛諸派が乱立し,美術界はその極に達していた。

スラブ特有の木造建築をもつだけのロシアに,石造建築の技術がビザンティンから伝えられたのは10世紀末のことであった。それ以後キエフ,ノブゴロドを中心に円蓋(ドーム)式ギリシア十字プランを基本とする正方形もしくは長方形の(東側に壁龕(へきがん)あるいは張出し部をもった)教会堂がおびただしく建てられた。教会堂は一般に,煉瓦と石を併用して構築され,壁面は漆喰(しつくい)で仕上げられた。最もロシア的な特徴の一つは,円蓋部が高い基壇(鼓胴部)によって持ち上げられ,それを覆う屋根,つまり主ドームと副ドームに相当する部分の金や緑,灰色などに彩られた頂冠の独特の形であり,またその形と数が,時代,地域によって変化することである。初期には,古代戦士のかぶる兜(かぶと)型をなした頭冠が多数群立したが,12~13世紀には,ルーシの統一を象徴して1基のものが,また16世紀には,モスクワ・クレムリン内の教会堂を範として5基のものが主流となり,15世紀末から17世紀にかけては,いわゆるタマネギ型(ルコビッツァlukovitsa)の頂冠へと変貌した。

こうしたロシア化は,建築を風土に適応させることによって,あるいは従来の木造建築からの影響,地域性,象徴的な意味づけなどによってもたらされた。ロシア化の初期の代表例として,白石材を用いロマネスク風の浮彫外壁装飾を施した,まことに端正な美しさをもつウラジーミル地方の教会堂群と,14世紀から約1世紀の間ノブゴロド地方に現れた変形の屋根をもった教会堂群などが挙げられる。ビザンティン帝国が滅亡した15世紀中葉以後は,ビザンティン的な様式からますます離れて民族性が強められた。モスクワを中心とする国家統一が進められた15世紀末から16世紀には,イタリアから建築家が招聘(しようへい)され,ヨーロッパ最新の築城術によってモスクワ・クレムリンは木造建築から石造へと大改築が行われた。しかし,その際ヨーロッパ・ルネサンスの影響はきわめて部分的にとどまり,ウラジーミルのウスペンスキー大聖堂を手本とする建築アンサンブルが完成された。16世紀以降,その他の都市や修道院では,このモスクワ・クレムリンの様式を踏襲していった。

16世紀には,まったく新しい屋根をもった教会堂の形式が興った。それは,国王の威力を象徴する形として,木造建築から取り入れられたもので,天幕型(シャチョールshatyor)と呼ばれる八角錐の塔状の屋根が,円蓋に代わって現れた。またこの期は〈タタールのくびき〉からの完全解放と,国家統一の喜びの気運が,規則にとらわれない夢幻的な建築を創造させた。最もロシア的で奇想天外な様式によるワシーリー大聖堂(モスクワ)は,その代表例である。天幕型の屋根はそう長くは続かず,17世紀に姿を消した。17世紀後期には,大胆な形式と凝った装飾を求めてヨーロッパのバロックに類似した〈ナルイシキン・バロックnaryshkinskoe barokko〉が登場した。赤い壁面に白で装飾したもの,彩色陶板を用いたものなど,華やいだものが流行した。この時期は,石造建築から影響を受けた木造建築が著しい発展期を迎え,コロメンスコエKolomenskoeの宮殿やキージKizhi島の教会堂にみるように,幻想的な秀作を残した。

18世紀前期は,新首都ペテルブルグ造営のために招かれたフランス,ドイツ,オランダなどの建築家がルネサンス,バロック様式を伝え,ロシア・バロック様式に発展させた時期であった。遠くシベリア,フィンランド,ウクライナ地方から供給される珍しい石材を新しい建材として,ペテルブルグを中心に宮廷建築が隆盛し,ロシア近代建築は西欧風のものへと大きく飛躍した。18世紀後期は,バロックに代わってイタリアからロココと新古典主義様式が入るが,モスクワでは過去の〈ナルイシキン・バロック〉と新しい様式とを統合して成果をもたらしたバジェーノフVasilii Ivanovich Bazhenov(1738-99)のようなロシアの建築家もあった。また,この期にはモスクワをはじめとする多くの都市が,ペテルブルグの海軍省区を手本に都市計画を進め,新古典主義様式を採用して建設をはじめた。

