18世紀後半アメリカにおけるイギリス領諸植民地がイギリス本国より独立し,共和制国家を設立するにいたった一連の運動をいう。
18世紀後半のアメリカ植民地は,イギリス本国の重商主義体制の下での植民地として,確かに本国の政治的支配と経済的収奪とを受けていた。しかし,他面イギリス帝国の一環として,本国の重商主義体制の受益者でもあり,本国の規制にもかかわらず,植民地経済はしだいに繁栄発展していった。さらに本国と植民地との間の大西洋の存在は,本国による植民地の直接的統治を困難にし,また植民地統制の官僚機構も整備しておらず,このいわゆる〈有効な怠慢〉の下で,植民地は事実上大幅な自治を享受していたのである。しかも,植民地人といっても,その多くはイギリスより移住した同一民族であり,政治的・文化的伝統を共有していた。こうした状況の下で,本国と植民地との関係は基本的には安定した関係にあり,植民地人は自己をイギリス人として意識し,イギリス帝国の一員であることに満足していたといってよい。
しかし,イギリスの文化・制度を継受・移植しつつ,植民地設立以来1世紀半の間に,アメリカ社会はアメリカ的風土の下でしだいにイギリス社会とは異なった社会になりつつあったことも忘れてはならない。広大肥沃な土地空間,労働人口の不足,身分制の欠如は,アメリカ社会をイギリス社会より,より流動的な社会とし,タウン・ミーティングであれ,植民地議会であれ,そこではより広く住民の政治参加が認められていた。植民地人は,こうして政治的に自治を享受し,経済的に繁栄し,機会と自由と平等とに比較的恵まれている限り,本国に対し特に不満をもつ理由もなかったのである。
しかし,こうした安定状態は1763年七年戦争の終了とともに終わり,本国と植民地との関係は対立化してゆく。七年戦争(アメリカにおけるフレンチ・インディアン戦争)の終了に伴い,フランス領カナダはイギリス領となり,アメリカ大陸におけるイギリスの覇権は完成する。とともに,イギリス政府はこの広大な帝国の統治を有効にするため,植民地統治の強化にのり出し,他方フランスの脅威から解放されたアメリカ植民地は本国の保護統制を重荷と感じるようになり,ここに本国の求心的傾向と植民地の遠心的傾向とがその矛盾を顕在化してくる。まず,63年イギリス政府は〈国王の宣言〉により,アパラチア山脈以西の新領土への植民地人の移住を禁止し,インディアンとの摩擦をさけ,また毛皮産業を本国側に確保しようとし,植民地農民の反発をかった。また,イギリス政府は,アメリカにおける軍事費を植民地側にも分担させるということで,本国議会による植民地人への課税を計画,64年収入の目的で砂糖に対する関税(砂糖税法)が課せられ,65年には新聞,パンフレット,証書類などに対する印紙税法が制定された。従来本国議会による植民地人に対する直接の課税はなかったので,この税は植民地人の強い危惧を引き起こし,アメリカ全土に反対運動が起こり,65年10月にはニューヨークで9植民地の代表が会して印紙税法会議を開き,本国に対し抗議を行う。各植民地において,反英抗争の組織として〈自由の息子Sons of Liberty〉が形成され,印紙販売人を脅かして辞職させ,イギリス商品の非買運動を実効化するなど,実力を伴った行動に出るにいたる。このイギリス商品のボイコットに打撃を受けたロンドン商人の圧力により,印紙税法は66年3月廃止され,砂糖税法も修正された。
印紙税法の廃止により,植民地側は一応その目的を達したとして平常にもどったが,植民地側に財政の分担をさせるという本国側の方針は変わらず,67年,ガラス,鉛,ペンキ,茶などに収入を目的として輸入税を課することにした。時の大蔵大臣の名をとってタウンゼンド諸法と呼ばれる同法によれば,その収入は軍事費のみならず植民地行政費にもあてられ,同時に植民地関税機構も強化され,密貿易の取締りも履行されることになっていた。かくして同法の制定とともにイギリス商品のボイコットが行われ,イギリス商品の輸入が半減するにいたる。再びロンドン商人の要請により,タウンゼンド諸法も70年4月,茶を残して廃止されることになった。ここに,本国と植民地の関係は小康を得たが,破産に瀕した東インド会社の財政を救うために,その茶を本国を通さずに直接,したがって廉価にアメリカ市場で売り払うことを許した73年の本国の政策(茶税法)は,オランダ茶の密貿易で利益を得ていたアメリカ商人に打撃を与えるのみならず,同様の政策を本国政府が恣意的に行うのではないかとの危惧を植民地人にもたせることになる。