ウエイトリフティング(読み)うえいとりふてぃんぐ(英語表記)weightlifting

翻訳|weightlifting

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ウエイトリフティング」の意味・わかりやすい解説

ウエイトリフティング
うえいとりふてぃんぐ
weightlifting

選手を体重別に分け、バーベルをスナッチとクリーン&ジャーク(以下ジャーク)の二つの方法で各3回ずつ挙上し、そのうちの最高挙上記録で順位を決める競技。重量挙げともいう。

[林 克也 2019年8月20日]

歴史

物を持ち上げるという能力は人類の発生段階ですでにみることができる。物を持つという特性は、攻撃や防御の手段として、また衣、食、住を得るための技能として大きな力になったと考えられる。しかし、これらのことについて資料を得ることはまったく不可能で、推測のほかない。

 『旧約聖書』に登場するヤコブ、サムソン、ダビデらの神話や伝説は、初期のヘブライ人たちが好んで怪力を賞賛した事実を物語っている。日本でも神話に出てくる天岩戸(あめのいわと)を引き開いた天手力男命(あめのたじからおのみこと)をはじめとして、この種の力にまつわる話は多い。

 江戸末期から明治のころまで、村の祭礼や年中行事などの呼び物として盛んに行われた大石を持ち上げる力競(くら)べは、素朴な形でのウエイトリフティングといえる。今日、全国各地の社寺に奉納されている卵形の大きな玉石は、力を競って挙上したいわゆる力石(ちからいし)で、バーベルに相当する。古代オリンピック競技は、神に捧(ささ)げるための祭典競技で、競技がいつも神域から離れることのなかったように、力石も単なる力競べや祭礼の余興としてのほか、神への供物としての意味もあった。

 古代オリンピックの時代、多くの力持ちたちが現れ、体育史では「力技時代」として知られているが、オリンピック種目としてウエイトリフティングが登場したのは、1896年近代オリンピックの第1回アテネ大会以降である。このころの競技方法は、片手による挙上方法と両手による挙上方法であった。1920年第7回アントワープ大会では、体重を5階級に分ける体重制度が創設され、1928年第9回アムステルダム大会から、両手によるクリーン&プレス、スナッチ、ジャークの3種目で行われるようになったが、1972年第20回ミュンヘン大会後、クリーン&プレスは廃止された。なお、1960年代には、オッド・リフト・コンテストodd lift contestの名で現在のパワーリフティングが競技として行われたことがある。

[林 克也 2019年8月20日]

日本のウエイトリフティング

1940年(昭和15)に予定されたオリンピック・東京大会に備えるため、1933年8月、国際オリンピック委員の嘉納治五郎(かのうじごろう)が、オーストリアから正式なバーベル一式を輸入した。このバーベルは、翌1934年3月、東京・代々木にあった文部省体育研究所に運ばれ、ウエイトリフティングの技術研究と練習が行われ、普及のための講習会も開かれた。日本の最初のウエイトリフティング競技会は1936年5月2日の東京市民選手権大会である。同月31日には文部省体育研究所で第1回全日本選手権大会が、全日本体操連盟(現、日本体操協会)の一行事として実施され、また同日、日本重量挙(あげ)連盟が結成された。1938年には大日本体育協会(現、日本スポーツ協会)や国際ウエイトリフティング連盟International Weightlifting Federation(IWF。国際重量挙連盟ともいう)にも加盟した。日本重量挙連盟結成後まもなく世界記録樹立者が誕生するなど、日本のウエイトリフティングは急成長を遂げたが、第二次世界大戦のため、同連盟は1941年に解散した。しかし、戦後いち早く組織は再建され、1946年(昭和21)3月、日本ウエイトリフティング協会Japan Weightlifting Association(JWA)と改称し再結成された。同年11月には第1回国民体育大会にウエイトリフティングが競技種目となった。このとき全日本選手権大会も兼ねて開催された。

 オリンピック初参加は1952年の第15回ヘルシンキ大会である。このときバンタム級で白石勇(しらいしいさむ)(1920― )が出場した。1960年第17回ローマ大会では三宅義信(みやけよしのぶ)(1939― )がバンタム級で2位となり、ウエイトリフティングで日本初のメダルを獲得。同選手は1964年第18回東京大会、1968年第19回メキシコ大会ではフェザー級に階級を変え連続優勝している。2000年(平成12)の第27回シドニー大会から女子選手の参加が認められ、日本からは3名の選手が参加した。2012年第30回ロンドン大会では、48キログラム級に出場した三宅宏実(みやけひろみ)(1985― )が2位になり、続く2016年第31回リオ・デ・ジャネイロ大会でも同選手が同階級で3位となっている。2016年までのオリンピック大会では、男女あわせて金が2個、銀が3個、銅が9個と、合計14個のメダルを獲得している。

