日本大百科全書(ニッポニカ) 「アロシュ」の意味・わかりやすい解説
アロシュ
あろしゅ
Serge Haroche
(1944― )
フランスの物理学者。モロッコのカサブランカのユダヤ系の家庭で生まれた。12歳のときにフランスに移り、1967年フランスのエコール・ノルマル・シュペリュール(高等師範学校)で物理学の学士号、1971年パリ第六大学(後のピエール・エ・マリー・キュリー大学。2018年以降ソルボンヌ大学)でクロード・コーエンタヌジ(1997年ノーベル物理学賞受賞)の指導を受け博士号を取得。1967年から1975年までフランス国立科学研究センター(CNRS:Centre national de la recherche scientifique)の研究員。1972年から1973年までアメリカのスタンフォード大学客員博士研究員、1973年から1984年までエコール・ポリテクニク(理工科大学校)助教授、1975年から2001年までピエール・エ・マリー・キュリー大学物理学科教授、1982年から2001年までエコール・ノルマル・シュペリュール教授。1984年から1993年までアメリカのエール大学教授(非常勤)。2001年にコレージュ・ド・フランス教授、2012年から2015年まで同大学学長、2015年から同大学名誉教授。
アロシュは、レーザー光で、原子をごく低温に冷却してとらえる「レーザー冷却法」を編み出したクロード・コーエンタヌジのもとで、光子や原子が同時に多重的な状態となる「量子特性」の研究を始めた。そのために、合わせ鏡のように2枚の凹面鏡をあわせた装置(共振器)を開発し、マイクロ波レベルの光子の束をその中に閉じ込めることに1980年代に成功した。長さ2.7センチメートルほどの共振器内の凹面鏡は、超伝導材料でつくられ、絶対零度に近い状態で、反射率が高い。装置に入ったマイクロ波レベルの光子は吸収されるか、失われるまでの10分の1秒間、凹面鏡の間を跳ね返るが、これは地球を約1周するほどの運動に相当する。
光子の量子特性を調べるため、光子1個を取り出さなくてはならないが、アロシュは、リュードベリ(リドベルグ)原子とよばれる特別に調整された原子を利用した。リュードベリ原子は通常の原子の1000倍も大きく、約125ナノメートルの半径があるのが特徴である。ドーナツ型の原子を装置に打ち込むとマイクロ波光子と量子的な相互作用を起こし、光子だけを装置に残して通り過ぎる。この原子を観察することで、光子状態や光子の有無など、光子を破壊することなく光子1個の性質を知ることができた。この手法を改良することで、リアルタイムで光子一個一個の「重ね合わせ」現象をとらえることに成功した。
こうした成果は、オーストリアの物理学者エルウィン・シュレーディンガーが1935年に提唱し、長年解決されなかった思考実験「シュレーディンガーのネコ」のネコの状態を確かめる方法を考え出したことになる。シュレーディンガーのネコとは、「量子的な状態に置かれた、箱の中にいるネコは、箱の蓋(ふた)を開けない限り死んでいるか、死んでいないかわからない」というものである。
光子の状態を知り、操作できれば、光子を使って、情報が漏洩(ろうえい)することはない通信が可能になる。アロシュの開発した手法は、ほかに原子(イオン)と光子を組み合わせた量子状態を演算に活用する量子コンピュータ開発の礎(いしずえ)になると注目されている。
1988年アインシュタイン賞、1992年フンボルト賞、1993年アルバート・マイケルソンメダル、2002年(平成14)玉川大学の量子通信国際賞、2007年チャールズ・ハード・タウンズ賞、2009年フランス国立科学研究センターのゴールドメダル、2010年ハーバート・ウォルター賞、2012年「個々の量子系の測定や操作を可能にする画期的な手法の開発」の業績で、アメリカ国立標準技術研究所のデビッド・ワインランドとノーベル物理学賞を共同受賞した。2014年ディラック・メダル(ニューサウスウェールズ大学)受賞。
[玉村 治 2021年9月17日]