ウィッテ(英語表記)Sergei Yul'evich Vitte

デジタル大辞泉 「ウィッテ」の意味・読み・例文・類語

ウィッテ(Sergey Yul'evich Vitte)

[1849~1915]ロシア政治家。1892年蔵相となり、鉄道建設、信用制度の整備などの近代化政策をとる。のち、首相として政治的自由化により革命の回避に尽力。日露戦争終結のためのポーツマス講和会議全権大使

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精選版 日本国語大辞典 「ウィッテ」の意味・読み・例文・類語

ウィッテ

  1. ( Sjergjej Jul'jevič Vittje セルゲイ=ユーリェビチ━ ) 帝政ロシアの政治家。蔵相として資本主義化を図り、のち首相として自由主義的改革を推進(在任一九〇五‐〇六)。日露戦争後、ポーツマス講和会議全権代表。(一八四九‐一九一五

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改訂新版 世界大百科事典 「ウィッテ」の意味・わかりやすい解説

ウィッテ
Sergei Yul'evich Vitte
生没年:1849-1915

帝政末期ロシアの政治家。日露戦争に反対し,困難なポーツマス条約の締結のために尽力したロシア側全権として知られる。ティフリス(現,トビリシ)に生まれ,1870年オデッサ大学物理・数学科を卒業。92年運輸大臣,6ヵ月後に大蔵大臣(1903まで)に任ぜられたが,この間,彼はドイツの経済学者F.リストの理論に導かれ,経済関係に国家権力が積極的に介入する政策をとった。皇帝の権威を背景に酒類の専売制導入などによる財政改革や保護関税による産業保護政策を実施し,金本位制を確立,外資の積極的導入を図り,シベリア鉄道などの鉄道建設とその関連産業の発展を促進した。この工業化の企ては成功したが,農業はなおざりにされた。それを是正するためにウィッテは20世紀初めに農業問題特別審議会の会長として農業の改革案を作成し,これが後のストルイピン土地改革の青写真となった。

 ウィッテはアレクサンドル3世とポベドノスツェフを尊敬した保守的専制主義者ではあったが,現状維持に固執せず,新しい時代精神に合理的に(できるだけ少なく)譲歩する保守主義者であり,同時代の保守派には理解されなかった。ウィッテはポーツマスから帰った直後の1905年10月,全国的なストライキのなかで十月宣言を起草し,立法権をもつ議会と市民的自由をロシアに導入しようと試みたが,それもロシアの国力を強化する手段になると考えたからである。この宣言の公布と共に彼は首相に任命され,極東からヨーロッパへの100万の軍隊の移動と外債募集の成功によって1905年革命の収拾に成功するが,ニコライ2世にうとんぜられ,半年で辞任を余儀なくされる。晩年は上院議員,財政委員会議長として財政のご意見番をつとめるかたわら,有名な《回想録》(1923-24)を執筆した。第1次大戦にも財政的見地から反対し,死の時まで権力の座に返り咲くことを夢想した。彼の墓や文書はレニングラード(現,サンクト・ペテルブルグ)にたいせつに保存されている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウィッテ」の意味・わかりやすい解説

ウィッテ
Vitte, Sergei Yul'evich

[生]1849.6.29. トビリシ
[没]1915.3.13. ペトログラード
ロシアの政治家。オデッサ大学物理・数学科卒業。 1869年ロシア西南鉄道に入り,露土戦争 (1877~78) の軍隊輸送と『鉄道運賃の原理』 (83) の著作で認められ,89年鉄道局長。 92年交通相を経て,蔵相 (92~1903) となり,財政の抜本的近代化,酒料専売,関税引上げなど政府歳入を拡大,強化する相互連関的な一連の施策によって,「ウィッテ体制」と呼ばれる国家資本主義経済メカニズムをつくり上げた。それとともに,94~95年の日清戦争以後には,極東で急速な帝国主義政策を展開し,露清銀行東清鉄道を先鋒に満州で「ウィッテの帝国」を築き上げた。だが,98年末に始るヨーロッパの金融恐慌は 99年ロシアからの外資の総引揚げを招き「ウィッテ体制」を破綻させ,工業プロレタリアートの組織化と都市,農村双方でのストライキ,蜂起を促し,続いて 1900年の義和団事変は満州での植民地事業を脅威にさらし,急速度で軍事的傾斜を強めさせた。彼はせまりくる日露の軍事衝突を回避しようとしたが,A.M.ベゾブラーゾフらの批判を受け,03年蔵相を辞任した。日露戦争 (1904~05) の敗北後,05年9月ポーツマス講和会議の首席全権となり,欧米の金融資本家のおもわくとアメリカの世論を巧妙に操作して有利な講和条件をかちとった。その帰路,歴史的なフランス借款を取決めて,05年革命でのツァーリズムの窮境を金貨で救い,伯爵を授けられた。 10月のゼネストに際しては,ニコライ2世を説得して,ある程度のブルジョア的自由を許す「十月宣言」を起草し,それに基づいて設けられた内閣の初代首相となった。しかし危地を脱したツァーリズム政府では,勢力を盛返した内務省,秘密警察のドゥルノボ=トレポフ反動路線が優位を占め,翌 06年第1国会招集の直前に引退した。