その結果各地で茶の陸上げが阻止されたが,73年12月ボストンにおいてサミュエル・アダムズを指導者とする植民地人の一群が,インディアンに扮して船上の茶箱をボストン港湾に投げすてるという事件が起こった。ボストン茶会事件と呼ばれるこの事件は,本国と植民地間の対立を抜き差しならないものにしてゆく。すなわち,この報に接した本国政府はボストン港の封鎖をはじめとする制裁的な諸法を制定,駐米イギリス軍司令官のT.ゲージ将軍をマサチューセッツの総督に任命,強行措置に出ることを明らかにし,他方植民地側も74年9月フィラデルフィアに各植民地の代表よりなる大陸会議を開き,植民地間の団結した反英抗争を展開することを決議する。その間和解の方途も求められたが,本国,植民地側とも強硬派がしだいに支配的になり,ついに75年4月にはボストン近郊で,イギリス正規軍と植民地民兵とが衝突(コンコード,レキシントンの戦),のちの独立戦争の勃発となり,大陸会議はジョージ・ワシントンを植民地軍の総司令官に任命,各植民地兵と別に全アメリカを通じての正規軍として大陸軍を編成した。
植民地側はこの反英抗争をイギリス憲法論により正当化しようとしたが,そこにアメリカ革命の〈保守〉的姿勢がみられるとともに,そこで展開される論点が後の諸邦憲法,合衆国憲法によって制度化されるという点で注目に値する。当初は,〈代表なければ課税なし〉のイギリス憲法の原則を厳密に解し,植民地人はイギリス議会に代表を送っていないゆえに本国議会は植民地に課税しえないとした。さらに後には,イギリス帝国は本来複合帝国であり,本国議会と植民地議会とは元来同等であり,イギリス国王にのみ植民地は忠誠を負うという連邦制的帝国構造論を主張している。これらの主張は本国側を説得する実効性をもたなかったが,高次の成文憲法,地域代表制,連邦制などの形で独立後のアメリカにおいて制度化される。
武力抗争の段階に入っても,本国よりの独立を望む者はごく少数で,多数は1763年以前の状態の回復を求めていた。しかし,戦争が拡大するにつれ,外国(フランス)の軍事的援助を必要とし,そのためには内戦を国際戦争へとエスカレートさせる必要が出てきた。とともに,戦争が長引くにつれ,植民地人の間で本国への反感が強まり,独立への気運が増大してくる。その気運を一挙にすすめたのが,独立を当然のこととして説いた76年1月のトマス・ペインの《コモン・センス》であった。大陸会議も76年5月各植民地に新政府設立を勧告し,バージニアなど新憲法を制定し始めた。そのとき,バージニア代表のリチャード・H.リーは独立,外国との同盟,独立諸邦間の連合の3決議案を大陸会議に提出,独立についてはまだ同意できない植民地もあったので3週間審議を延期,7月2日に訓令待ちのニューヨークを除く全植民地の賛成で独立の決議が採択された。ついで7月4日に独立の理由を公にしたいわゆる独立宣言が採択され,アメリカ諸植民地はここに,イギリス本国との紐帯を切ったのである。しかし,この独立はアメリカ社会内でイギリスへの忠誠派つまり親英派と愛国派つまり独立派との争いを激化させ,また愛国派の中にも穏和派と急進派との主導権争いを激しくさせることになる。なお,独立して〈United States of America〉(U.S.A.)と呼称することになるが,法的には独立したのは各植民地であり,U.S.A.はそうした独立した諸国家の連合にすぎない。独立とともに連合規約が規定され統合機関が形成されるが,それは〈主権をもつ自由にして独立な〉諸邦間の〈友好にして強固な連盟〉でしかなかった。しかし,一つの独立決議の下に独立したことは,独立諸邦間の団結の決意を示したものであり,アメリカ人としての意識が生まれつつあることを示す。
1775年4月に始まった戦争は,兵力,装備の不足もあって,アメリカ側は連戦連敗の状況であったが,ラ・ファイエット,シュトイベンなどの外国士官の参加,大陸軍の整備,フランスの財政援助などによってアメリカ軍も立ち直り,77年秋のサラトガの会戦における勝利を契機に,戦局はしだいにアメリカ側に有利に展開,78年3月フランスもアメリカの独立を承認し,米仏同盟が結ばれる。7月には英仏は正式に開戦する。かくして独立戦争は七年戦争に続く英仏の世界大の抗争の一環として戦われることになり,事実ヨークタウンの戦において,陸・海のフランス軍兵力が,81年10月のイギリス将軍コーンウォリスの降伏,したがって独立戦争の終了に大きな役割を果たすことになった。イギリス軍が大西洋を越えて未知の大陸でその住民である植民地人と戦うことの戦略的不利,より強大な相手としてのフランス軍とのヨーロッパにおける対峙,そして国内世論の変化などを背景に,イギリス政府も早期単独講和を求め,講和使節として派遣されたフランクリン,J.アダムズなどとパリにおいてひそかに交渉,82年11月予備条約がまとまり,83年9月最終条約がパリにおいて調印された。同条約により,アメリカ側は独立の承認,アパラチア山脈以西ミシシッピ川までの領土,ニューファンドランド島周辺の漁業権を得,戦前の債務の支払を確約するとともに,各邦が戦時中にイギリス人より没収した財産の補償をすることを約束した。
