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アウン・サン・スー・チー アウン・サン・スー・チー Aung San Suu Kyi

翻訳|Aung San Suu Kyi

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アウン・サン・スー・チー
アウン・サン・スー・チー
Aung San Suu Kyi

[生]1945.6.19. ラングーン
ミャンマー (旧ビルマ) の政治家。同国の独立運動の父と呼ばれるアウン・サンの長女。母は著名な外交官 (1960年インド大使に就任) 。インドで教育を受けたあと,オックスフォード大学に留学。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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知恵蔵2015の解説

アウン・サン・スー・チー

ミャンマー(ビルマ)民主化運動の象徴的存在。1945年、ビルマ独立の指導者アウン・サン将軍の長女として、首都ラングーン(現ヤンゴン)に生まれる。15歳の時、母キン・チ-のインド大使就任に伴い、ニューデリーに移住。名門女子大レディー・シュリラム・カレッジで学んだ後、英国のオックスフォード大学に進学し、哲学・政治学・経済学の学位を取得した。卒業後、69年から71年までニューヨーク国連本部に勤める。72年、英国人仏教学者マイケル・エリアス(99年に死去)と結婚し、約1年半、ブータン王国外務省で研究員として働く。その後、ロンドンに拠点を移し、父アウン・サン将軍の研究を始める。85年10月、父の足跡を追って来日し、翌年6月まで京都大学東南アジア研究センター(現・同大東南アジア研究所)の客員研究員として滞在した。88年、26年間にわたって軍事独裁を続けてきたネ・ウィン大統領が党総裁(ビルマ社会主義計画党)辞任を発表すると、ビルマ国内で学生を中心に激しい民主化運動が起こった。母の看病で帰国していたスー・チーも、これに合流。同年8月26日、シュエダゴン・パゴダで、数十万人の聴衆を前に民主政権の樹立を訴えた。この演説の後、国民民主連盟(NLD)を設立し、書記長に就任。ビルマ国内を遊説するなど、本格的な政治活動を開始したが、クーデターで全権を掌握した新軍部の国家秩序回復評議会(SLORC)によって、89年に自宅軟禁に置かれた。90年5月の総選挙では、NLDが圧倒的多数の議席を得たものの、SLORCは政権委譲を拒否。その後、国家平和発展評議会(SPDC、97年にSLORCから改組)のタン・シュエ軍事独裁政権が現在まで継続することになる。スー・チーの自宅軟禁は98年7月に解かれるが、その後も、拘束・軟禁は2000年9月~02年5月、03年5月~10年11月と計3回にわたって繰り返された。1回目の軟禁中には、人権擁護への貢献が認められ、1990年に10月トロルフ・ラフト賞(ノルウェー財団)、91年7月にサハロフ賞(欧州議会)を受賞している。91年10月には、民主主義と人権回復のための非暴力の活動が評価され、ノーベル平和賞を受賞した。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2010年)

出典|(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵2015」
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現代外国人名録2012の解説

アウン・サン・スー・チー
アウンサンスーチー
Aung San Suu Kyi


国籍
ミャンマー

専門
民主化運動指導者;政治家

肩書
国民民主連盟(NLD)書記長

生年月日
1945/6/19

出生地
ビルマ ラングーン

学歴
デリー大学卒;オックスフォード大学〔1967年〕卒

経歴
英国の植民地支配と闘ったビルマ建国の父として国民に敬愛されるアウン・サン将軍の長女。1947年2歳の時暗殺で父を失い、’62年のネ・ウィン将軍のクーデター後、駐インド大使に任命された母ドー・キン・チー女史とともにニューデリーへ移る。その後オックスフォード大学に留学、政治史を専攻し、講師も務めた。’72年に英国人のチベット研究家マイケル・アリスと結婚。英国市民権を持つ。’85〜86年京都大学東南アジア研究所の客員教官として来日、父を知る日本人関係者に会って資料を集め、後に父の伝記を出版した。’88年4月病気の母を見舞うため帰国、民主化運動が高まるビルマの激動期に居合わせた。8月セイン・ルイン政権が崩壊、反政府統一戦線結集会で民主化の早期実現を訴え、反政府勢力の中心的存在として脚光を浴びる。9月ミャンマー最大野党の国民民主連盟(NLD)総書記長に就任。’89年6月以来、再び反政府運動が激化したため、7月ソウ・マウン軍事政権によりヤンゴンの自宅で軟禁され、政治活動を禁止される。’91年NLD除名。10月「民主主義と人権のための非暴力闘争の勇気」に対し、ノーベル平和賞が授与された。’92年6月京都大学東南アジア研究センターに“スー・チー・ルーム”が開設される。’94年2月米国下院議員と軟禁中の自宅で会見。’95年7月6年ぶりに解放され、記者会見で民主化運動への揺るがぬ決意を明確にした。10月NLD書記長に再び選出されるが、政府は却下。’96年5月自宅庭でNLDの党大会を開催。’99年前立腺がんを患った夫の最後の訪問を軍事政権に拒否され、夫婦の再会は果たせなかった。一度出国すると軍事政権側に再入国を拒否されるおそれがあるため、葬儀にも出席しなかった。2000年9月地方遊説に出ようとして軍当局に阻まれ、ヤンゴンの自宅で再び軟禁状態に置かれる。2002年5月、1年7ケ月ぶりに解放される。2003年5月警察に身柄を拘束され、9月より再び自宅軟禁となる。2007年5月軍政は自宅軟禁の1年延長を決定。2008年5月さらに自宅軟禁延長を通告。2009年5月国家防御法に違反した罪で刑事訴追され、8月1年6ケ月の実刑判決を受け、自宅軟禁延長となる。2010年3月軍事政権が年内実施を予定していた総選挙には“公正さを欠く”としてNLDの不参加を発表。5月の政党登録期限までに登録申請を出さず、NLDは事実上の解党が決まる。11月自宅軟禁が解かれ、7年半ぶりに自由の身となる。2011年8月テイン・セイン大統領と初めて会談。政権トップとの会談は2002年以来。11月にはNLDが政党として再登録し、次に行われる国会補欠選挙に参加すると発表。著書に「Freedom from Fear(恐怖からの自由)」(1991年)。

受賞
ノーベル平和賞〔1991年〕 オーストラリア名誉勲章〔1996年〕;自由勲章〔2000年〕 サハロフ人権賞〔1991年〕;シモンボリバル賞〔1992年〕;ブレーメン連帯賞〔1993年〕;ネール賞〔1995年〕;アメリカン大学名誉博士号〔1997年〕

出典|日外アソシエーツ「現代外国人名録2012」(2012年刊)
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