室内装飾は第二次世界大戦以前に広く使われていたことばであるが、現在では、それから、インテリア・デザイン、インテリア計画、インテリア設計、インテリア・コーディネートなどということばが生まれ、それぞれに独立した概念を形づくるようになっている。しかし全体を総合した適当なことばはまだ生まれていないので、ここでは室内装飾という項目でまとめて書くことにする。
室内とは建築の内部空間をさすが、いまでは普通にインテリアとよぶようになった。ここではまず、室内装飾、すなわちインテリア・デコレーションinterior decorationということばの生まれた経緯から説明しよう。
ヨーロッパの建物は石造が主流であった。それはのちにれんが造に、さらにコンクリート造へと移っていくが、この構法によると、躯体(くたい)をつくる技術と室内を装飾する技術とは性格が違ううえに、両者は耐用年数においても違いがある。そのため、当初は1人の建築家が全体を設計していたが、しだいに分離した形をとるようになった。当時の室内装飾の中心をなすものは、彫刻、織物、絵画、家具、装飾品などであった。以上に述べた室内装飾が独立してきたのは、バロックからロココにかけての時代(1600~1700)といわれている。室内を華麗に飾る仕事が増えたためであった。
この技術が日本に輸入されたわけであるが、わが国の伝統的な建物では、木材を用い躯体はそのまま室内になるという構造であったから、西洋的な室内装飾が実際に適用されたのは、ヨーロッパ風の建物がつくられるようになってからのことであった。それが家具を中心にして内部空間をしつらえる技術として定着し、しだいに住宅にまで広がってきたのである。
現在において、インテリア・デザインの対象とする空間の範囲はきわめて広い。住宅をはじめ、オフィス、学校、図書館、美術館、病院、各種商業施設のほか、さらに車両、自動車、航空機、船舶などにまで及んでいる。それらはいずれも異なった要求条件をもっているので、それぞれの目的にあうように計画し、それを具体的な形にまとめあげていく設計技術が要求されることになる。以下その歴史を西洋、日本に分けて説明する。
[小原二郎・加藤 力]
砂漠に囲まれ、木材資源の乏しい所であったから、建物は日干しれんがでつくられた。上流階級の住居は高い塀を巡らした広い敷地の中に、小神殿を祀(まつ)り、後ろに庭園があって、その奥に住宅を建てた。室内の生活には椅子(いす)を使っていた。
メソポタミアの住居は、長方形の敷地で中庭をもち、それに面して部屋を配置する構成であった。
[小原二郎・加藤 力]
クノッソス宮殿が代表的な建物で、壁面のフレスコ画が特徴である。ミケーネの建物はメガロンとよぶ一方だけに開口部をもつ北方住居型の様式であった。これに列柱を巡らした構造が、ギリシア神殿の基本形へと発展していったのである。
[小原二郎・加藤 力]
りっぱな神殿や公共建築がつくられたが、住居は簡素であった。上流市民の住宅は回廊に沿って部屋を配置する形式をとり、モルタル造で壁面は漆食(しっくい)で仕上げられた。生活は合理性を理想としたので、家具は少なく装飾よりも機能性が重視された。家具としては椅子、スツール、カウチ(昼間横たわるのに使うソファの一種)、テーブル、櫃(ひつ)などが用いられた。女子はクリスモスklismosとよばれる小椅子を愛用した。
[小原二郎・加藤 力]
実用的な建築がつくられるようになり、市民の生活は豊かになった。道路は舗装され、上下水道もつくられた。住宅はしだいに豪華になった。その高級なものの例は、ポンペイの遺跡によってみることができる。一方、都市の住民の多くは、れんが造の粗末な集合住宅に住んでいた。密集した市街地は日当りが悪く、衛生的にもきわめて悪い住環境であった。
家具は木材でつくられたが、それに装飾としてブロンズや大理石の彫刻が取り付けられた。この時代の特徴的なものにレクタスとよぶ寝椅子がある。当時は横になって会食する習慣があったので、そのための家具であった。敷物や壁掛けにはウールや絹製の色模様の織物が使われ、暖房器具なども置かれていた。
[小原二郎・加藤 力]
