アウン・サン・スー・チー(英語表記)Aung San Suu Kyi

翻訳|Aung San Suu Kyi

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アウン・サン・スー・チー
Aung San Suu Kyi

[生]1945.6.19. ビルマ,ラングーン
ミャンマーの政治家,民主化運動指導者。ミャンマー独立運動の父と呼ばれるアウン・サンの長女,母は著名な外交官。1960年母のインド大使着任に伴ってインドに渡り,当地で教育を受けた。その後,イギリスのオックスフォード大学に留学,政治学,哲学,経済学を学んだ。1972年イギリス人学者マイケル・エアリスと結婚。1988年に単身帰国,軍事独裁政権に抵抗して同 1988年9月に国民民主連盟 NLDを創設,書記長に就任した。反政府運動を率いて活躍したが,1989年7月にティン・ウ NLD議長とともに自宅軟禁処分となった。軍事政権から国外退去を条件に自由を認める提案を受けたが拒絶。1991年 NLD書記長を解任されたが,1995年7月に軟禁を解かれると 10月には NLD書記長に復帰。2000年9月から 2002年5月まで再度自宅軟禁。2003年に再び自宅軟禁となり,2009年に国家転覆防御法違反で逮捕され,有罪判決を受けた。2010年に NLD解党。2011年8月,文民出身のテイン・セイン大統領との会談が実現,同年 12月にはアメリカ合衆国のヒラリー・R.クリントン国務長官と会談した。2012年4月に実施された下院補欠選挙に復党した NLDから出馬して当選を果たした。1991年,非暴力によるミャンマーの民主化運動への貢献によりノーベル平和賞を受賞,同年サハロフ賞も受賞した。著書に『自由 自ら綴った祖国愛の記録』Freedom from Fear: And Other Writings(1995),『増補復刻版 ビルマからの手紙 1995~1996』Letters from Burma(1997)など。

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知恵蔵の解説

アウン・サン・スー・チー

ミャンマー(ビルマ)民主化運動の象徴的存在。1945年、ビルマ独立の指導者アウン・サン将軍の長女として、首都ラングーン(現ヤンゴン)に生まれる。15歳の時、母キン・チ-のインド大使就任に伴い、ニューデリーに移住。名門女子大レディー・シュリラム・カレッジで学んだ後、英国のオックスフォード大学に進学し、哲学・政治学・経済学の学位を取得した。卒業後、69年から71年までニューヨークの国連本部に勤める。72年、英国人仏教学者マイケル・エリアス(99年に死去)と結婚し、約1年半、ブータン王国外務省で研究員として働く。その後、ロンドンに拠点を移し、父アウン・サン将軍の研究を始める。85年10月、父の足跡を追って来日し、翌年6月まで京都大学東南アジア研究センター(現・同大東南アジア研究所)の客員研究員として滞在した。88年、26年間にわたって軍事独裁を続けてきたネ・ウィン元大統領が党総裁(ビルマ社会主義計画党)辞任を発表すると、ビルマ国内で学生を中心に激しい民主化運動が起こった。母の看病で帰国していたスー・チーも、これに合流。同年8月26日、シュエダゴン・パゴダで、数十万人の聴衆を前に民主政権の樹立を訴えた。この演説の後、国民民主連盟(NLD)を設立し、書記長に就任。ビルマ国内を遊説するなど、本格的な政治活動を開始したが、クーデターで全権を掌握した新軍部の国家秩序回復評議会(SLORC)によって、89年に自宅軟禁に置かれた。90年5月の総選挙では、NLDが圧倒的多数の議席を得たものの、SLORCは政権委譲を拒否。その後、国家平和発展評議会(SPDC、97年にSLORCから改組)のタン・シュエ軍事独裁政権が現在まで継続することになる。スー・チーの自宅軟禁は98年7月に解かれるが、その後も、拘束・軟禁は2000年9月~02年5月、03年5月~10年11月と計3回にわたって繰り返された。1回目の軟禁中には、人権擁護への貢献が認められ、1990年に10月トロルフ・ラフト賞(ノルウェー財団)、91年7月にサハロフ賞(欧州議会)を受賞している。91年10月には、民主主義と人権回復のための非暴力の活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞した。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2010年)

