改訂新版 世界大百科事典 「ロシアソビエト音楽」の意味・わかりやすい解説
ロシア・ソビエト音楽 (ロシアソビエトおんがく)
革命前のロシア帝国の時代からソ連邦に至るまでの音楽について概観する。しかし旧ソ連邦には,130以上の異なる言語があるといわれるほど多様な民族が住んでおり,その音楽文化を全体として統一的にとらえることには大きな困難が伴う。全人口の半分以上を占めるロシア連邦共和国の音楽が中心となるが,南の黒海沿岸からカスピ海岸,さらにその東の中央アジアへかけては,西アジアの文化圏の影響を強く受けていて,高度な宮廷音楽文化が栄えてきたし,北西のバルト海沿岸地方では,バルト系の諸族に対するドイツ人の支配が続いたので,中世以来ヨーロッパの音楽文化に接してきた。またウクライナの南部やモルダビア(現,モルドバ)はオスマン帝国の支配下にあったことから,トルコ音楽の影響も残している。シベリアから極東にかけては,モンゴル,ツングースなど東アジアの諸民族の音楽文化が色濃く残されている。ウラル山脈からボルガ流域にかけては,フィン・ウゴル,チュルク,モンゴルなどの系統の少数民族がロシア人との複雑な混交を示していて,民族音楽学の最も興味深い研究対象の一つになっている。2~3世紀以降キリスト教をとり入れたカフカス地方では,先住民と考えられるカフカス諸民族のほかにギリシア系,イラン系,チュルク系など,実に多様な人種が混在しており,グルジアの研究はかなり進んでいるが,まだ数多くの民族の音楽文化が今後の研究を待っている。総じて旧ソ連邦は,いずれの地域においても何層にも複雑な文化接触を繰り返してきており,その音楽文化はきわめて多様である。そのため,ここではロシアを中心に,その音楽史のあらましを記述する。
ロシアの民俗音楽
民族楽器と古い民謡
典礼に楽器の使用を禁止してきた東方正教の影響により声楽が優勢であるが器楽もある。代表的な楽器としてグースリがあげられる。この名称はスラブ共通のもので古い起源をもつが,ロシアではフィン族のカンテレに似たチター族の撥弦楽器を指す。ジャレイカzhaleikaはシングル・リードの楽器で,泣き叫ぶような鋭い音を出すことからこの名がある(zhalet’は〈悲しむ〉〈哀れむ〉の意)。これをバッグパイプにしたものがドゥートカdudkaまたはボリンカvolynkaである。木製のらっぱはロジョークrozhokと呼ばれ,指孔がついている。バラライカは新しい楽器で18世紀に現れた。19世紀の30年代にロシアに来たアコーディオンは〈ガルモーニgarmon’〉(バヤンはその完成型)の名で爆発的に流行し,バラライカとともに現代の代表的な民族楽器になった。ドムラdomraは古い名称であるが,現行のものは19世紀に復元された楽器で,ロシア・マンドリンとも呼ばれて親しまれている。古くはスコモローヒskomorokhiと呼ばれる放浪楽士が多くの楽器をもっていたことが知られているが,彼らは17世紀中ごろに教会の大弾圧を受けて絶滅した。
民謡は豊富に伝承されている。農耕暦に関連した歌は他のスラブ族に共通のものも多く,最も古い様式を伝えているものと考えられている。コリャートカkolyadkaは豊作予祝の儀礼に伴われる歌で,厳寒のなかをクリスマス・キャロルのように若者たちが歌いながら門付をして歩く。復活祭の時期に歌われるベスニャンキvesnyankiは文字通り春vesnaの歌で,春を目覚めさせるという魔術的な機能をもっている。夏至(げし)にはヨハネ祭が行われるが,これは伝統的には〈イワン・クパーロの祭事〉と呼ばれ,一連の歌を伴う。秋の取入れには念入りな儀礼が行われ,特徴的な旋律型をもった数多くの歌が歌われる。これらの民謡はいずれも4~6度の狭い音域の類型的な旋律と短いリズム形で単純な祈りを繰り返すもので,美学的な意味はあまりない。同様に古い起源をもつが,かなり新しい変化を被っている歌に,家庭生活に伴うものがある。そのなかでは婚礼と葬式の歌がとくに重要である。いずれにも泣歌prichitaniyaがあり,これは葬式だけでなく,嫁入りとか兵隊にとられるときなど,長い別れに際して歌われる。婚礼歌には古式を保った儀礼的な歌も少なくないが,ほめ歌,踊り歌,抒情歌など,種々な時代様式の歌が混在している。子守歌も単純な類型的なものが多く,古い型を残しているものの一つに数えられている。
ブイリーナ