5世紀に西ローマ帝国が崩壊したために、古代から続いた室内装飾の様式は失われることになった。社会情勢はその後12世紀ごろまで不安な状態が続いた。その期間に初期キリスト教文化、ビザンティン、イスラム、ロマネスク時代が含まれることになる。この時期の西ヨーロッパを概観すると、およそ次のようである。領主たちは外敵に備えるため、城内にキープkeepとよぶ天守を建てた。それは木造の3、4階で、出入口は2階に設けられた。壁は厚く窓は小さく、内部には風が吹き込んだ。そこに木製の家具が置かれたが、建物も室内も戦闘に重点を置いた簡素なものであった。農民の住まいは、泥塗りの壁に梁(はり)組みの屋根をのせた構造で、2部屋程度の粗末な家であった。この時代の家具としてあげられるのはロマネスクで、椅子、寝台、テーブル、チェスト(衣類などを収納する長方形の箱)などがあるが、いずれもその形は建築様式の強い影響を受けたものになっている。一方イスラムの住宅では、床にじゅうたんを敷き、その上に座る平座様式であった。部屋の一隅を高くして、そこを寝台にしていた。
[小原二郎・加藤 力]
13世紀になって領主たちは、別棟のマナハウスmanor houseを建て、住みにくい天守から移り住むようになった。1階は倉庫、2階は居室で外部からは階段で入る構造になっていた。こうした変化がおこったのは、十字軍に参加して近東の豪奢(ごうしゃ)な住宅を見たことと、社会情勢がしだいに安定してきたためであった。都市の住宅は石造と木造であったが、とくにこの時代に外観に木の柱が目だつハーフティンバーhalftimberとよばれる木骨れんが造の住宅が流行した。貴族たちの住宅には中庭があり、それを囲む窓にはガラスがはめられた。外側にはよろい戸がつき、内側には薄手のカーテンがつられた。床や壁には織物が使われ、室内はしだいに明るく装飾性を増していくことになった。
[小原二郎・加藤 力]
貴族たちはパラッツォとよぶ石造の大邸宅を建てるようになった。それらの室内は古典様式で飾られ、彫刻や絵画が配置された。その構成の特徴は、権威を示すために、シンメトリーとプロポーションの原則が厳格に守られたことであった。フィレンツェのパラッツォ・メディチや、ローマのパラッツォ・ファルネーゼなどはその代表的な例である。16世紀末になって、ローマからバロック様式がおこった。17世紀につくられたバチカン、サン・ピエトロ大聖堂の室内装飾は、その代表的な例である。
[小原二郎・加藤 力]
15世紀後半からイタリアのルネサンス様式が、フランスの建築や室内装飾に影響を与えはじめた。フランソア1世の新しい城館(シャトーchâteau)には、全面的にルネサンス様式が取り入れられた。ブロア城やフォンテンブロー宮のギャラリーはこの様式の代表的な例で、全体はシンメトリーと古典様式で統一されている。イタリアで始まったバロック様式は、ルイ14世のベルサイユ宮殿(17世紀後期)で華やかな実を結ぶことになった。「鏡の間」や「王の寝室」は宮廷画家ルブランが設計した傑作の一つである。18世紀前期になるとロココ様式が流行した。この様式の特徴は、バロックが動的で男性的な美しさをもつのに対し、優雅で女性的な美しさをもつことであった。ルイ15世時代になると、室内の装飾から直線的な硬さは影を潜め、官能的な美しさが支配的になった。上流婦人の私室ブドアールboudoirやアルコーブalcôveはもっともよくロココ的な情緒を示すものといってよい。この時代の特徴は建築の外面よりも、室内の装飾に重点が注がれたということである。18世紀後期には新古典様式が生まれ、室内装飾はふたたび直線を主にしたシンメトリーのものに戻った。フォンテンブロー宮のブドアールはその例である。
[小原二郎・加藤 力]
イタリアに生まれたルネサンス様式は、その後フランス、ベルギー、オランダを通ってドイツに及び、さらにスカンジナビア諸国やロシアにまで流行した。それよりすこし遅れてバロックが導入され、それぞれの国で固有な北方様式をつくりあげたのである。
[小原二郎・加藤 力]
フランス革命後ナポレオンは、古代ローマの様式にエジプト帝政の装飾を加味したアンピール様式を取り入れた。この様式はイギリスではリージェンス様式、ドイツではビーダーマイアー様式とよばれた。ヨーロッパの室内装飾は、19世紀に入ってから停滞していたが、ウィリアム・モリスは大衆のためのデザインを創造する活動を始めた。これがのちに室内装飾を機能的で単純なものとする世界的な運動へと発展していった。フランスやベルギーではこの影響を受けて、アール・ヌーボー様式が流行し、またドイツではユーゲント様式として、単純化を目ざす方向に発展していった。
[小原二郎・加藤 力]
第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて室内装飾は、伝統を受け継ぐ方向と、機械生産を肯定する方向との対立を、しだいにはっきりさせてきた。1919年にワイマールに設立されたバウハウスは過去の様式と分離して、機械生産に基づく機能主義の立場から、新しいデザインのあり方を追求した。この運動は第二次世界大戦後はアメリカに受け継がれることになった。一方これとは別にスカンジナビア諸国は、自然材料を生かした単純素朴な様式を発展させた。以上に述べたような機能主義の運動は、インターナショナル・スタイルとして、現在広く各国に普及している。