19世紀初頭,ナポレオン戦争の勝利は国家意識を高揚させ,アンピール様式による邸宅や宮殿が建設された。また,都市全体の美観を考慮した,壮大な建築アンサンブル形式も生まれた。モスクワでは,ボベーOsip Ivanovich Bove(1784-1834),ジリャールディDementii Ivanovich Zhilyardi(Dzhilyardi)(1788-1845)によって都市の再建が計られ,新古典主義様式による公共建造物の傑作が残された。19世紀後期は諸流派の亜流や折衷主義が盛行するなかで,中世ロシア建築様式へ回帰しようとする〈擬ロシア・ビザンティン様式〉が興った。19世紀末から20世紀初めにかけては,アール・ヌーボー,ゼツェッシオン(分離派),国際様式などから若干の刺激も受けた。新しい建築材料を用いた高層建築がペテルブルグとモスクワに出現しはじめ,アバンギャルドの建築理論も普及し,技術的に大きく進歩しつつあった。

10世紀末に政治的大転換が行われて以来17世紀まで,ロシアの絵画は二次元的表現による宗教画で占められた。つまりキリスト教を賛美し,神とその世界を写し出す役目を担ったイコン,フレスコ,モザイクが,久しく絵画を代表するものとなった。その技法はキリスト教化と前後してビザンティンからキエフへ移入されたもので,ロシアの絵画は,古代ギリシア風の威厳に満ちた人物像を平面に置き代えた壮大簡潔な筆致をまず学ぶことから始まった。ロシアにおいて他に類をみないほどイコンが発達したのは,森林資源に恵まれたことに加えて,樹木崇拝と土俗信仰から移行した守護聖人の多さとも少なからず関係をもっていた。ビザンティンの厳格な様式から脱して独創性を早くから示したのは,北のノブゴロドであった。それは,この地に民会が発達し,他に比べてやや自由な空気をもっていたこと,西ヨーロッパと唯一接触があったなどの特殊性がもたらしたもので,親しみやすい様式が興った。濃い色と明確な輪郭線を好む傾向は,早くも12世紀のノブゴロド近郊のフレスコに現れた。一方,北東部のウラジーミル周辺部では,ビザンティンから贈られた《ウラジーミルの聖母》を手本とし,ビザンティンの正統派の伝統を維持しながら,精神性の高い民族的感情を反映させた様式を形成しつつあった。しかし13世紀に始まる異民族の侵入以来,ウラジーミルは破壊と復興に明け暮れるようになった。諸都市の荒廃が進む13世紀末から14世紀には,それを免れた北部のノブゴロドやプスコフで著しい発展がみられた。14世紀には,フレスコからの影響を受けた優美で明快,リズミカルなノブゴロド独自の様式をもったイコンが生まれ,14~15世紀にその全盛期を迎えた。

 14世紀末から15世紀は,ビザンティン帝国最後のパライオロゴス朝の影響を受けて育ったロシアの個性的な画家たちが輩出した黄金時代であった。その大いなるきっかけは,コンスタンティノープル派の成果を受けつぐと推定されるギリシア人画家フェオファン・グレクのノブゴロド招聘がもたらした。豊かな技量と深い知識をもったフェオファン・グレクはノブゴロド,モスクワを中心とするイコン画家たちに多くの刺激を与える。モンゴルの圧政からの解放の兆しが見え,モスクワ公国が国内的統一をすすめていた15世紀初めに,モスクワ近郊修道院出身と推定される修道士A.ルブリョフが,イコンとフレスコの最高傑作を残した。代表作《聖三位一体》で知られるように,彼は宗教哲学的な象徴性をもった神秘的で優美な画風を確立した。その後継者と目される俗界出身の画家ディオニシーは,ルブリョフの伝統に新しい感覚を加えて登場し,美しい線と中間色の使用による抒情的な独特のスタイルをうちたてた。コンスタンティノープル陥落によって東方正教会の指導権がロシア正教会の手に移り,またロシアがモンゴル支配から完全に独立したころから,イコンの人物の容貌や背景が,それまでのギリシア的なものからロシア的なものに変わっていく。16世紀半ば,独裁制が強化されるに従い,各地の優れたイコン画家がモスクワに集められたため,地方流派が自然消滅していった。とくにモスクワ派を形成したのは,プスコフとノブゴロドの優秀な画家たちであった。またこの時代からそれまで神の世界を賛美してきたイコンが,地上の主権者をたたえるものに代わり,金銀細工で飾られた工芸的なものが登場した。細部描写と物語性が強まるなかで異彩を放っていたのは,北方の大商人ストロガノフ家のために細密画による家庭用の小型のイコンを制作した,ストロガノフ派であった。この派によって作品に制作者の名を明記することが始められた。17世紀の画家S.F.ウシャコフは,モスクワ国家最初の画家であり,最後のイコン画家ともなった。彼は,従来の荘厳さをイコンに取り戻そうとしたが,一方では人物の写実化をしだいに進めていった。長い間,厳然と旧来の二次元的表現の伝統に従ってきたイコンも,ポーランドから伝えられた世俗的な西欧のリアリズムの影響によって変化を見せはじめたのである。