アメリカはかくしてイギリス本国より独立したが,上述したごとく実体は国家の連合であった。ここに,対外的にも統一国家として行動する必要があり,対内的にも市場の統合,国民経済形成の必要があり,U.S.A.を,それ自体一つの国家にする動きが生じてきた。A.ハミルトン,J.マディソン,J.ウィルソンなどを指導者とするこの動きは,86年マサチューセッツで起こったシェースの反乱を契機に,全国的な動きとなり,87年5月のフィラデルフィアにおける連合規約修正を名目上の目的とした会議を開くことに成功,9月には連邦憲法案をまとめ,各州における憲法批准会議での激しい論議を経て88年6月発効,89年4月,初代大統領としてジョージ・ワシントンが就任,ここにU.S.A.はそれ自体一つの国家として発足することになった。アメリカ革命とは1763年の反英抗争より83年独立戦争終了までを指すことも多いが,独立宣言と連邦憲法との間に自由と統合という対立的契機もあることを認めつつ,憲法制定を革命の完成として,両者を一つのものとしてとらえることが妥当であろう。
アメリカ革命に対しては,大きく二つの解釈が分かれている。一つは,アメリカ革命をフランス革命と同様に,すぐれて革命的な革命であったとする解釈で,C.ビアードなどによる革新主義学派の解釈である。それに対し,アメリカ革命は革命というよりイギリスからの政治的独立であり,アメリカ内に関するかぎり革命的なことではなかったとする解釈であり,19世紀末以来の帝国学派,1950年代の新保守主義学派による解釈である。アメリカ革命には,その現象を見るかぎりルイ16世のギロチンによる処刑のごとき事件は少ない。土地の没収も本国の不在地主の所有地についてのみであり,土地所有制度そのものの変革があったわけではない。しばしば指摘される公定教会制の廃止も,実は植民地時代からすでに事実上廃止されていたものといってよい。つまり,アメリカ社会では,ヨーロッパ的な制度をもち来たり,移植しても,広大な空間,身分制の欠如,僅少の人口というアメリカ的風土,条件の下で,ヨーロッパ的制度は事実上腐食され,アメリカの風土に必要とされる制度に変わっていったといってよいであろう。その意味で,アメリカ革命は1763年より以前からなしくずしに行われていたのであり,63年以降のアメリカ革命はこのなしくずしの革命を制度的に,理念的に確認したものといえる。ことに独立した後に,君主制,貴族制を理念的・制度的に否定していることは,植民地時代の不在君主制,不在貴族制の経験によってごく当然のこととして受けいれられたものであるが,このことがフランス革命以前の出来事であることを考える時,アメリカ革命はやはり近代市民革命史上の先駆的な革命と呼ばれるべきであろう。
執筆者:斎藤 真
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イギリス領北アメリカの13植民地が連合して本国に反抗し、分離・独立を達成するとともに、新国家を形成し、共和制の確立を成し遂げた革命。この革命の期間は、狭義には1763年のフレンチ・アンド・インディアン戦争の終結から1783年のパリ平和条約の成立までをさすが、広義には、1788年の連邦憲法成立までの期間をさす。前者は「独立」の側面を重視するものであるが、後者は「建国」の側面を重視して、新国家の国家構造を最終的に確定した連邦憲法を革命の総決算として把握しようという歴史家の立場である。アメリカ革命は「独立」と「建国」という二重の課題をもっていたのであり、イギリス革命やフランス革命にない独自の性格をもっている。
[島川雅史]
1763年2月のフレンチ・アンド・インディアン戦争の終結後、イギリス国王ジョージ3世とグレンビルGeorge Grenville(1712―1770)内閣は植民地支配の強化策を次々と打ち出した。それは一つには、戦争の結果獲得した北アメリカの新領土の経営をめぐるものであり、また一つには、戦時財政による国庫の窮迫に対処しようとするものであった。土地規制策、歳入対策の諸立法、重商主義体制の強化策がその柱となったが、それぞれが植民地の強い反対を呼び起こすことになった。