[小原二郎・加藤 力]
建築は気候風土と長い生活体験のなかから生まれた文化の産物であるから、土地と離れて考えたのでは意味がない。日本の建築はもともと開放的で簡素なものであったから、室内もまた装飾的要素が少なく、家具を使わないことが特徴であった。これはヨーロッパときわめて対照的な性格である。
文書に残っている最古の住宅は、「正倉院文書」にある天平(てんぴょう)年間(729~749)につくられた近江(おうみ)紫香楽宮(しがらきのみや)の中納言(ちゅうなごん)藤原豊成(とよなり)の板殿(いたどの)である。柱は掘立て式、床は板敷き、屋根は切妻(きりづま)造、前後に庇(ひさし)をつけた一部屋の家であったと推察されている。内部の仕切りには衝立(ついたて)、屏風(びょうぶ)、御簾(みす)、幕が用いられた。屏風は正倉院の『鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)』でみることができる。床の上には敷物が敷かれたが、それらはスガ(菅畳)、獣皮、布などであったらしい。収納具には厨子(ずし)や櫃(ひつ)があり、つる類でつくった籠(かご)も使われていたことは、正倉院の宝物からも推察できることである。なお床には石敷きのものもあって、その上では倚子(いし)、卓子が使われ椅子式であった。照明のための灯具もあったことが知られている。
[小原二郎・加藤 力]
平安時代の大内裏(だいだいり)のおもかげは、現存の京都平安神宮によって想像することができ、また天皇の常住された内裏は、京都御所の清涼殿によって推察することができる。清涼殿の室内には装飾が施され、調度が配置されていた。そこでは倚坐(いざ)と平坐(へいざ)がともにとられたようで、公事(くじ)は御倚子(ごいし)を使って行われた。
公家(くげ)たちの住宅は内裏を模範としたが、それが後の寝殿造に影響を与えた。その代表的なものが藤原氏の東三条殿であった。寝殿造は平安時代の後期になって完成したが、寝所にあたる塗籠(ぬりごめ)以外は、内部はくぎられることなく、屏風、御簾などで、そのときどきの儀式や行事にあわせて仕切り、必要な調度類を配置した。このことを「しつらい」(室礼、舗設)とよんだ。畳は当時は必要な場所だけに敷く置畳(おきだたみ)であったが、その形は長辺と短辺の比が2対1になっていた。畳の縁の紋様や大きさ、厚さ、重ねる枚数は、身分によって厳格に区分されていた。
寝所は塗籠とは限らず、床の上に畳を2枚敷き、帳台を立て、帷(とばり)や障子でくぎって使っていた。こうした住まいのようすは、当時の絵巻物によって知ることができる。『源氏物語絵巻』は貴族の住宅の室内を、また『信貴山(しぎさん)縁起絵巻』は地方の長者の家を描いた代表的なものである。なお調度、室礼、装束などについては、『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』が有力な資料である。食事には、台盤や長方形の甲板(こういた)に足をつけた漆塗りの卓子が使われた。照明器具の種類は豊富になり、携帯用のものも現れた。
[小原二郎・加藤 力]
鎌倉時代から室町時代にかけては、古い伝統を打ち破る文化が生まれた。武家の邸宅は明らかではないが、寝殿造を簡単にしたものと考えてよいようである。『一遍上人(いっぺんしょうにん)絵伝』には、武家の家の室内が描かれているが、畳は敷き詰めになっていない。14世紀初頭に描かれた『法然(ほうねん)上人絵伝』には、地方の武家住宅の例が描かれている。母屋(おもや)には明障子(あかりしょうじ)、蔀戸(しとみど)、板扉などが使われており、内部はふすま障子や壁でくぎられている。
足利(あしかが)3代将軍義満(よしみつ)は、銀閣で代表される東山文化を出現させたが、それは武家文化が貴族文化に同化され、それに宋(そう)・元(げん)の文化が加わったものとみてよい。将軍の邸宅は寝殿造の系統を引くものであったが、内輪向きのもてなしのために会所とよぶ建物をつくり、仏画や工芸品を飾った。座敷飾りの考え方はこの建物から生まれたものであった。慈照寺東求堂(とうぐどう)には四畳半や小室をつくり、畳は全面に敷き詰められ、天井も張られた。また角柱、違い棚、付書院もできて、これが書院造のもとになり、鎌倉時代から室町時代にかけて様式として完成した。書院とは本来は書斎の意味であるが、のちには書院をもつ建物全体をさすことになった。現代の日本式住宅の基本形は、このときにつくられたのである。一方、鎌倉時代に盛んになった禅宗によって、多くの寺院が建てられた。ここでは特有の庭がつくられ、それを中心の建物である方丈(ほうじょう)の縁を通して鑑賞したので、建物と庭園を一体とする調和の美が生まれた。
