アントニヌス・ピウス(英語表記)Antoninus Pius

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アントニヌス・ピウス」の意味・わかりやすい解説

アントニヌス・ピウス
Antoninus Pius

[生]86.9.19. ローマ近郊ラヌウィウム
[没]161.3.7. ローマ近郊ロリウム
ローマ皇帝 (在位 138~161) ,五賢帝一人でその4番目にあたる。 120年執政官 (コンスル ) 。イタリアの司法行政を支配。のちアシア州総督ハドリアヌス帝の養子となり,その死後即位。元老院と協調し,「敬虔」 Piusの名を得る。穏健で,ほとんどローマを離れずに政治を行なった。治世はおおむね平和,役人の地位を安定させ,属州の負担をやわらげ,冗費を節約,法施行に際しては寛大であった。社会政策も進め,キリスト教迫害を緩和した。外部に対しては防御的で,ブリタニアアントニヌス長城を築き,ゲルマニアにも防壁を築いた。ブリタニア,ダキア,北アフリカ,ユダヤで小規模な反乱もあったが,政治の中央集権化が進み,安定しており,A.アリスチデスによってその平和がたたえられた。 147年彼の手によりローマ建国 900年祭が行われた。彼の死後養子マルクス・アウレリウスが即位した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アントニヌス・ピウス」の意味・わかりやすい解説

アントニヌス・ピウス
あんとにぬすぴうす
Antoninus Pius
(86―161)

ローマ皇帝(在位138~161)。五賢帝の4番目の皇帝。執政官級の貴族の家系に生まれ、財務官、法務官を務めた後、34歳で執政官となった。小アジアの総督として名声を博し、ハドリアヌス帝の顧問団に加えられた。篤実な人柄のゆえに同帝の信任も厚く、その後継者として養子に迎えられた。同帝の死後、元老院は「敬虔(けいけん)な」Piusという称号を与えて新帝をたたえている。

 彼の治世は、賞与金の施与、扶養基金の設定、属州の財政負担の軽減が果たされるなかで、公費の節約や規律の遵守が徹底するという、まさしく「ローマの平和」に名実ともにふさわしい時代であった。しかし、元老院との協調関係が重視された反面で、行政機構における中央集権化が進展していたことは見過ごせない。死後は万人の称揚するところに従って神格化され、記念碑や神殿が建てられた。

[本村凌二]


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百科事典マイペディア 「アントニヌス・ピウス」の意味・わかりやすい解説

アントニヌス・ピウス

ローマ皇帝(在位138年―161年)。五賢帝の一人。ハドリアヌス帝の養子となり,その後を継承。治世はローマ帝国史上最も平穏な時代とみられ,〈ピウス(敬虔(けいけん)な)〉の称号を元老院から贈られた。
→関連項目マルクス・アウレリウス

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アントニヌス・ピウス」の解説

アントニヌス・ピウス
Titus Aelius Antoninus Pius

86~161(在位138~161)

ローマ皇帝。五賢帝うちの第4番目。ハドリアヌス帝の養子となり,帝位を継ぐ。ピウス(敬虔な)の称号は元老院から贈られたもの。その治世はローマ帝国史上の最も平穏な時期とみられる。

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