[林 克也・菊地俊美 2019年8月20日]

世界の現況

2019年時点でIWFに加盟しているのは192か国・地域。1987年の世界選手権大会からは女子種目が追加され、アジア競技大会でも1990年の北京(ペキン)大会から、オリンピック大会でも2000年のシドニー大会から実施されるようになった。

 男子は、競技の近代化が確立した1928年のオリンピック・アムステルダム大会以降は、ソ連(現、ロシア)をはじめ東欧諸国が強かったが、1960年代になると三宅義信の活躍もあり、日本が強国の一角を占めるようになった。1980年代以降になると中国、イラン、韓国、北朝鮮などのアジア勢が台頭し始め、2000年代に入るとこれらの国に加えてコロンビアエジプトといった国の活躍も顕著になってきた。競技会に参加する国や地域が増えるに伴い、強国の分布も多様化の傾向を示している。

 女子は、オリンピック大会に初登場した2000年のシドニー大会から中国が圧倒的な強さを示しているが、2010年代になるとカザフスタン、タイ、北朝鮮、チャイニーズタイペイ(台湾)などの活躍が目だつようになってきた。

[林 克也・菊地俊美 2019年8月20日]

施設・用具

競技場のおもな構成は、ステージ、プラットホーム(競技台)、アテンプトボード(判定器・重量掲示器・計時器)などからなっている(図A)。ステージは、高さが1メートル以内で広さが10メートル四方以上の平面な台で、その上に厚さ15センチメートル以下の堅固な4メートル四方のプラットホームが設置され、規格化された公認バーベル(図B)が使用される。バーベルは、5キログラム以下のディスクは大部分が金属製であるが、10キログラム以上のディスクは外側がラバーあるいはプラスチックで覆われている。

[林 克也・菊地俊美 2019年8月20日]

服装

ユニフォームはワンピースの水着型、下着にTシャツが使われるが、2011年のIWF競技規則の改正でこれにユニタードが加わった(肌を露出できない選手への配慮から)。ベルトは幅12センチメートル以下であれば使用できる。サポーターバンデージについても細かく制約がある。靴については、競技の特性や足の保護のため、専用のスポーツシューズ(ウエイトリフティングに適したシューズ)の着用が求められている。

[林 克也・菊地俊美 2019年8月20日]

競技方法

競技会は、四つの年齢区分と10の階級区分で実施される。年齢区分には(1)ユース:13~17歳、(2)ジュニア:15~20歳、(3)シニア:15歳以上、(4)マスターズ:35歳以上がある。シニアの部では、世界選手権大会等の競技会とオリンピック大会とでは実施階級数が異なることになった。世界選手権大会等での階級数は、男子が55キログラム以下、61キログラム以下、67キログラム以下、73キログラム以下、81キログラム以下、89キログラム以下、96キログラム以下、102キログラム以下、109キログラム以下、+(プラス)109キログラムの10階級である。女子は、45キログラム以下、49キログラム以下、55キログラム以下、59キログラム以下、64キログラム以下、71キログラム以下、76キログラム以下、81キログラム以下、87キログラム以下、+87キログラムと、男子同様の10階級となっている。オリンピック大会では、男女ともこの階級区分のなかからそれぞれ3階級を除いた7階級で実施される(男子は55キログラム以下、89キログラム以下、102キログラム以下、女子は45キログラム以下、71キログラム以下、81キログラム以下が除外)。検量は競技会開始2時間前より1時間行われるが、体重の過不足のときは制限時間内であれば再検量が許される。

 種目はスナッチ、ジャークの順に2種目が行われる。スナッチはバーを上から両手で握り、一気に頭上まで引き上げる。ジャークは、バーベルをいったん肩まで引き上げる第1動作(クリーン)と、反動を使って頭上に差し上げる第2動作(ジャーク)からなっている(図C)。なお、1972年以降に廃止された種目クリーン&プレスは、第1動作(クリーン)と、反動を使わず腕の力だけでバーベルを頭上に押し上げる第2動作(プレス)からなっていた。