[小原二郎・加藤 力]
この時代は30年という短い期間であったが、既成の文化から近世文化に移行させたという点で重要な意義をもつ。この時代は城郭建築で代表される雄大な文化を形成したが、築城が盛んになるにつれて、邸宅も豪華となり、本格的な書院造が完成された。この時代の室内を特色づけるものに、雄渾(ゆうこん)華麗な障壁画がある。当時の姿は二条城の二の丸御殿や西本願寺対面所でしのぶことができる。中国から伝わった喫茶の風習は、この時代になって茶の湯となり、日本人の美的感覚による総合芸術として完成した。それは書院造に影響を及ぼし、ついに数寄屋(すきや)造を生むに至った。装飾を排除した茶室の美しさは、利休好みと伝えられる待庵(たいあん)によってみることができる。
[小原二郎・加藤 力]
江戸時代の数寄屋造は、桂(かつら)離宮と修学院(しゅがくいん)離宮によって代表されるが、それらは茶室風の意匠が、当時の書院造の住宅に取り入れられてできあがったものであった。庭園との調和を考慮した造形の手法は、その後のわが国の住宅づくりの基本となって現在にまで引き継がれている。
一方、庶民文化は商工業の発達によって向上し、都市や町屋の発達を促して、劇場、旅館、浴場などの公共的な建物を生んだ。江戸における諸大名の邸宅は、最初は豪奢なものであったが、明暦(めいれき)の大火(1657)以後は華美な装飾が禁じられた。さらにそれは町家、農家に対する制限にまで広がったため、経済力をもつ町人は財力のはけ口として、高価な素材を用いたり、必要以上に手間をかけたものがよいとする考え方を生み、建築も室内も本質的なものから逸脱する傾向を生んだ。
民間の優れた室内構成としては、京都島原の角屋(すみや)がある。また当時の大名の別宅としては、加賀(かが)前田の成巽閣(せいそんかく)や水戸(みと)の好文亭などに、当時の西欧文化を取り入れた室内構成をみることができる。地方における町屋としては、奈良県橿原(かしはら)市、岐阜県高山市、埼玉県川越市などに当時の姿が残っている。
[小原二郎・加藤 力]
明治新政府は、日本を欧米なみの近代国家にすることに目標を置いたので、多くの外国人が招かれて技術の指導にあたった。そのため洋風建築がつくられ、イギリス人コンドルは鹿鳴館(ろくめいかん)、三菱(みつびし)1号館、ニコライ堂などの設計にあたった。日本人の棟梁(とうりょう)たちもまた擬洋風スタイルを生み出し、それが学校や役所に普及した。長野県松本市の開智(かいち)学校はその代表的なものである。
明治中期以降から、日本人の手による洋風建築がつくられた。日本銀行本店、慶応義塾大学図書館、赤坂離宮(現迎賓館)などがその例である。洋風建築の影響は住宅にも及び、西郷従道(さいごうつぐみち)邸、北白川宮邸などをはじめとして明治20年代を中心に洋館が建てられた。明治30年代になると洋風化は中産階級の住宅にまで及び、和風の住宅に洋風の応接間や書斎を付け加えるスタイルが流行した。かくして、室内装飾はしだいに和洋折衷の形をとるようになっていったのである。
[小原二郎・加藤 力]
伝統的な和風住宅の生活に慣れ親しんできた日本人にとって、第二次世界大戦を境にして導入された椅子式生活は、住様式にきわめて大きな変革をもたらし、ひいてはインテリアのあり方を大きく変えることになった。それはまず、日本住宅公団(現、都市再生機構)の食事室と寝室を区分する食寝分離型住宅から始まったが、これを契機にして椅子を使う生活がきわめて一般的なものとして普及することになった。
こうした生活の近代化、多様化が広まるにつれて、家具を設計する専門のデザイナーが要求されるようになった。さらに設計の対象は家具から住空間全体にまで広がって、インテリア・デザイナーが生まれ、しだいに建築設計との間隙(かんげき)を埋めるようになった。一方建築の側でも、建物全体を1人の建築家で設計することは困難となり、インテリア・デザイナーと協力する形をとるようになった。それを支持するものとして室内計画の研究が進み、基礎的な資料がしだいに整備されてきた。その代表的なものの一つが人間工学で、それによって、疲れにくい椅子や、安全な家具の設計のよりどころが明らかになったのである。
