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イブン・バットゥータ Ibn Baṭṭūṭah

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イブン・バットゥータ
Ibn Baṭṭūṭah

[生]1304.2.24./1304.2.25. モロッコ,タンジール
[没]1368./1369./1377. モロッコ
中世イスラム世界の大旅行家。フルネーム Abū `Abd Allāh Muḥammad ibn `Abd Allāh al-Lawātī al-Ṭanjī ibn Baṭṭūṭah。1325年メッカ巡礼のため故郷を出てから,ひかれるままに西アジア,東アフリカ,アナトリア小アジア),クリミア半島黒海の北部地方,中央アジア,インド,東南アジア,中国といった未知の国々や地域を旅行,1349年にひとまず帰国し,まもなくスペインのグラナダ王国や西スーダン(→スーダン地方)を訪れた。移動距離は延べ約 12万kmにも及び,その間デリー・サルタナットトゥグルク朝の王ムハンマド・ビン・トゥグルクをはじめ,少なくとも 60人のスルタンら君主のほか,多数の政府高官,行政官,大使らと出会い,彼の記録によるとその数は 2000人以上に上った。故郷モロッコを支配していたマリーン朝の王アブー・イナーンの命(1353)で,イブン・バットゥータが書き手であるイブン・ジュザイーに口述した回想記『都市の珍奇さと旅路の異聞に興味をもつ人々への贈物』Tuḥfat al-nuẓẓār fī gharā`ib al-amṣār wa-`ajā`ib al-asfārは,一般に『リフラ』Riḥlah(『旅行記』の意。邦訳では『三大陸周遊記』『大旅行記』など)と呼ばれ,マルコ・ポーロの諸国誌と並び称されるほど精彩に富んだ内容で,紀行文学のなかで重要な地位を占めている。

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百科事典マイペディアの解説

イブン・バットゥータ

アラブの大旅行家。北部モロッコのベルベル系の生れ。22歳から30年間,エジプト,シリア,アフリカ東岸,小アジア,南ロシア,中央アジア,スマトラ,中国などを歴訪デリー法官,モルディブ島の法官などを歴任。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イブン・バットゥータ
いぶんばっとぅーた
Ibn Baa, Muammad b. ‘Abd Allh al-Tanj
(1304―68/77)

モロッコ生まれのイスラムの大旅行家。詳細な旅行記を残し、マルコ・ポーロと並び称されている。1325年6月、メッカ巡礼を志して単身故郷を出てから、北アフリカ、アラビア、東アフリカ、中東各地、バルカン、中央アジア、インド、東南アジア、中国を遊歴し、50年故郷タンジャ(タンジェル)に帰った。その翌年スペインのグラナダに行き、52年から翌年にかけてサハラ砂漠を越え、ニジェール川中流の黒人王国を訪れた。この長年月にわたる旅の間の見聞を、フェズに都したマリーン朝のアブー・イナーン王の命によって口述し、学者イブン・ジュザイイが文学的に修飾したのが『リフラ』または『都会の珍奇さと旅路の異聞に興味をもつ人々への贈物』(邦訳は『三大陸周遊記』)となった。行程約10万キロメートル、メッカ大祭に参列すること7回、14世紀のイスラム世界の政治、経済、社会、文化の各方面の事情を伝える不朽の古典として、アラビア語文学史上に光彩を放っている。長途の旅でたびたび危難にあい、記録類を失ったりしたため、記憶の誤りや、イブン・ジュザイイによって飾られ、ゆがめられた箇所などもある。しかし、インドのデリー滞在は34年から43年までに及んでいるし、オスマン朝勃興(ぼっこう)時代の小アジア、ニジェール川流域の黒人王国などについての報告など、ユニークな価値をもつ部分が至る所にちりばめられている。[前嶋信次]
『前嶋信次訳『三大陸周遊記』(1977・河出書房新社)』

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