 試技は申請した重量の軽い者から順番に行われる。スナッチ、ジャークとも3回の試技ができ、順次1キログラム単位で重量を上げていく。ただし、各試技とも制限時間内であれば2回の重量変更が可能で、重量の設定は任意となっている。試技不成功のときでも重量を下げることはできず、同一重量以上で行う。選手はコールされてから1分間以内に試技に入らなければならない。1人が連続して試技を行うときは2分間以内となる。順位決定は、世界選手権大会等ではスナッチ、ジャーク別の最高重量と、その合計の3種類で行われるが、オリンピック大会は合計重量のみである。最高重量が同じときは、先に順位の対象となる重量を上げた選手が上位となる。

 審判は、レフェリー(3人)とジュリー(3~5人)があたり、レフェリーの多数決で判定が下される。レフェリーの判定に問題があるときは、ジュリーは判定の変更や選手に再試技の機会を与えることができる。

 反則動作のおもなものは次のとおりである。

〔1〕スナッチで、バーベルを引き上げる間に一時休止する。

〔2〕ジャークで、(1)第1動作に際して肘(ひじ)または腕が膝(ひざ)か大腿部(だいたいぶ)に触れる。(2)第2動作で反動(膝の曲げ伸ばし動作)を2回以上行う。(3)ジャークの前に故意にバーベルを振動させ有利にする(選手は静止した状態からジャークを開始しなければならない)。

〔3〕スナッチ、ジャークの共通反則として、(1)引きの途中でバーベルを一時休止する。(2)足底以外の身体の一部が床に触れる。(3)挙上最終段階の腕の伸長過程で、バーベルの一時休止、両腕の不均等な伸長、よく伸びきらない、押し上げる。(4)最終姿勢で腕が屈伸する。(5)プラットホームから足を踏み出す。(6)レフェリーのダウンの合図前にバーベルを下ろす。(7)レフェリーのダウンの合図後にバーベルを肩より高い位置から落とす。(8)最終姿勢で両足を平行に戻さない、などである。

[林 克也・菊地俊美 2019年8月20日]

『林克也他著『ウエイトリフティング指導書』(1966・日本ウエイトリフティング協会)』『小野三嗣著『ウェイトリフティング』(1971・不昧堂出版)』『加藤清忠著『図解コーチ ウエイトリフティング』(1981・成美堂出版)』『窪田登著『ウェイト・リフティング』新版(1981・ベースボール・マガジン社)』『浅見俊雄編『現代体育・スポーツ大系 第21巻 レスリング、ウエイトリフティング、ボクシング』(1984・講談社)』『ティム・ハモンド著、リリーフ・システムズ訳『ビジュアル博物館13 スポーツ』(1991・同朋舎出版)』『大修館書店編集部編『最新スポーツルール百科』各年版(大修館書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「ウエイトリフティング」の意味・わかりやすい解説

ウェイトリフティング
weightlifting

バーベルを一定の方法でもち上げて,その挙上重量を競う競技。重量挙げともいう。

旧約聖書に出てくるサムソンや,日本の神話で天の岩屋戸を押し開けた手力雄神(たぢからおのかみ)に代表される怪力者の話は,昔から世界各地にあり,有史時代に入ってからもこれに似た話はいくつも残っている。例えば前6世紀ごろクロトン(現クロトーネ)のミロン(ミロ)は,子牛が成牛になるまで毎日かついで歩く訓練をして筋力を鍛えたという。そして古代オリュンピアの祭典でレスリングに二十数年間無敵を誇った。ところが羊飼いのティトルモスTitormosは,そのミロンでさえもち上げられなかった大石を,肩にかついで14mも歩いたといわれている。

 日本でも昔から大きな石や米俵をもち上げる〈石ざし〉や〈俵ざし〉が行われ,江戸時代にもっとも盛んであった。これらの力比べは,昭和の初めまで全国の農村青年や運送業者,土建業者,穀物販売業者などの間で広く行われていた。もっとも,以上のような力比べは,今日のウェイトリフティングではない。現在のウェイトリフティングに近いものは,19世紀後半,サーカスやミュージックホールの怪力者strong manによって試みられ始めたようである。1891年,ロンドンにあるカフェー・モニカで,両手にそれぞれダンベルをもって行う挙上種目8種によりその挙上回数を争ったのが第1回の世界選手権大会だったといわれる。このときは,イギリスのレビーE.L.Levyが優勝した。しかし,現在のウェイトリフティングとはその種目がかなり異なっていた。