最近におけるインテリア・デザインの分野では、国際交流が大きく進んだ。日本で活躍する外国人や、海外で活躍する日本のデザイナーも増えてきている。さらにまた建築家、画家、工業デザイナーであって、インテリアの分野の仕事をする人もある。一方これまで欧米を手本にして進んできたインテリアに対し、伝統の和風の美しさと合理性を再発見しようという動きも出てきた。
以上はデザインの面について述べたが、他方技術的な面からこれをみると、次のような問題もある。住宅産業の発展に伴って、インテリア・エレメント(構成材)の工業化は著しく進んだ。そのため、従来は建築の一部分であった浴室、台所、洗面所でさえも、現在では住宅部品として市販されるようになった。それは同時に、施工の技術も大きく変えたのである。こうした背景のうえにたって、今後のインテリアのあり方を展望すると、機能性、合理性に焦点を置いたメカニカルな方向と、情緒性や装飾性に重点を置いた情感的な方向との間に、幅広い分野が広がっている。加うるに多様化、個性化といった要求も高まっているので、今後はいっそう多岐にわたっていくであろうと思われる。
なお参考までに、インテリア・デザインの基礎になる知識を以下にあげる。
(1)インテリア・デザインの歴史 (2)生活文化史 (3)インテリア計画とデザイン (4)室内環境・設備 (5)建築の構造 (6)インテリア材料と施工 (7)インテリア・エレメント (8)工芸技術と工芸品 (9)製品の加工技術
[小原二郎・加藤 力]
多数のインテリア・エレメント(構成材)のなかから適当なものを選んで、住まい手の要求する住空間を、調和のとれたトータルインテリアとして構成する技術をいう。1983年度(昭和58)に、通商産業省(現、経済産業省)の公認する社団法人インテリア産業協会が設立され、インテリア・コーディネーター試験制度が生まれたが、それはインテリア・エレメントの流通過程において、消費者に対し商品選択、インテリアの総合的構成について適切な助言・提案を行う人材を育成しようとするものである。なお、インテリア設計とは、狭義にはインテリア計画を除いた設計作業をいうが、実際には計画と設計はいっしょに行われることが多い。
[小原二郎・加藤 力]
『小原二郎・加藤力・安藤正雄編『インテリア計画』(1986・彰国社)』▽『熊倉洋介・末永航・羽生修二・星和彦・堀内正昭他著『西洋建築様式史』(1995・美術出版社)』▽『『日本人とすまい3 しきり』(1997・リビング・デザインセンター、光琳社出版発売)』▽『図解インテリア事典編集委員会編『図解 インテリア事典』(1998・朝倉書店)』▽『西田雅嗣編『ヨーロッパ建築史』(1998・昭和堂)』▽『川上貢著『日本建築史論考』(1998・中央公論美術出版)』▽『中村圭介著『文明開化と明治の住まい――暮らしとインテリアの近代史 上』(2000・理工学社)』▽『クリスチャン・ノルベルグ・シュルツ著、加藤邦男訳『後期バロック・ロココ建築』(2003・本の友社)』▽『尾上孝一・大広保行・加藤力編『図解 インテリアコーディネーター用語辞典』改訂版(2004・井上書院)』
インテリア・デザインともいう。建築物の内部を,その用途・機能にしたがって美しく仕立てることであるが,内部と外部とは密接に結びついており,従来室内の設計は多く建築家の手になり,それを装飾する諸芸術は,建築の構造体に対して付加的に用いられた。しかし近代的な室内装飾においては,生活の方式に即して機能的に室内を設計することが求められ,専門の室内装飾家(interior designerあるいはdecorator)が室内を家具その他を含めて統一的に調和のあるよう構成することが行われている。また室内構成あるいは室内設計という言葉も用いられる。
住宅の主要室に限定して概観すると,この分野でのもっとも古い遺構はポンペイに見いだされる。ここでは室内の装飾計画の対象となるおもな部分は,壁,天井および床であったが,窓はまだ重要ではなかった。ポンペイの多くの壁画では,壁面の中央部分をはさんで下部を腰羽目,上部をフリーズ(小壁)に擬して描いているが,腰羽目が実際に大理石のはりつけになっていたことからみちびかれた採画構成であったにちがいない。このように壁面を3段に分けることは,西洋では後世まで行われ,腰羽目は一般的には木の縦板であった。漆喰(しつくい)の壁面にテンペラまたはフレスコの技法で絵をかいて装飾とすることは古くから行われ,そのもっとも完全な遺品はやはりポンペイに見いだされる。ここでは3段に分けたうちの中央区がもっとも広く,この区に主要の絵,たとえば,神話から取材した絵や家人の肖像などが描かれた。