ウィッテ
Witte, Emanuel de

[生]1617. アルクマール
[没]1692. アムステルダム
オランダの画家。静物画家エベルト・ファン・アールストの弟子。最初はアダム・エルスハイマー風に神話の情景を描いていたが,やがてオランダの教会内部を題材とし,オランダの建築絵画の主要画家となる。主要作品『アムステルダムの新教会』(1656,ロッテルダム,ボイマンス=ファン・ボイニンヘン美術館),『魚市場』(1672),『夕暮時の教会の内部』(1685,ベルギー王立美術館)。

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百科事典マイペディア 「ウィッテ」の意味・わかりやすい解説

ウィッテ

ロシア,帝政末期の政治家。蔵相(1892年―1903年)として工業振興を図り,内政外交全般に発言権をもった。極東政策の推進者で一時失脚したが,1905年の革命〈ロシア革命〉にあたり,日露戦争の対日講和全権となった。のち十月詔書を起草して,その公布とともに首相(1905年―1906年)に就任し,自由主義的改革を進めた。《回想録》は重要な革命史料。
→関連項目アレクサンドル[3世]ポーツマス条約

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウィッテ」の意味・わかりやすい解説

ウィッテ
うぃって
Сергей Юльевич Витте/Sergey Yul'evich Vitte
(1849―1915)

ロシアの政治家、伯爵。官吏の家庭に生まれ、オデッサ(現、オデーサ)のノボロシア大学卒業後、鉄道会社に勤務した。鉄道運賃の理論に関する著作で有名になり、1889年大蔵省鉄道局長、1892年から1903年まで蔵相を務め、「ウィッテ体制」とよばれる政府指導型の資本主義体制を築いた。彼はとくに鉄道建設と重工業の育成を目ざし、その手段として、通貨の安定、財政の改革、間接税の引き上げ、保護関税の実施、外資の導入といった一連の政策を推し進めた。外交面では日露戦争の講和会議にロシア全権として活躍。講和を急いでいる日本の手の内を読んで有利な条約を締結した。1905年の革命の最中に大臣会議議長に任ぜられ、「十月宣言」を起草。市民的自由や国会の設立を約束して革命の火を消した。しかし政府部内の右派からは左寄りとみられ、翌年4月辞任した。

[外川継男]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ウィッテ」の解説

ウィッテ
Sergei Yulievich Vitte

1849.6.17~1915.2.28

ビッテとも。ロシア末期の政治家。1892年から1903年まで蔵相として,シベリア鉄道建設,露清銀行と東清鉄道による東アジア進出などを推進したが,日露開戦に反対し左遷される。戦後に全権として日露講和条約を締結。著作に大竹博吉訳「ウィッテ伯回想記」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「ウィッテ」の解説

ウィッテ
Sergei Yulievich Vitte

1849〜1915
ロシアの政治家
伯爵。交通・大蔵両大臣を歴任。日露戦争に反対であったが,1905年その終結に際し,全権として起用され小村寿太郎とポーツマス条約に調印。のち首相となった。主著に『回想録』。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ウィッテ」の解説

ウィッテ Vitte, Sergey Yulyevich

ビッテ

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367日誕生日大事典 「ウィッテ」の解説

ウィッテ

生年月日:1849年6月17日
ロシアの政治家
1915年没

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世界大百科事典(旧版)内のウィッテの言及

【アレクサンドル[3世]】より

…しかし経済の分野では資本主義の発達を助成する政策をとり,人頭税を廃止したり,最初の労働立法を施行したりした。とくに92年にウィッテを大蔵大臣に登用してからは,大規模な鉄道建設を中心にして,急テンポで工業化がすすめられた。外交面では,即位当初ドイツ,オーストリアとの接近をはかって,1881年に三帝同盟を復活させたが,その後次第にフランスに近づき,94年1月最終的に露仏同盟を成立させた。…

【ロシア革命】より

…1903年になると,1890年代の成長の基盤であった南ロシアの鉱山・工場地帯全域に長期かつ深刻なゼネストがおこった。 このような学生運動,民族運動,農民運動,労働運動が噴出して,体制が動揺する中で,皇帝ニコライ2世は90年代の成長政策の推進者蔵相ウィッテを退け,内相プレーベを重用して抑圧政策をとる一方,山師的人物の献策をいれて,極東での冒険政策をすすめ,1904年1月日露戦争に入り込んだ。この戦争は,国民にまったく不人気であり,かつロシアの軍事力,国力の欠陥を露呈した。…

※「ウィッテ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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