叙事詩は一定の旋律型の繰返しで延々と歌い継がれるブイリーナがよく知られている。約2500行の詩と120足らずの旋律が記録されているという。キエフ・ロシア時代(9世紀半ば~13世紀半ば)のできごとをイリヤ・ムーロメツ,ドブルイニャ・ニキーチチ,アリョーシャ・ポポービチなどという伝説上の勇士の行跡として語るもので,ロシア人にとっては幼いときから親しんだ懐かしい歴史物語である。音楽的には単旋律を主体とした北ロシアの伝統と高度なポリフォニーに発展した南ロシア(ドン・コサック)のものとが大きく区別される。もっと後のモスクワ・ロシア時代(14世紀中ごろ~15世紀中ごろ)のできごとを歌う叙事詩は,文学的にも音楽的にもまったく別の様式をもっていて,〈歴史歌〉と呼ばれている。これらは音楽的にはあとに述べる抒情歌と区別できない。
抒情歌とロシア・ロマンス
舞踊にはホロボードkhorovodとプリャースカplyaskaがあり,いずれも特徴的な歌謡を伴う。ホロボードは遊戯の要素も多い群舞で,本来は農耕儀礼と関係があったようで,種まきから取入れまでを劇化したものなど,教育的な意味もある。若い男女が初夏の野原に集まって遊ぶときに歌われ,踊られるもので,多様な型が数多く残っている。プリャースカは一人または対になって踊る急速な舞踊である。ホロボードは主として女性または男女が対になる踊りであるが,プリャースカは男性の踊りで,アクロバット的な技巧を披瀝する。
ロシアの民謡で最も豊かなのは抒情歌で,とくにプロチャージナヤprotyazhnayaと呼ばれている。この語は〈引き延ばされた歌〉という意味で,メリスマ的な旋律と,ときとして複雑に展開する多声法を特徴とする。14~17世紀モスクワ・ロシアの時代以後に発展したものと考えられ,現在の農村伝統の歌謡の中心的存在であり,19世紀以来学問的・芸術的研究の対象として広く研究されてきた。ポドゴロソクpodgolosok(副声部,充塡声部などと訳されることもある)と呼ばれる多声法は3和音もしばしば響かせるが,一定の低音進行を伴う和声的な機能をもつものではなく,一種のヘテロフォニーで,フレーズの終りは常にユニゾンになる。プロチャージナヤは19世紀ロシアの古典音楽のなかで深く研究され,ロシア芸術音楽の国民主義的な語法の確立に大きな影響を与えた。18世紀から19世紀にかけて,都市の住民の間に,伝統的な音楽語法と新しく入ってきた西欧のそれとを折衷させた様式が生まれてくる。これが19世紀に入ると〈ロシア・ロマンス〉と呼ばれる感傷的な様式にまとまった。アリャビエフの《うぐいす》やワルラーモフAleksandr Egorovich Varlamov(1801-48)の《赤いサラファン》(1833)など有名・無名の作曲家が数多く作曲し,広く愛唱された。日本でロシア民謡として知られるものにはこのような都会の歌が多い。19世紀後半には農村にも都会の様式が浸透し,チャストゥーシカchastushkaと呼ばれる新しい農村的様式のジャンルが成立した。通常4行の定型詩を一定の旋律で歌い継いでいくもので,現代のコルホーズ生活をこっけいにあるいは風刺をきかせて歌ったりするものもあって,今なお作られつつある。
ロシアの芸術音楽
西欧音楽の輸入
キエフ・ロシアは10世紀末に東方正教を国教と定め,その典礼音楽を導入した(東方正教会)。初期においてはギリシアの聖職者がロシアに来て,記譜法も伝えたが,13世紀にモンゴルの支配を受けてギリシアとの接触は絶えた。その後ロシア独自の教会音楽が漸次発達し,16世紀にモスクワ・ロシアでロシア正教の音楽が最盛期に達したときには,初歩的なポリフォニーを含むまったく独自な教会音楽が形成されていた。これはズナメニ聖歌znamennyi pospevと通称され,クリュキkryukiと呼ばれる一種のネウマで記譜された。クレスチヤニンFyodor Krest'yanin(生没年不詳,16世紀)ら著名な作曲家の名も残っている。17世紀中ごろに,ポーランドの支配下にあったウクライナとの統一が果たされ,それまで孤立していたロシアにも西欧的な音楽が導入された。ウクライナの作曲家ディレツキーNikolai Pavlovich Diletskii(1630?-80?)の楽典書がロシア語でも出版され,パルテスニ唱法partesnoe pesenieと呼ばれる和声的な様式が現れた。ピョートル大帝の時代には3声体の声楽曲であるカントが流行し,ロシアにも世俗的な芸術音楽がやっと誕生した。作曲家としては,1680年代から18世紀初頭にかけて活躍したチトフVasilii Polikarpovich Titov(1650?-1710?)の名が知られている。