フリーズの細長い水平帯を風景描写や寓意的図像でみたした例もみられる。15世紀以後,油絵が普及し,ことに17世紀からは,油絵を壁画とすることが多くなった。また豪華な広間の壁を大理石で化粧することは古代から行われ,近世では17世紀の古典主義時代にことにそれが愛好され,さらに壁面を大理石の付け柱で区画して室内の荘重さを増した。18世紀のロココ時代になると,大理石化粧を廃して,壁面を木の羽目板でおおい,その羽目板に軽雅な刳形(くりかた)と浮彫をほどこし,白,真珠灰,緑,黄,金などで清麗にいろどった。壁の一部分に設けられた壁炉は,中世以来,室内の重要な構成要素となり,日本の〈床の間〉と同じく上座の方向を意味するものとなった。したがって壁炉は室内の〈位〉を決定するものとして,時代時代の好みにしたがって意匠がこらされた。またそのマントルピースは装飾品や記念品を置く好適の棚となった。イスラム世界の住宅では,室内の壁面を華麗なタイルで化粧することが愛好された。ヨーロッパでもイスラムの伝統ののこっているスペインの一部で今でもそれが行われている。
古くから紙の生産の発達した中国,日本などの国では,壁に紙をはったばかりでなく,間仕切りの襖(ふすま)や屛風(びようぶ)も紙でつくられ,それらに絵がかかれて,障壁画または障屛画となった。壁に紙をはって描いた壁貼付(かべはりつけ)絵は,日本では室町・安土桃山の両時代に最も多く行われた。西洋で壁紙をはるようになったのは18世紀以後で,19世紀以後に一般化し,それぞれの室にふさわしいデザインの壁紙が市販されるようになった。壁に絵額をかけた例はポンペイにあったが,はじめは祖先崇拝の慣習によって飾られた肖像画が主であったらしい。後世マントルピースの上に父祖の油絵肖像画をかかげる風習は,これの系統を引くものと思われる。15世紀末からは寓意的題材の絵を壁にかかげることが流行しはじめ,だんだん庶民階級にも及んだ。天井を化粧漆喰(スタッコ)や浮彫,絵画で飾ることは古代から近世までつづいた。何本ものがっしりした木の梁(はり)を表面に見せた天井は中世に多かった。東洋では紙をはって絵をかき,あるいは木を格天井(ごうてんじよう)に組んで格間(ごうま)の紙面に彩画を描いた。
天井や床を木の板ではることは洋の東西をとわず広く行われてきたが,立式生活の国では床をモザイク,タイル,塼(せん),または石でおおうことも行われた。大理石モザイクはローマ時代に発達し,幾何学文様のほかに一つのまとまった絵を床に表現した。円・菱・方形などの幾何学形体に切ったさまざまの色の大理石を敷きつめて整然たる幾何学文様の床とすることもあった。中世になってからは,この種の大理石床またはタイルをはった床が多くなった。日本では板敷きから畳敷きに進んだ。ローマ時代の住宅ではトリクリニウムtriclinium(食堂兼居間)などの床の中央部にもっとも精巧で美しいモザイク画が施工された。円柱や壁の細部のような立体面にもモザイクがほどこされることがあったが,主として幾何学文様であった。メーン・テーブルを壁炉の前に設け,主客が食卓に向かってきちんと腰をかける風習は,中世になってからのことである。
床に色の美しい絨毯(じゆうたん)を敷いて室内の気分を魅力的にすることは,アラビア人の遊牧生活からはじまったのではないかと思われる。絨毯工芸を発達させ,その使用を日常生活の必需品としたのはイスラム教徒であった。十字軍の将士はこの風習を自国に取り入れ,それ以後ヨーロッパでも絨毯を敷くことが室内装飾の一要素となった。絨毯はベネチアを経て輸入され,またスペインや北アフリカのイスラム工匠によっても製作された。17世紀になってからはフランスやイギリスでも生産された。
板ガラスの発明はローマ時代になってからで,ポンペイでは青銅のわくに板ガラスを入れて窓にした遺例が見いだされる。宮殿や公共建築に窓があけられても,それは厚い壁を貫くたんなる開口部にすぎなかった。アラバスターを薄い板にしたものや,雲母の板を窓にはったことはあったにしても,板ガラスはあまり用いなかったらしい。中世にステンド・グラスが使用されてはじめて,窓の装飾的価値が高まった。しかしガラス窓が個人住宅に普及したのは15世紀になってからであった。17世紀になると,桟に幾何学文様を構成させたデザインが,室内装飾のうちでも,明るく目だっていたことは,当時のオランダの風俗画を見てもわかる。東洋ではガラス以前は紙であった。中国では窓の組子を透し彫的効果をもつ幾何学文様となして朱でいろどり,これが室内装飾の中国的特徴となった。日本では紙をはった障子や格子窓が簡素な明るさを室内にもたらした。イスラム世界の住宅では,婦人などが室内にいて外が見えても,外からは内部が見えないように,目の細かい木格子を窓につけた。
