さまざまな流派に分かれていた柔術を再編し、1882年に講道館柔道を創設。1909年、アジアで初の国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任。日本が初参加の12年ストックホルム五輪では選手団団長を務めた。11年には大日本体育協会(現日本スポーツ協会)を設立。初代会長として「日本体育の父」とも呼ばれた。教育にも力を入れ、東京高等師範学校(現筑波大)の校長で、貴族院議員でもあった。38年5月にIOC総会からの帰路、太平洋上の氷川丸船内で肺炎のため77歳で死去。兵庫県出身。
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明治~昭和の教育家。講道館柔道の創始者。摂津国菟原(うばら)郡御影(みかげ)村(現、神戸市東灘(ひがしなだ)区御影)の廻船(かいせん)問屋、嘉納治郎作希芝(まれしげ)(1813―1885)の三男に生まれる。幼名伸之助。父の治郎作は、選ばれて大坂の幕府廻船方の御用を勤め、1867年(慶応3)には日本最初の洋式船舶による江戸―神戸―大坂間の定期航路を開いた功労者で、維新後は新政府に出仕し、1884年(明治17)には海軍権(ごん)大書記に任ぜられている。1870年に御影から東京・蠣殻(かきがら)町の父の邸(やしき)に移った伸之助は、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)塾などでの勉学ののち、東京大学文学部政治学科および理財学科に進み、卒業後さらに哲学科選科を卒(お)えた。1883年学習院の講師となり、院長谷干城(たにかんじょう)の信任を得、4年後には教授兼教頭を命ぜられた。
一方、彼は大学在学中から生来の虚弱非力を克服し、自らの意志を鍛錬する手段として古流柔術に注目した。天神真楊流(てんじんしんようりゅう)さらに起倒流(きとうりゅう)を学び、柔術の教育的価値を痛感し、柔術の抜本的な合理化と体系化によって柔道を新たに生み出し、その普及を終生の事業とする決意を抱くに至った。1882年、下谷(したや)北稲荷(きたいなり)町の永昌(えいしょう)寺の一部を借りて講道館を創始、やがて門下に西郷四郎、横山作次郎らの俊秀が集まり、1884年9月の警視庁主催の武道大会に大活躍をみて、一躍その存在を知られることとなった。その後も1891年の大日本教育会常集会における「柔道の一斑(いっぱん)と其(その)教育上の価値」に代表される一連の講義・講演により講道館柔道の真価を世に問うとともに、柔道の技術的・理論的基礎を確立した。
1892年1月、1年間の欧州教育事情視察を終えて帰国、同年4月学習院から文部省参事官に転じ、第五高等中学校校長等を経て、1894年東京高等師範学校校長を命ぜられた。以来24年にわたって、二度の中断はあったが、4年制の体育科の実現など同校の拡充発展に尽力し、師範教育の刷新に大きく貢献した。また私財を投じ、日清(にっしん)戦争後急増した清国留学生教育のために亦楽(えきらく)書院、さらに弘文(宏文)(こうぶん)学院の経営に尽瘁(じんすい)している。
1909年(明治42)フランス大使ゼラールAuguste Gérard(1852―1922)の要請を受け東洋最初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となり、1911年には大日本体育協会(現、日本スポーツ協会)を組織しその初代会長に就任、翌1912年の第5回オリンピック・ストックホルム大会の日本選手団団長として日本初の出場を果たした。1920年(大正9)東京高師校長退任後は講道館文化会を創立し、柔道原理の国民生活への応用を説き、1933年(昭和8)には念願の大道場を東京・水道橋駅前に建設した。また機会あるごとに外遊し、柔道の海外普及を図ったが、1932年以降はオリンピックの日本招致に情熱を傾け、1936年のIOCベルリン総会で、4年後の第12回大会の東京開催の権利をとり、さらに老躯(ろうく)をおして1938年のIOCカイロ総会に出席、冬季大会の札幌招致に成功した。しかし、カイロからの帰途、太平洋上の氷川丸(ひかわまる)船中で肺炎を発病、5月4日、死去した。
[渡邉一郎]
『「嘉納先生追悼号」(『柔道』第9巻第6号・1938・講道館)』▽『嘉納先生伝記編纂会編『嘉納治五郎』(1964・講道館)』▽『加藤仁平著『嘉納治五郎』(『新体育講座 第35巻』1964・逍遙書院)』▽『松本芳三解説『嘉納治五郎著作集』全3巻(1983/新装版・1992・五月書房)』