ロシア正教とともにあったすべての過去をふり切って進められたピョートル大帝の西欧化政策によって,18世紀からのロシア美術は急速に近代西欧絵画に近づいていった。それまでのビザンティン的な宗教美術から自由になり,ペテルブルグの宮廷を中心とする世俗的美術の時代を迎える。この時代の絵画の主流はイコンに代わる肖像画と装飾画であった。1757年ペテルブルグに美術アカデミーが創設され,フランスから指導者を迎えるようになると,ロシアにも肖像画家が育ちはじめる。18世紀の絵画は,圧倒的にフランス絵画の強い影響下にあり,それから脱してロシア独自の道を歩きはじめるのは社会的意識に目ざめた19世紀に入ってからであった。ナポレオン戦争の勝利は愛国心を目ざめさせ,歴史画,風俗画,風景画などすべてのジャンルの絵画が誕生した。さらに19世紀中期には,A.A.イワーノフのような国民の意識改革を促す者も現れた。1850年代末から60年代は,専制政治下の社会批判を含む傾向が強まり,V.G.ペローフのように絵筆により社会の最下層階級の悲哀を訴える画家たちの登場を見る。1870年,進歩的思潮に影響されアカデミズムとの決別を宣言して生まれた移動展派の画家たちは,ロシア的写実主義を完成するとともに,絵画を通じ鋭い社会批判を行った。90年代末には,この反動として移動展派を批判するロシア・モダニズム運動が興った。世紀末から20世紀初頭にかけて,リアリズムとモダニズムの二つに大別される多数の美術団体が登場し,ロシア絵画に大きな進歩が始まる。後期印象派の影響を受けた〈ダイヤのジャック〉派の登場(1910)など,ようやく西欧近代美術の水準に達したところで革命を迎えることになった。

 なお,18世紀から盛んとなった民衆版画ルボークは,こうした時流に染まることなく,20世紀初頭にいたるまでロシア古来の絵画的伝統を維持しつづけていた。

ロシアにおけるキリスト教は建築,絵画,工芸の飛躍的な発展をもたらしたが,丸彫彫刻は偶像とみなされたため,18世紀まで本格的な彫刻芸術の発達をみなかった。したがって,12世紀に第2の首都ウラジーミルを中心として,外壁面に聖書の主題と異教的なモティーフを交えた動植物や人物頭部の薄浮彫を施した教会堂建築が現れたのは,特異な例といえる。それは,この地方が東西南北に通ずる河川による交易を通じて,ドイツ,グルジア,アルメニアなどと接触があったためで,とくに東方からの織物や金工品からの影響が強いとみられる。この現象は,木造建築の装飾として部分的に残ったが,他の地方には発展しなかった。