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367日誕生日大事典の解説

アウン・サン・スー・チー

生年月日:1945年6月19日
ミャンマーの民主化運動指導者

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現代外国人名録2016の解説

アウン・サン・スー・チー
Aung San Suu Kyi

職業・肩書
民主化運動家,政治家 国民民主連盟(NLD)党首,ミャンマー下院議員

国籍
ミャンマー

生年月日
1945年6月19日

出生地
ビルマ・ラングーン(ミャンマー・ヤンゴン)

学歴
デリー大学卒,オックスフォード大学〔1967年〕卒

勲章褒章
オーストラリア名誉勲章〔1996年〕, 自由勲章(米国大統領)〔2000年〕, レジオン・ド・ヌール勲章

受賞
ノーベル平和賞〔1991年〕,サハロフ人権賞〔1991年〕,シモン・ボリバル賞〔1992年〕,ブレーメン連帯賞〔1993年〕,ネール賞〔1995年〕,アメリカン大学名誉博士号〔1997年〕,オロフ・パルメ賞〔2005年〕,マハトマ・ガンジー国際平和和解賞〔2009年〕,オックスフォード大学名誉博士号〔2012年〕(1993年授与決定),自由都市・堺平和賞(第3回)〔2012年〕,地球市民賞〔2012年〕

経歴
英国の植民地支配と闘ったビルマ建国の父として国民に敬愛されるアウン・サン将軍の長女。1947年2歳の時暗殺で父を失い、’62年のネ・ウィン将軍のクーデター後、駐インド大使に任命された母ドー・キン・チー女史とともにニューデリーへ移る。その後オックスフォード大学に留学。’72年に英国人のチベット研究家マイケル・アリスと結婚、2人の息子をもうける。英国市民権を持つ。’85〜86年京都大学東南アジア研究所の客員教官として来日、父を知る日本人関係者に会って資料を集め、後に父の伝記を出版した。’88年4月病気の母を見舞うため帰国、民主化運動が高まるビルマの激動期に居合わせた。8月セイン・ルイン政権が崩壊、反政府統一戦線結集会で民主化の早期実現を訴え、反政府勢力の中心的存在として脚光を浴びる。9月ビルマ最大野党の国民民主連盟(NLD)総書記長に就任。’89年6月軍政府は国名をミャンマーに改名。再び反政府運動が激化したため、7月ソウ・マウン軍事政権によりヤンゴンの自宅で軟禁され、以後政治活動を禁止され、2010年まで断続的に軟禁状態が続いた。軟禁中の1991年“民主主義と人権のための非暴力闘争の勇気”に対し、ノーベル平和賞が授与される。末期の前立腺がんを患っていた夫マイケルは亡くなる前にミャンマーへの入国を求めたが、軍事政権に拒否され、夫婦の再会は果たせぬまま、’99年3月死去。一度出国すると軍事政権側に再入国を拒否されるおそれがあるため、夫の葬儀にも出席しなかった。2010年11月自宅軟禁が解かれる。2011年春、ミャンマーは民政に移管。2012年1月NLD議長(党首)に選出。4月連邦議会補選で下院議員に初当選。2013年3月党首再選。2015年11月、民政移管後初の総選挙でNLDが軍事政権の流れをくむ与党・連邦団結発展党(USDP)に圧勝し、第1党となる。テイン・セイン大統領は“平和的に政権を委譲する”との声明を発表して1960年代より続く軍事政権からの政権交代を認めたが、憲法は外国籍の親族のいる人物の大統領資格を認めておらず、現段階では大統領には就任できない。著書に「Freedom from Fear(恐怖からの自由)」(1991年)。

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