[島川雅史]
戦後イギリスは、カナダからフロリダに及ぶミシシッピ川以東の広大な領土を獲得したが、その経営、とりわけ先住民との関係は重大な問題であった。1763年5月、デトロイト地方で先住民ポンティアックの首長の指導下に起こった反乱を契機として、同年10月に発布されたのが「国王宣言」である。この宣言は、アレゲニー高原以西への白人の移住を禁じ、先住民との交易を本国政府の直轄下に置こうとしたものであるが、植民地人の反発を買い、事実上無視されてしまった。
[島川雅史]
本国の財政危機に対処するために、さまざまな歳入法が制定されるとともに、重商主義体制の強化が図られた。1764年の砂糖法は、従来黙認されていた密貿易を取り締まり、関税収入の増加を図ろうとしたもので、多くの種類の外国産品に対する輸入税率を規定していた。また1765年の印紙法は、公文書、新聞などあらゆる印刷物に収入印紙を貼付(ちょうふ)することを義務づけるものであった。この税法は、間接税ではなく直接税であるという点で、従来の慣例を破る植民地への圧政として受け取られ、大きな反対運動を巻き起こした。「代表なくして課税なし」というイギリス臣民の権利を掲げて各地で展開された抗議行動は、植民地議会の反対決議から民衆の直接行動までを含むさまざまな形で行われた。全植民地で「自由の子供たち」と名のる民衆運動組織が結成され、印紙販売人や総督宅の焼き打ち、街頭デモなどが激しく繰り返された。1766年に印紙法は撤回されたが、1767年にタウンゼンド諸法がこれにかわった。これは関税・間接税の増徴を図るとともに本国議会の優位を誇示しようとしたものであったが、ふたたび反対運動が起こり、各地で本国産品不買同盟が結成され、本国政府はふたたび後退を余儀なくされた。本国・植民地間の危機を決定的にしたのは1773年の茶法であった。これは東インド会社の救済を目的としたものであったが、商人をはじめとする植民地人の反感をよび、同年のボストン茶会事件を引き起こすことになった。東インド会社の紅茶独占販売権に実力行使で立ち向かった植民地人に対し、本国議会は1774年懲罰諸法を制定し、ボストン港閉鎖、マサチューセッツ植民地の自治の停止などを決定した。さらに、同年のケベック法によって植民地人の西進を阻もうとしたため、本国・植民地間の関係は最悪の状態になった。
[島川雅史]
本国への抵抗運動を展開するなかで、植民地には革命権力機構が生まれていた。1772年には植民地内、植民地間の連絡組織としての通信連絡委員会が設けられ、1774年にはジョージアを除く12植民地の代表からなる第1回大陸会議が開催された。翌1775年には、初期の中央政府としての役割を果たすことになる第2回大陸会議が全13植民地の代表によって設立された。
[島川雅史]
1775年4月、レキシントンとコンコードでイギリス軍と植民地民兵隊との間で銃火が交えられ、独立戦争の火ぶたが切って落とされた。交戦開始後も植民地は本国との和解の希望を捨てなかったが、情勢の悪化と、トマス・ペインの『コモン・センス』に代表される独立論の高まりのなかで、1776年7月、大陸会議はついにトーマス・ジェファソン起草の「独立宣言」を発し、戦争は内乱状態から明確に独立のための戦争へと発展することになった。アメリカ軍は装備の悪い民兵を中心とし、ときには衣服すら満足に支給されない状態であったが、郷土防衛のゲリラ戦を展開してイギリス軍に立ち向かい、1777年のサラトガの戦いや、事実上最後の戦闘となった1781年のヨークタウンの戦いでイギリス軍を打ち破った。またイギリスの宿敵フランスは、従来からアメリカに好意的であったが、1778年の米仏同盟条約の締結後は本格的な経済・軍事援助を行った。アメリカは、フランス海軍の力によってイギリス海軍に対抗できるようになり、フランス陸軍の応援も得て戦況を有利に進めた。またスペインも1779年に対英宣戦布告に踏み切っている。
[島川雅史]
本国からの独立の戦いと併行して、13の共和ステート(邦)の建設が進められた。植民地特許状をそのまま邦憲法とした例もあるが、多くの邦ではその立案をめぐって論争が行われた。保守派は、民衆とは無知なものであるという観点にたち、民衆の政治的影響力をできるだけ排除し、教育のある富裕者の手によって現行の社会秩序を維持しようと望んだ。一方、急進派は、民主政治の徹底を革命の目的として掲げ、男子普通選挙、議員定数の人口比例、議員・官吏の毎年選挙、信教の自由などの実現を要求した。ペンシルベニアではもっとも急進的な邦憲法が制定されたが、多くの邦では、選挙権・被選挙権の財産資格制限、法律に対する知事の拒否権を含む保守的指導層の意向に沿った憲法がつくられた。