 ロシアに本格的な彫刻が興ったのはピョートル大帝の時代で,首都造営のために招聘された建築家とともに訪れた彫刻家によってであった。彼らは,当時ヨーロッパの主流をなしていたバロック様式を伝え,早くも18世紀中葉に彫刻は最盛期を迎える。1716年,初めて招かれたイタリアの彫刻家ラストレリBartolomeo Carlo Rastrelli(1675ころ-1744。建築家B.F. ラストレリの父)が庭園の彫像をはじめ《ピョートル大帝の胸像》などの代表作を残した。つづくフランスのÉ.ファルコネ(1766-79年ペテルブルグ滞在)は《ピョートル大帝の騎馬像》を制作したが,この作品はロシアの彫刻家に大きな影響を与えた。1757年に美術アカデミーが開設されて,ようやくロシアの本格的な彫刻家育成が始まる。ギリシア彫刻を賛美する者,バロック,あるいはミケランジェロのような古典を目ざす者とさまざまであった。19世紀後期は,自然主義的にこまやかな描写で人間の心理を表現する方法を見いだした。やがてトルベツコイPavel Petrovich Trubetskoi(1866-1938)のような印象主義的傾向をもつものが出現して,さらに20世紀初頭になるとコニョンコフSergei Timofeevich Konyonkov(1874-1971)のような大彫刻家を生むに至った。

天然資源の宝庫であるロシアでは,この分野で優れた才能を発揮した。とくに宗教儀式に用いられる聖祭具を自国で制作するようになると,貴金属,宝石細工,七宝,黒金象嵌(ニエロ),打出し,鍍金,彫金などあらゆる技術を修得しそれを駆使した。とくに木彫民具の形を金属器にそのまま移行して,柄つき酒杯をはじめとするロシア特有の形式を生んだ。また,ロシアの七宝は国際的評価が高く,ビザンティン,アルメニア,イタリアなどの影響を受けながら発展したものであるが,金線や銀線をよじって仕切りとするエマイユ・クロアゾンネ(有線七宝)が,16~17世紀に頂点に達した。17世紀にモスクワ・クレムリン内の武器庫は,宮廷の注文品を制作するロシア人や外国の工匠が集まって,ロシア工芸の中心をなし,あたかも中世美術・工芸アカデミーの観を呈していた。工芸の専門工房は,大修道院や貴族の領地内にもあった。17世紀はあらゆる工芸が急速に発展した時期で,家具,捺染品,ガラス製品,木彫,石彫,宝石細工,刺繡などが,バロック様式やオリエント工芸品の影響を受けてつくり出された。18世紀中葉には,ペテルブルグに王立の製陶工房もでき,ヨーロッパから指導者を迎え陶器もまた飛躍的な発展を見た。
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20世紀初頭,帝政ロシアは西欧資本を導入して工業化をはかったが,1905年の〈血の日曜日〉や日露戦争の敗北に震撼された。移動展派のパトロン,S.I.マモントフは私設美術館にロシア農民美術を集め,私設オペラ劇場で画家たちに舞台装置をゆだね,他方シチューキンやモロゾフは印象派以後の西欧美術を収集して一般にも公開した。そのような状況の下で,ディアギレフ,ベヌアらの〈芸術世界〉(1898結成)は,メレシコフスキーやブロークの象徴主義の影響下に,ロシア中世のイコンに学びながら西欧のアール・ヌーボーに接近し,P.V.クズネツォフ,ミリューティ兄弟,M.S.サリヤンらの〈青いバラ〉(1907)は,フォービスムと接触して象徴主義をこえ,プリミティビズムにむかった。〈青いバラ〉に属したラリオーノフとその恋人ゴンチャロワは,1910年I.I.マシコフ,R.R.ファリク,P.P.コンチャロフスキーらと〈ダイヤのジャック〉を結成し,フランスのキュビスムやミュンヘンの〈ブラウエ・ライター〉,グルジアの素朴画家ピロスマナシビリ(ピロスマニ)らを展覧会に招待した。しかし,2人はセザンヌ主義にとどまる仲間に不満で,12年シャガール,マレービチ,タトリンらと〈ロバの尻尾〉を結成し,さらに物体の発する反射光の交錯する抽象空間をめざして〈光線主義〉を提唱するものの,15年バレエ・リュッスに舞台美術家として加わってパリに亡命した。ロシアのキュビスムは未来派と融合しながら,D.D.ブルリューク,I.A.プーニ,N.I.アリトマンらを中心に急速に非具象にむかったが,そのなかで白地に黒や白の正方形,円,十字形を配して宇宙的瞑想を表現するマレービチの〈シュプレマティズム〉と,鉄・木・紙・セッコウの身近な素材をレリーフ状や宙吊りに組み合わせる,タトリンの構成主義の対立が深まった。