1730年代に入ると,ロシアの宮廷に直接西欧から音楽が輸入され始めた。1735年以来長くロシアに滞在したイタリアの作曲家アラヤFrancesco Araja(1709-70?)を草分けとして,ガルッピBaldassare Galuppi(1706-85),トラエッタTommaso Traetta(1727-79),パイジェロ,サルティGiuseppe Sarti(1729-1802),チマローザといった一流のイタリア人作曲家が,エカチェリナ2世(在位1762-96)の宮廷楽長としてペテルブルグ(現,サンクト・ペテルブルグ)に滞在した。イタリアをはじめ西欧から多くの音楽家が雇われて,ロシアの宮廷や大貴族の下で演奏やロシア人音楽家の教育に当たった。18世紀も最後の四半世紀に入ると,パシケビチVasilii Alekseevich Pashkevich(1742ころ-97),フォミンEvstignei Ipatovich Fomin(1761-1800),ボルトニャンスキー,ハンドシキンIvan Evstaf'evich Khandoshkin(1747ころ-1804),ベレゾフスキーMaksim Sozontovich Berezovskii(1745-77)といったロシア人作曲家も輩出し,ロシア語のオペラ,室内楽,宗教音楽に優れた作品を残した。
グリンカの登場
19世紀に入ると,貴族の家庭で子女に対する音楽教育が一般的となり,貴族階級のなかからも優れた音楽家が生まれてきた。アリャビエフ,ワルラーモフ,グリリョフLev Stepanovich Gurilyov(1770-1844)はロシア・ロマンスと呼ばれる都会的な民謡調の歌曲を作曲した。劇場音楽の分野でも,イタリア人のカボスCatterino Cavos(1775-1840)らと並んで,アリャビエフ,ベルストフスキーAleksei Nikolaevich Verstovskii(1799-1862)といったロシア人作曲家も多くの作品を残した。1804年にペテルブルグでデビューしたイギリスのピアニストで作曲家のJ.フィールドは,その後ロシアに住んで多くの弟子を育て,ロシア・ピアノ楽派の祖となった。
この世代の一連の貴族音楽家のなかでも,最も若い層に属するグリンカとダルゴムイシスキーは,ロシア音楽を国際的な水準にまで引き上げ,その後のロシア音楽の発展に大きな足跡を残した。グリンカのオペラ《皇帝にささげた命》(1836。《イワン・スサーニン》とも呼ぶ)と,《ルスランとリュドミラ》(1842)は,それまでのジングシュピール的な歌芝居を超えて,本格的なロマン主義オペラとして位置づけられる。彼の管弦楽曲《カマリンスカヤ》(1848)と二つの《スペイン序曲第1番》(1845),《同第2番》(1851)はロシア管弦楽の出発点として高い評価を得ている。ダルゴムイシスキーのオペラ《ルサルカ》(1855)と《石の客》(1872。キュイとリムスキー・コルサコフにより補完)も重要で,とくに《石の客》はプーシキンの戯曲をそのまま音楽化したもので,話し言葉の節付けとして作曲語法に新しい地平を開いた。ユダヤ系の音楽家アントン(1829-94)とニコライ(1835-81)のルビンシテイン兄弟は西欧でピアノの技術を磨いて帰国し,それぞれペテルブルグ(1862)とモスクワ(1866)に音楽院を創設し,ロシアに音楽の職業主義を植え付けるうえで大きな功績を残した。
ロシア国民楽派
1860年代は〈力強い一団(仲間)〉あるいは〈五人組〉と呼ばれるロシア国民楽派の登場でも記念される。彼らは〈新ロシア楽派〉とか〈バラーキレフ・グループ〉とも呼ばれ,バラーキレフを音楽的指導者とし,思想的にはスターソフによって支持された。ムソルグスキー,A.P.ボロジン,リムスキー・コルサコフ,キュイらを集めた,きわめて論争的な作曲家グループであった。彼らはベートーベン,シューマン,リスト,ベルリオーズといった西欧作曲家を崇拝し,ロシアの民族音楽なども組み込んだ標題的な管弦楽曲の分野にも業績を残したが,特筆すべき作品としては,ムソルグスキーのオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》と《ホバンシチナ》,ボロジンの《イーゴリ公》といったオペラを含む声楽曲を挙げることができる。バラーキレフたちは無料音楽学校を開設(1862)して,多くの音楽愛好家を育て,音楽院のアカデミズムや職業主義に対抗した。しかし,70年代に入ると,リムスキー・コルサコフはアカデミズムの牙城であるペテルブルグ音楽院の教授に迎えられたし,バラーキレフ自身は一時音楽界から引退したりして,グループとしては存在しなくなった(ロシア国民楽派)。
チャイコフスキーとストラビンスキー