[島川雅史]
13邦の統一組織としての大陸会議は、諸邦を緩やかに結び付けていたにすぎなかった。一国家としての基本法の必要は早くから認識されており、1778年アメリカ最初の憲法というべき「連合規約」が制定された。その内容は、各邦が主権を維持しつつ、国防、外交、鋳貨、インディアン対策などの限定された権限を、各邦代表からなる「連合会議」にゆだねる、というきわめて分権的な連邦を形成しようとするものであった。
[島川雅史]
1783年のパリ平和条約で「独立」は達成され、連合の時代を経て、1788年成立の合衆国憲法によって「建国」の課題も結論をみた。長子・限嗣相続制などの封建遺制の撤廃、王制廃止など市民革命としての課題でもいちおうの成果をみたが、邦憲法、連邦憲法にみられる普通選挙否定などの保守性、南部黒人奴隷制の展開、原住民インディアンの権利無視に代表される政治的、社会的改革の停頓(ていとん)は、続く時代への課題として残されることになった。
[島川雅史]
『武則忠見著『アメリカ革命の価値体系の研究』(1972・亜紀書房)』▽『斎藤眞著『アメリカ革命――現状の保守と理念の変改』(『総合研究アメリカ 3』1976・研究社・所収)』▽『斎藤眞・五十嵐武士編訳『アメリカ古典文庫 16 アメリカ革命』(1978・研究社)』▽『富田虎男著『アメリカ独立革命』(清水知久・高橋章・富田虎男編『アメリカ史研究入門』第2版・1980・山川出版社・所収)』▽『今津晃著『アメリカ独立革命』(至誠堂新書)』
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「アメリカ独立戦争」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 18世紀後半,七年戦争(北アメリカにおけるフランス人とインディアンとに対する戦争,フレンチ・インディアン戦争)の結果イギリスが北アメリカ大陸に広大な旧フランス領土を獲得するや,本国政府は帝国の再編成をはかり,植民地統治の強化を企てた。ここに本国の求心的政策と,七年戦争によりフランスの脅威から解放された植民地側の遠心的傾向との矛盾は,ついに1775年に始まる独立戦争(アメリカ独立革命)という形で激突する。83年のパリ条約で植民地の独立は正式に認められるが,アメリカ独立革命とは,一面で繁栄し成熟しつつあった植民地がイギリスと絶縁する政治的独立であったとともに,他面でフランス革命以前に,ヨーロッパの旧体制,君主制とも絶縁し,近代社会,共和主義国家を築くという点で,世界史的な意味をもつ革命でもあった。…
…しかしフレンチ・インディアン戦争でフランスが敗退し,1763年イギリス領となった頃はほとんど未開の地であった。これを一変させたのは,アメリカ独立革命による王党派(ローヤリスト)の到来であった。約5000人の〈アメリカ人〉が五大湖へ向かって北上し,現在のトロント近辺に定住して,ここに1791年アッパー・カナダ植民地が誕生した。…
…隣接するプロテスタントの13植民地(のちのアメリカ合衆国)にとっては脅威であり,ケベックの境界が拡大されたことと相まって,13植民地は革命への胎動を激化させた。翌75年のアメリカ独立革命の勃発は,カナダに二つの大きな転機をもたらした。一つは,後にカナダとなる領域がアメリカ合衆国から切り離されて誕生したことであり,もう一つは,4万人にものぼる王党派(ローヤリスト)のカナダへの移住によってイギリス系人口が激増したことである。…
…この結果,大覚醒の推進派と反対派の分裂がおこり,教派の多様性がもたらされ,また信教の自由が促進された。信徒の良心の自覚や地域をこえた連帯感は,アメリカ独立革命の精神的風土をもたらした。【大下 尚一】。…
…この条約の結果,イギリスの植民地帝国としての地位が確立された。(2)1783年9月3日,アメリカ独立革命を終結させたイギリスとアメリカ合衆国の間の条約。イギリスはアメリカの独立を認め,北は五大湖から南はジョージア南境まで,西はミシシッピ川にいたる領土を与え,さらにミシシッピ川の自由航行権とニューファンドランド近海の漁業権を認めた。…
※「アメリカ独立革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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