 バーベルを用いた種目によるウェイトリフティングは,近代オリンピックの歴史とともに発展してきた。96年にギリシアのアテネで開かれた第1回オリンピック大会で,ウェイトリフティングは体操競技の一環として行われた。このとき採用された種目は〈両手によるクリーン・アンド・ジャークtwo hands clean and jerk〉と〈片手によるクリーン・アンド・ジャークone hand clean and jerk〉の2種類で,体重制限はなく,参加者も少なかった。その後,1924年のパリ大会(第8回)までは,〈両手によるスナッチtwo hands snatch〉や〈片手によるスナッチone hand snatch〉〈両手によるプレスtwo hands clean and press〉などがそのときどき適当に盛り込まれ,種目数も一定しなかった。〈両手によるプレス〉〈両手によるスナッチ〉〈両手によるジャーク〉の3種目方式に統一されたのは,28年のアムステルダム大会(第9回)からである。こうして3種目方式は72年のミュンヘン大会(第20回)まで続いたが,〈プレス〉の判定をめぐってトラブルが絶えず,73年からはこれを除いて〈スナッチ〉〈ジャーク〉の2種目方式に変わり,現在に至っている。1920年に国際ウェイトリフティング連盟International Weightlifting Federation(略称IWF)が設立された。この年開かれたアントワープ・オリンピック大会(第7回)で初めて体重制が設けられた。このときは5階級しかなかったが,第2次世界大戦後,階級が増えていき,現在は次の8階級に分けられている。56kg級(56kg以下),以下同様に62kg級,69kg級,77kg級,85kg級,94kg級,105kg級,+105kg級(105kg以上)である。女子の世界選手権大会は1987年から始まり,2000年のシドニー大会(第27回)からオリンピックにも採用された。現在,次の7階級がある。48kg級,53kg級,58kg級,63kg級,69kg級,75kg級,+75kg級。これらの階級は再改定の可能性もある。

 日本におけるウェイトリフティングの歴史は,1934年3月,IOC(国際オリンピック委員会)委員の嘉納治五郎がオーストリアから国際用バーベルを購入,文部省体育研究所でこの競技の研究にとりかからせたことに端を発する。36年5月には全日本体操連盟主催のもとに第1回全日本選手権大会が開かれた。翌37年,体操連盟から独立して,日本重量挙競技連盟(現在の日本ウェイトリフティング協会)が誕生。国際競技への初参加は51年の第1回アジア競技大会(ニューデリー)で,2名の選手が派遣された。オリンピックには52年のヘルシンキ大会(第15回)から参加した。64年の東京大会(第18回)と68年のメキシコ大会(第19回)では,三宅義信がフェザー級に連続優勝,日本チームとしても好成績を残した。世界選手権大会は毎年開催され,オリンピック開催年はオリンピックの競技会がそれを兼ねる。なお,アメリカでは81年に初の全米女子選手権大会が開かれている。

4m四方のプラットフォームと称する競技台の上で,〈スナッチ〉と〈ジャーク〉の2種目が行われる。競技は同一階級内の選手どうしで行う。スナッチ,ジャークともに各3回ずつの試技を許される。バーベルの目方は順次増量されていく。試技はコールされてから1分以内に行う。成功した試技後の重量増加は2.5kg以上とする。一度試みた重量に失敗したからといって,次回の試技でバーベルの重量を下げることはできない。試技の判定は3名のレフェリーが電気判定システムを使って行う。〈白〉が〈成功〉,〈赤〉が〈失敗〉で,判定は多数決で決まる。順位は2種目の各最良記録の合計で争われる。スナッチとジャークの合計による順位以外に種目別の順位もつけられ,それぞれ表彰される。なお合計記録が同一の場合には,競技前に検量した体重の軽いほうが勝者となる。またこの体重も同一の場合には,対象となる記録を先に樹立したほうが上位となる。

 選手の服装はワンピース型ユニフォームで襟なし,体にフィットした見た目にも美しいものでなくてはならない。腰にベルトを巻いてもよいが,この最大幅は12cm以内となっている。選手はウェイトリフィティング・シューズかスポーツ・シューズをはかなくてはならない。かかとの下が広がっているものは使用できない。
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百科事典マイペディア 「ウエイトリフティング」の意味・わかりやすい解説