同じ1860年代に育ったチャイコフスキーは,ペテルブルグ音楽院の第1回卒業生で,卒業後すぐにモスクワ音楽院の教授に迎えられた。彼はアカデミックな訓練を受けた最初のロシア人作曲家であったが,とくに初期においてはバラーキレフなどとも親しくした時期があって,民族主義的な傾向を強くもっていた。しかし70年代の中ごろに円熟期を迎える頃から漸次明らかになった彼の個性は,主観的な抒情の世界にあった。80年代になると,ペテルブルグにはリムスキー・コルサコフを中心として,経済的な保護者の名を冠して呼ばれる〈ベリャーエフ・グループ〉が生まれた。彼らは〈五人組〉の後継者を自認していたが,もはやかつての急進性は失われ,このグループは職業的な音楽家の互助組織のようになった。この世代からは,ペテルブルグではリャードフ,グラズノフ,モスクワではタネーエフといった名前が残っているが,いずれも作曲家としては小ぶりになり,むしろ教師として尊敬された。しかし世紀の変り目になると,まずモスクワからスクリャービンとラフマニノフ,ペテルブルグからはストラビンスキーとプロコフィエフといった俊秀が輩出し,ロシア音楽は再び国際的な舞台で脚光を浴びた。とくにスクリャービンとストラビンスキーは,技法的な転換期を迎えていたヨーロッパ音楽に絶大な影響を残した。
十月革命と多様な実験
1917年の社会主義革命は音楽界にも大きな影響を与えた。多くの音楽家が亡命するという打撃はあったが,ソビエト政府の積極的な芸術奨励策に支えられて音楽界は急速な復興をみた。20年代のネップ(新経済政策)の時代には,創作上の自由な実験が盛んに行われた。アカデミックな音楽家の集団,現代音楽協会(ASM)と,共産主義者の集まりであるロシア・プロレタリア音楽家協会(RAPM)(プロレタリア音楽)とが対立して,一方はモダニズムの音楽こそ新時代の音楽であると主張し,もう一方は伝統的な音楽をすべて否定し,革命的プロレタリアートによるまったく新しい音楽の建設を目ざした。この時代の作品で現在まで残っているものは少ないが,構成主義的な管弦楽曲として話題を呼んだモソロフAleksandr Vasil'evich Mosolov(1900-73)の《鉄工場》(1926),若いショスタコービチの才気あふれる第1交響曲(1925),プロレタリア派からは協同創作という新しい作曲方法を試みた8人の若い作曲家のオラトリオ《十月の道》(1927)を挙げることができる。
32年4月23日付の共産党中央委員会の決定によって,これらのグループは解散させられて唯一の機関としての作曲家同盟にすべての音楽家が結集された。高度な技術的伝統を社会主義社会の建設に役だたせるという視点から,音楽家としての特殊技能が尊重され,それをどのようにして社会に奉仕させるかが問題の中心となり,いわゆる〈社会主義リアリズム〉の原則が打ち出されるに至った。この頃プロコフィエフも帰国し,ショスタコービチ,ハチャトゥリヤン,カバレフスキーなどが相次いで話題作を発表し,ソ連の音楽は国際的にも注目された。
《プラウダ》の批判
1936年,ショスタコービチのオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》(《カテリーナ・イズマイロワ》)に対する《プラウダ》の批判が出され,スターリン主義による抑圧は音楽界にも広まった。実験的で創造的な雰囲気は後退していき,保守的で無難な技法による体制賛美的作品が支配的になっていった。48年のジダーノフ批判はこの傾向をさらに助長した。53年スターリンの死後,〈雪どけ〉の時代が始まり,スターリン時代の行過ぎが是正され,多くの作品や音楽家が名誉を回復したが,芸術が社会に奉仕するという,1932年以来の原則に変りはない。実際,48年の批判の際に,35歳の若さで作曲家同盟の書記長に抜擢されたフレンニコフTikhon Nikolaevich Khrennikov(1913- )は,40年余りその地位にとどまり,社会主義リアリズムの模範ともいうべき多くの作品を発表し続けた。高度な技術的洗練と民族色という19世紀以来のロシアの伝統は,現在も健在である。次の世代からはモスクワの才気あふれるシチェドリンRodion Konstantinovich Shchedrin(1932- )やシニトケ,レニングラード(現,サンクト・ペテルブルグ)ではスロニムスキーSergei Mikhailovich Slonimskii(1932- )やティシチェンコBoris Ivanovich Tishchenko(1939- )ら,多少とも国際的に注目される作曲家もいる。また最近では,バルト3国やカフカスのアルメニアやグルジアといった,ロシアよりも古い文化的伝統をもつ国々からも,個性的な作曲家が生まれ始めている。
執筆者:森田 稔
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