アルメニア人虐殺(読み)アルメニアじんぎゃくさつ(その他表記)Armenian Genocide

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルメニア人虐殺」の意味・わかりやすい解説

アルメニア人虐殺
アルメニアじんぎゃくさつ
Armenian Genocide

第1次世界大戦中,オスマン帝国で起こった青年トルコ党政権によるアルメニア人の強制移住および大量虐殺。アルメニア人側はこれをジェノサイドだったと非難するが,トルコ政府は,残虐行為はあったもののジェノサイドとは認めていない。
今日のトルコ東部にあたる東アナトリアには何世紀にもわたってキリスト教徒のアルメニア人がイスラム教徒クルド人とともに居住していた。この地は 15~16世紀オスマン帝国に統合されたが,アルメニア人はアルメニア語アルメニア教会によって,そのアイデンティティを強く保っていた。オスマン帝国の東縁を越えたロシア領内にも相当数のアルメニア人が住んでおり,19世紀末には,おもにロシアのアルメニア人活動家が中心となって,独立を訴えて武力による革命を掲げる複数の政党が結成された。こうした強硬派の活動は,イスラム教徒の間に恐怖と不安をかきたて,19世紀末から 20世紀初頭にかけて反アルメニア人感情をあおり,数回にわたる集団暴力へとつながった。
1908年,オスマン帝国で青年トルコ革命が起こり,「統一と進歩委員会(青年トルコ党)」が政権を握った。1912~13年のバルカン戦争でオスマン帝国が敗北すると,青年トルコ党はこの敗北をキリスト教徒の裏切りによるものだと非難した。また,この紛争によってオスマン帝国はヨーロッパの領土の大半を失い,数十万人のイスラム教徒の難民がアナトリアに押し寄せ,この地でのイスラム教徒とキリスト教徒の争いが激化した。1914年に第1次世界大戦が勃発すると,青年トルコ党は三国協商(イギリス,フランス,ロシア)と対立する同盟国(ドイツ,オーストリア=ハンガリー帝国)側について参戦した。ロシアとオスマン帝国はともに,国境付近に居住していたアルメニア人やアッシリア人らのキリスト教徒を自分たちの兵力に加えようとした。青年トルコ党は,アルメニア人政党のアルメニア革命連合に,ロシア側に住むアルメニア人にもオスマン帝国側につくよう説得を求めたが,アルメニア革命連合はこれを拒否し,それぞれの住む国に忠誠を尽くすと回答した。青年トルコ党はこれを裏切りとみなした。
1915年1月,オスマン帝国陸軍大臣のエンベル・パシャはロシア軍を退却させるべくサルカムシュ作戦に挑んだが,大敗を喫した。その原因は統率力不足と過酷な条件にあったにもかかわらず,アルメニア人がロシア側に通じていたとして,責任を転嫁しようとした。アルメニア人兵士は武装解除させられたのち,オスマン帝国軍によって組織的に殺害された。これが,のちにジェノサイドとされる事象の最初の殺戮である。ほぼ同じ頃,ロシア国境付近のアルメニア人の村でも不正規軍による大量虐殺が始まっていた。1915年4月24日,オスマン帝国の内務大臣タラート・パシャ命令によってイスタンブールのアルメニア人知識人や政治家約 250人が逮捕され,その多くが数ヵ月の間に殺害された。オスマン帝国政府は国境付近のアルメニア人の存在が国家の安全保障にとって脅威になるとして,東アナトリアに居住するアルメニア人の強制移住を始めた。1915年の夏から秋にかけてシリアの砂漠にある強制収容所へ向けた行進が始まり,その途中や,強制収容所での過酷な生活で多くのアルメニア人が命を落とした。虐殺は 1916年に入っても続き,犠牲者数は 60万~100万人以上にも上るとされている。
この虐殺事件は,直接的には第1次世界大戦に起因するが,その背景にはキリスト教徒およびアルメニア人に対するイスラム教徒の長年にわたる根深い反感があった。多くの歴史家がジェノサイドの定義に合致していると結論づけているが,トルコ政府は,アルメニア人を集団として絶滅させようとした公式な政策は存在しなかったと主張している。

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