ウェイトリフティング

重量挙げとも。バーベルを一定の方法で頭上に持ちあげてその重量を競う競技。スナッチ,ジャークの2種目がある。スナッチは一挙動で引き上げるもので,ジャークは正式にはクリーン・アンド・ジャークといい,バーベルを肩まで引き上げたあと,両足,腰の反動により頭上に差し上げる。各種目について3回ずつ試技を行い,各最高記録を合計した重量で順位を決める。筋力強化のための薬物使用が大きな問題となったため,厳しいテストが課されるとともに,1993年から体重制も改められ,男子は54kg級,59kg級,64kg級,70kg級,76kg級,83kg級,91kg級,99kg級,108kg級,108kg超級の10階級。1987年からは女子の世界選手権大会も開催されるようになり,46kg級,50kg級,54kg級,59kg級,64kg級,70kg級,76kg級,83kg級,83kg超級の9階級に分けて行われている。オリンピックでは男子は第1回アテネオリンピックと1904年のセントルイスオリンピックに体重制限のない片手ジャークと両手ジャークが実施されたが,当時は体操種目の一つとされた。1920年のアントワープオリンピックで体重別の階級分けがなされ,単独の正式種目となった。1996年のアトランタオリンピックでは10階級にまで膨らんだ。2000年のシドニーオリンピック以降男子の階級再編が行われ,現在は8階級で実施されている。女子は2000年シドニーオリンピックから正式種目で7階級となっている。男子は伝統的には旧ソ連が強豪だったが,近年は中国が強豪で,アメリカ,ブルガリアなどが続く。女子は中国が圧倒的な強さを誇っている。日本は男子が,1960年のローマオリンピック56kg級(旧バンタム級)で三宅義信が銀,1964年の東京オリンピックで三宅義信は62kg級(旧フェザー級)で金メダル獲得,一ノ瀬史郎が銅,77kg級(旧ミドル級)で大内仁が銅。三宅義信は1968年のメキシコシティーオリンピックで連続して金メダルを獲得した。メキシコシティーオリンピックでは77kg級(旧ミドル級)で大内仁が銀,62kg級では三宅義信の弟の三宅義行も銅を獲得。他に,1976年のモントリオールオリンピックの56kg級で安藤謙吉が銅,62kg級で平井一正が銅,1984年のロサンゼルスオリンピックで54kg級(旧フライ級)で真鍋和人が銅,56kg級で小高正宏が銅,85kg級で砂岡良治が銅を獲得した。女子では2012年のロンドンオリンピックで三宅宏美が48kg級で銀メダルを獲得,ウェイトリフティング女子で初の快挙となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ウエイトリフティング」の意味・わかりやすい解説

ウエイトリフティング
weightlifting

バーベルを差し上げ,その重量を競う競技。重量あげともいう。ヨーロッパでは重い石などを差し上げ,力比べのようなかたちで,一種の娯楽として行なわれていた。18世紀頃には競技化され,しだいに近代的スポーツのかたちを整えていった。1896年の第1回アテネ・オリンピック競技大会から体操競技の一環として実施され,1920年のアントワープ大会から独立競技となった。1928~68年までスナッチクリーン・アンド・ジャーク,プレスの 3種目が行なわれたが,1972年のミュンヘン大会からプレスが廃止された。1934年に初めて日本に紹介され,1937年全日本体操連盟から日本重量挙連盟が独立,1946年日本ウエイトリフティング協会と改称した。1938年に国際ウエイトリフティング連盟 IWFに加盟。1952年にオリンピック競技大会初参加を果たし,1960年のローマ大会では三宅義信が日本初のメダル(銀)を獲得した。女子競技は 2000年のシドニー大会からオリンピック種目となり,2012年ロンドン大会で三宅宏美が銀メダルを獲得。競技は 4m四方のプラットフォーム(演技台)で行なわれ,スナッチ,クリーン・アンド・ジャークの 2種目で競われる。重さを増しながら 3回ずつ試技し,2種目の合計記録で順位が決まる。同記録の場合は体重の軽い者が上位。男子は 56kg級から +105kg級までの 8階級。女子は 48kg級から +75kg級までの 7階級。(→アントワープ・オリンピック競技大会シドニー・オリンピック競技大会ミュンヘン・オリンピック競技大会ローマ・オリンピック競技大会

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