 十月革命直後の内戦と外国軍干渉の時期,〈街路はわれらの絵筆,広場はわれらのパレット〉とうたったマヤコフスキーは,電報で注文をうけるとすぐステンシル印刷や木版でポスターを刷って届ける〈ロスタの窓〉を組織した。ペトログラードの革命1周年記念日に,アリトマンは冬宮の壁を未来派風の絵で飾り,広場中央に巨大な抽象彫刻を置き,武装兵士や群衆を照明で照らすページェントを現出させた。また,メイエルホリドやタイーロフの実験演劇に多くの美術家が協力したほか,車体や船腹に絵を描いた扇動列車や扇動汽船も野外劇の舞台となった。初代教育人民委員長ルナチャルスキーは,同委員会にIZO(造形芸術部)とその協議会を設け,モスクワ美術学校を絵画,彫刻,建築,陶芸,金工,織物,印刷の7部門に改組して市民にも開放したブフテマス(国立高等芸術技術工房)の教師などに,西欧からの帰国者や国内の急進派を登用して芸術革命を推進した。シャガールは故郷ビテプスクの美術学校校長となり,リシツキーやマレービチを教師に招いた。ブフテマス教授,新設の絵画文化館長で,芸術文化研究所の芸術教育改革案を起草したカンディンスキーは,色彩・線・形態の基本的要素を分析して幾何学的構成を重視し,諸芸術の総合にむかう方向を示したが,個人的,純芸術的として構成主義者によって否定された。構成主義は当時生産と芸術の直結を求めて,プロレタリア文化の創造をめざす〈プロレトクリト〉の運動と結合していた。しかし,文盲の一掃とブルジョア遺産の継承を先決とみるレーニンは,プロレタリア文化の性急な主張には批判的で,革命の先駆者たちの彫像建設を推進する。そのなかで,鉄とガラスのらせん構造に光,電波,映像などを併用する,タトリンの高さ400mの《第三インターナショナル記念塔》(1920)は,実現されなかったが,構成主義の頂点を示すものといえる。

 21年,ネップ(新経済政策)とともに秩序再建の機運がおこり,とりわけ24年レーニンが没してのち,スターリンの一国社会主義路線の下で保守的傾向がつよまる。アバンギャルドは閉塞して多くの美術家が西欧に亡命し,〈革命ロシア美術家連盟〉などの写実的勢力が主導的になり,それが20年代末には〈RAPP(ラツプ)(全ロシア・プロレタリア芸術家連盟)〉に流れこんだ。32年ソビエト共産党中央委員会は文学芸術団体の解散,ジャンル別単一組織の結成を決定し,その結果〈ソビエト連邦美術家連盟〉が生まれたが,これはスターリン体制の文化領域での完成を意味する。34年には〈社会主義リアリズム〉が,〈ソビエト芸術文学および文学批評の基本的方法〉として公認されるが,同じころ大粛清が始まり,前衛芸術も形式主義,コスモポリティズムとして槍玉にあげられ,A.M.ゲラシモフ,B.V.イオガンソンら大時代的でヒロイックな表現のうちに現状肯定を秘めた作品がめだった。サリヤン,A.A.デイネカ,ククルイニクスイらが,近代的要素を残存させた芸術家として注目される。その傾向は,大祖国戦争からスターリンの晩年にかけて頂点に達する。非スターリン化の口火を切ったフルシチョフは,第一書記時代,ある彫刻を〈ロバの尻尾〉と批判したが,晩年,あれは本心ではなかったとわび,この彫刻家E.I.ネイズベストヌイに自分の墓を設計させた。

 ペレストロイカ以降は美術界にも自由な気運が生じ,アメリカ,西ヨーロッパの同時代美術とほぼ並行した造型が自由に行われ,公開されるようになった。また,20世紀初めのアバンギャルド芸術の見直しも始まっている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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