鏡は,はじめベネチアの独占工芸であったが,17世紀にはフランスで生産されるようになり,室内装飾にも用いられるようになった。そのもっとも豪華に実現されたのは,ベルサイユ宮殿の〈鏡の間〉である。光を反射し,物の姿をはっきりうつすガラス鏡を室内にとりつけることは,室内装飾上の一つの革命であったといってよいが,やがて一般に普及し,18世紀には壁炉のマントルピースの上に鏡をはることが流行した。
平面を飾る染織品としては絨毯があったが,室内の立体面も古くから染織品で美化された。中世以後,西洋の室内にタピスリーを掛けることが行われた。これはむき出しの壁をおおって室内を美化することでもあり,あるいは室内の空間を二分し,必要に応じてこの陰にかくれることもできた。16世紀からはタピスリーをわくに張って壁にぴったりとつける装飾法がはじまり,また寝台のまわりをおおうものにも用いられた。17世紀からは,椅子に毛わらを詰めてタピスリーで張ることもはじまった。タピスリーは〈織られた絵画〉であったから,それが壁にとりつけられて壁画の性質をもつことになったのである。日本の室内装飾における染織品の使用は,王朝時代に帳台や几帳(きちよう)が,ほぼ同じような役目を演じたが,書院造が普及してからは染織品の役目は減退した。
作りつけの家具というものは,東西ともにほとんどなかったらしい。西洋の室内でのもっとも重要な家具は,戸棚と櫃(ひつ)と寝台とであった。戸棚はブルジョアジーの家庭でも農家でも,もっとも自慢のたねとしてすえつけた家具で,衣類,銀器,書類,貯金などを入れておいた。またこれは嫁入道具でもあった。このような点で,ヨーロッパ中世の戸棚は日本の簞笥(たんす)と性質を同じくしていた。しかし形態のうえで日本の簞笥に似ていたのは,17世紀に現れたコモードcommodeで,これが意匠をこらされて室内を飾る家具となった。櫃は金具または浮彫で飾られて各室に置かれたが,これもだんだんすたれて,わずかに旅行用の物入れとして存続し,現在のトランクの前身となった。身分のある者の寝台は織物の天蓋(てんがい)や垂幕でおおわれたが,そのものものしさから解放されて単純化されたのが近代の寝台である。このほか金銀の食器をならべて室内の装飾とする風習があって,そのための棚としてドレッサーまたはビュッフェがあった。イスラム教徒の室にはサンドゥクという木製の美しい櫃があり,衣服やその他のものを入れておく。壁面に龕(がん)を設けて彫像などをおくことはローマ時代から行われたが,後世の住宅では重要視されなかった。壁龕式の空間の設置が決定的となり絵画鑑賞の場となったのは日本の〈床の間〉である。
→座敷飾
執筆者:森口 多里
ヨーロッパにおける室内装飾は,産業革命以後,工業技術の進歩によって,材料選択の範囲が広くなったことと,価格が低下したことによって,王侯貴族の趣味にすぎなかった室内装飾の技術を庶民化した。また,古代遺跡の発掘,調査,あるいは鑑定の技術が専門化して,古代様式の模倣がさらに完全になったので,様式主義の傾向はいっそう促進され,過去のすぐれた様式・規範が,好みに従って選択・模倣できるようになった。さらに交通やコミュニケーションの方式の進歩により,それまで一部の階層に独占されていた舶来の異国趣味が比較的容易に民衆のものになった。ヨーロッパでは東洋のものが,東洋では逆にヨーロッパのものや近東のものが珍重されるようになった。だいたい近世の諸様式,バロック様式やロココ様式の模倣による室内装飾は,建築技術の進歩にともなって,ますます華麗になったが,それは建築の構造主体とはなんのかかわりもなく,たんなる装飾としてはりつけられた化粧であった。そのため,さまざまな様式というものは構造体の表面にはりつける装飾であると考えられるようになった。
このようなルネサンス以来の装飾に対する考え方に革新的な意見を述べたのは,W.モリスである。モリスは産業革命による労働の分化と機械化に抵抗して,手工芸の復活につとめた室内装飾家と目されているが,様式をはりつけたとしか思えないような歴史主義の装飾にも強く反対した。さらにボイジーCharles A.Voyseyは,時代的な様式主義のディテールから脱却して近代装飾へ前進した。1893年ブリュッセル市の博覧会に〈アール・ヌーボー〉という名称をつけて,独創的な様式の装飾を提案したバン・デ・ベルデは,大陸風のロココ的な有機的形態によって歴史様式を打ち破った。しかしアール・ヌーボーはドイツ,フランス,オーストリアなどにひろまったが,結果的には一種の様式主義に堕して消失した。オーストリアのO.ワーグナーは,様式主義からの分離・絶縁を目標にしたゼツェッシオン運動をおこした。1903年ワグナー門下生により室内装飾や工芸デザインのためのウィーン工房が設立され,過去からの分離は実践に移された。