明治・大正期の教育家,講道館柔道の創始者,日本の初代IOC(国際オリンピック委員会)委員,日本体育協会の創設者。摂津(兵庫県)御影町の酒造家嘉納治郎作の三男として生まれる。幼名伸之助。1875年東京帝国大学の前身,開成学校に入学,勉学のかたわら福田八之助について天神真楊流,飯久保恒年について起倒流の柔術を学ぶ。82年卒業し,学習院英語教師となるかたわら,下谷稲荷町の永昌寺の書院を借り,塾を開いて講道館と名付け,塾生に柔術を教える。88年九段富士見町に道場を開き,柔術諸流派の技術を統合し,体育的に再編成した流儀を完成,講道館柔道の名のりをあげた。文部省から外国視察に派遣された後,91年五高校長となり,文部省参事官,一高校長を経て96年東京高等師範学校校長に就任。とくに体育を奨励し,体育科を新設して体育教師の養成に努めた。1909年IOC会長クーベルタンの委嘱でアジアで最初のIOC委員に就任,11年大日本体育協会を設立,三島弥彦(東大),金栗四三(東京高師)の両選手を選抜してみずから団長となり,オリンピック初参加(1912年,ストックホルム)を実現した。38年カイロで開催のIOC総会に出席しての帰途,氷川丸船中で肺炎のため急逝した。
→柔道
執筆者:川本 信正
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明治〜昭和期の柔道家,教育家 講道館初代館長;貴院議員;東京高師校長;IOC委員。
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(武田文男)
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1860.10.28~1938.5.4
明治~昭和前期の教育家・柔道家。父は治郎作。摂津国生れ。東大卒。1882年(明治15)学習院講師になり,東京下谷の永昌寺で講道館を開き柔術を教える。古来の柔術を改良して講道館柔道を編み出した。のち第一高等中学校校長,東京高等師範学校校長を歴任。1909年にアジアで最初の国際オリンピック委員会(IOC)委員となり,11年には大日本体育協会初代会長に就任。12年(大正元)第5回オリンピック大会に団長として参加するなど,国際的にも活躍した。
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…現在は乱取(らんどり)(自由練習)や試合における勝敗が中心となり,投げ技と固め技だけが使われ,当身技は危険であるので禁じられているため,活用がおろそかになっている。しかし,精力善用国民体育(1927年嘉納治五郎が創案した当身技を基本とする体操)の形,極(きめ)の形,講道館護身術,女子柔道護身術などでは,当身技が練習の形として行われる。【竹内 善徳】。…
…武道においては〈寒稽古〉と並んで〈暑中稽古〉もあるが,寒さ暑さに対して逃避するのでなく,かえって積極的に行うことによって寒暑二つに安住するという思想は,禅語の〈寒は寒殺,暑は熱殺〉に通じるものがある。このような〈寒修行〉を,教育的立場から近代武道に導入したのは嘉納治五郎で,1894年,講道館の教育計画の中に〈寒稽古〉としてとり入れたのがその最初である。【中林 信二】。…
…江戸時代,楊心流とともにもっとも隆盛し,全国に名をはせた。嘉納治五郎が起倒流を飯久保恒年に学び,その投げ技の卓抜さに感銘し,講道館柔道の投げ技の基礎とした。現在も起倒流の技を,講道館〈古式の形〉として残している。…
…講道館柔道の研究教授とその普及振興をはかるための諸事業を行う教育機関およびその道場の名。嘉納治五郎が柔術を集大成して柔道を創始し,1882年5月東京の下谷北稲荷町の永昌寺に道場を開き,講道館と名付けた。単なる技術の練習だけでなく,あくまで道を重んじ,道を広めるという意味から〈道を講ずる館〉,すなわち講道館と命名したものである。…
…古来の柔術に改良を加えて創始された武道。嘉納治五郎は体育,修心,勝負を目的とする教育的観点から講道館柔道を創始した。現在は世界的に普及するスポーツの一つとなっている。…
…戦後,清朝は体制内改良の道を模索しはじめ,留学生の派遣,日本人教師の招聘,農学や蚕糸業の分野における日本からの技術導入,日本文の翻訳等を相次いで実行,日中文化交流は新たな展開を見せることになった。1896年,日中交流の長い歴史の中ではじめて,13名の中国人留学生が日本に到着して,当時高等師範学校校長であった嘉納治五郎にあずけられた。98年には,中国人の日本留学を奨励する張之洞の《勧学篇》が著された。…
※「嘉納治五郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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