20世紀の初めは列強の帝国主義的武装平和の時期であっただけに,革命的な造形の活動も新興国において強く推進された。ドイツでは,アール・ヌーボーとゼツェッシオンの流れはまじりあって,〈ユーゲントシュティール〉や〈工作連盟Werkbund〉の活動となる。〈工作連盟〉の主幹であったP.ベーレンスの門下であるW.グロピウスは〈バウハウス〉を創設し,多くの輝かしい才能を育てて,今日の室内装飾に決定的な影響をあたえた。またル・コルビュジエを中心とする〈エスプリ・ヌーボー〉の運動や,ファン・ドゥースブルフの〈デ・スティル〉の運動は,この新しい室内装飾の方向をおしすすめた。アメリカではF.L.ライトが,〈形態が機能に従う〉という機能主義によって新しい室内装飾を開拓した。
このような発展をたどってきた近代の室内装飾は,もはやたんなる様式の陳列ではなく,なによりも実際の生活に即して室内をいごこちのよいものにすることが求められた。この快適さの追求はいろいろの面で行われた。その一つは室内を構成する材質の面である。モリスの手工芸のもつ材料そのものの質を生かす努力は,その早いあらわれであるが,近代の室内装飾は産業革命によってもたらされた技術的進歩,材料の多様化,そしてそれの大量生産という条件に応じて,室内をその用途,構造,材料に応じて統一的に構成しようとする。材料はもはや大理石や珍奇な木材,あるいは趣味ぶかい工芸品ではなく,鉄,ガラス,セメントをはじめ,アルミニウム,ニッケルなどの白色金属,諸種の化学製品であり,それらを新しい建築構造とともに生かしつつ,室内をその用途・機能に従って統一的に構成するのである。それとともに,室内の軽快な明るさが求められる。照明技術の発達は,室内デザインに大きな変化をもたらしたのであるが,それとともに,開放的な明るさをもつ日本建築の影響も大きかった。すでに19世紀後半,日本の浮世絵のもつ明快な色面はヨーロッパの絵画に大きな影響をあたえたが,同時に日本の家屋の構造と材質の直截な表現,開放的な光線効果は近代室内装飾に大きな暗示をあたえた。壁と窓,柱と梁,かたまりと平面というような諸要素の構成によって,空間は厳密なプロポーションを占め,軽快な明るさのうちに材質と構造が生かされつつ,調和ある室内が構成されるのである。
ところで,産業革命によって触発された近代のデザインは,機械に反抗して手工芸を復活させるところに出発しながらも,しだいに新しい社会の要求する新しい美を機械美の洗練のうちに求め,ついに〈機械様式〉とよばれる冷たい形式を生んだ。しかし1930-40年ころになると,〈住む〉という人間の要求に重点がおかれ,〈自然〉が導入される。木材,煉瓦(粘土)への関心がたかまり,また屋内と屋外の結びつきによって自然をとりいれる傾向が強くなった。こうして現代の室内装飾は,機能的で調和ある室内を構成することをめざすにいたっている。たとえば最近,室内気候の調節(温・湿度の調節,いいかえれば暖・冷房,換気,除・加湿など)が普及してきたために,壁は熱遮断のよい材料でつくらねばならない。また,音響的によい効果を必要とする講堂や,映画館,音楽堂などの壁は,音の反射,吸音,遮音などのために室内装飾の材料や形態をよほど吟味する必要ができた。また工場,事務所などで労働環境をよくし,生産性を向上させる目的から,色彩調節をはじめ,さまざまの室内装飾が行われるようになった。さらに船舶,航空機,車両などの発達とともに,室内装飾には建築にとどまらず,新しい分野が開かれた。そこでは新しい材料と新しい形態が必要とされており,とくにこのような室内装飾では少しでも軽いほうがよいから,虚飾はできるだけ取り除かれる結果,近代的な室内装飾が必然であって,新しい造形が生まれつつあるといってよかろう。
ところで,江戸時代に障子,襖,畳はもちろん,簞笥や,その中にたたんで収める着物の寸法まで標準規格をつくりあげたわれわれの伝統的な生活様式は,室内装飾の近代化にあたっても十分尊重されてよい。われわれの祖先は,標準化された畳や建具を使って,きわめて変化に富んだ生活空間と生活をつくりだしている。この芸術的なよさを工業生産品によって失うことなく生かさなければならない。
執筆者:清家 清
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