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嘉納治五郎 かのう じごろう

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美術人名辞典の解説

嘉納治五郎

教育家・柔道家。兵庫県生。幼名は伸之助。東大卒後、学習院教授等を経て東京高等師範学校長を多年務める。また講道館を創設し、その館長として柔道の研究指導に当たり、斯界の父と仰がれる。貴族院議員。日本最初のIOC(国際オリンピック委員会)委員。昭和13年(1938)歿、79才。

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デジタル大辞泉の解説

かのう‐じごろう〔カナフヂゴラウ〕【嘉納治五郎】

[1860~1938]柔道家・教育者。兵庫の生まれ。柔術諸流を集大成して近代柔道を創始。講道館を設立。東京高等師範学校校長を務め、体育教育全般の発展にも貢献。日本の初代IOC(国際オリンピック委員会)委員。

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百科事典マイペディアの解説

嘉納治五郎【かのうじごろう】

講道館柔道の創始者。兵庫県出身。1875年開成学校東京大学の前身)に入学。勉学のかたわら天神真楊流,起倒流の柔術を学ぶ。卒業後学習院の英語教師を務めるかたわら,1882年東京下谷永昌寺内に私塾講道館を開き門弟に柔術を指導,1889年その流儀を〈柔道〉と命名した。
→関連項目岸清一

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

嘉納治五郎 かのう-じごろう

1860-1938 明治-昭和時代前期の教育者,柔道家。
万延元年10月28日生まれ。学習院教授,第五高等中学・第一高等中学の校長をへて高等師範(のち東京高師)校長をつとめる。東京大学在学中から天神真楊流,起倒流の柔術をまなんで柔道を創始し,明治15年(1882)講道館をひらく。日本初のIOC委員。大日本体育協会初代会長。貴族院議員。昭和13年5月4日死去。79歳。摂津兎原郡(兵庫県)出身。
【格言など】柔術は,はたしてこのままでよいのか。ただ敵を倒しさえすればいいのか

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朝日日本歴史人物事典の解説

嘉納治五郎

没年:昭和13.5.4(1938)
生年:万延1.10.28(1860.12.10)
明治から昭和期の教育者,講道館柔道の創始者。初代日本体育協会会長。摂津国御影村(神戸市)生まれ。東大卒。日本古来の柔術,武術を改良して新技術「柔道」を編み出す。明治15(1882)年,東京下谷北稲荷町の浄土宗永昌寺の書院を借りて講道館を開設。22年から8回欧米をまわり,柔道を世界のスポーツにする基盤を作った。学習院教授,第一高等中学校長,東京高等師範学校長などを歴任。42年,日本最初の国際オリンピック委員会(IOC)委員となり,44年,大日本体育協会を組織する。翌年,日本のオリンピック初参加となった第5回ストックホルム大会にマラソン金栗四三らを率いて,団長として入場行進した。第12回オリンピック大会(1940)の東京招致(のち戦火の拡大で大会返上)を決定したIOCカイロ会議の帰途,肺炎のため氷川丸の船中で没した。<参考文献>老松信一『柔道百年』

(武田文男)

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世界大百科事典 第2版の解説

かのうじごろう【嘉納治五郎】

1860‐1938(万延1‐昭和13)
明治・大正期の教育家,講道館柔道の創始者,日本の初代IOC(国際オリンピック委員会)委員,日本体育協会の創設者。摂津(兵庫県)御影町の酒造家嘉納治郎作の三男として生まれる。幼名伸之助。1875年東京帝国大学の前身,開成学校に入学,勉学のかたわら福田八之助について天神真楊流,飯久保恒年について起倒流の柔術を学ぶ。82年卒業し,学習院英語教師となるかたわら,下谷稲荷町の永昌寺の書院を借り,塾を開いて講道館と名付け,塾生に柔術を教える。

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大辞林 第三版の解説

かのうじごろう【嘉納治五郎】

1860~1938) 教育者・柔道家。兵庫県生まれ。東大卒。1882年(明治15)講道館を創設、柔術を改良して柔道の普及に努めた。東京高師校長。大日本体育協会を創立。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

嘉納治五郎
かのうじごろう

[生]万延1(1860).10.28. 兵庫,御影
[没]1938.5.4. 太平洋上,氷川丸船内
教育者,体育家,柔道家。 1881年東京大学卒業,翌 1882年講道館柔道を創始し,柔道の研究と普及に努めた。柔道の本義を「精力善用,自他共栄」とし,優れた理想と技術をもって柔道を国内はもとより広く海外に展開させた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

嘉納治五郎
かのうじごろう
(1860―1938)

明治~昭和の教育家。講道館柔道の創始者。摂津国菟原(うばら)郡御影(みかげ)村(現、神戸市東灘(ひがしなだ)区御影)の廻船(かいせん)問屋、嘉納治郎作希芝(まれしげ)(1813―1885)の三男に生まれる。幼名伸之助。父の治郎作は、選ばれて大坂の幕府廻船方の御用を勤め、1867年(慶応3)には日本最初の洋式船舶による江戸―神戸―大坂間の定期航路を開いた功労者で、維新後は新政府に出仕し、1884年(明治17)には海軍権(ごん)大書記に任ぜられている。1870年に御影から東京・蠣殻(かきがら)町の父の邸(やしき)に移った伸之助は、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)塾などでの勉学ののち、東京大学文学部政治学科および理財学科に進み、卒業後さらに哲学科選科を卒(お)えた。1883年学習院の講師となり、院長谷干城(たにかんじょう)の信任を得、4年後には教授兼教頭を命ぜられた。
 一方、彼は大学在学中から生来の虚弱非力を克服し、自らの意志を鍛錬する手段として古流柔術に注目した。天神真楊流(てんしんしんようりゅう)さらに起倒流(きとうりゅう)を学び、柔術の教育的価値を痛感し、柔術の抜本的な合理化と体系化によって柔道を新たに生み出し、その普及を終生の事業とする決意を抱くに至った。1882年、下谷(したや)北稲荷(きたいなり)町の永昌(えいしょう)寺の一部を借りて講道館を創始、やがて門下に西郷四郎、横山作次郎らの俊秀が集まり、1884年9月の警視庁主催の武道大会に大活躍をみて、一躍その存在を知られることとなった。その後も1891年の大日本教育会常集会における「柔道の一斑(いっぱん)と其(その)教育上の価値」に代表される一連の講義・講演により講道館柔道の真価を世に問うとともに、柔道の技術的・理論的基礎を確立した。
 1892年1月、1年間の欧州教育事情視察を終えて帰国、同年4月学習院から文部省参事官に転じ、第五高等中学校校長等を経て、1894年東京高等師範学校校長を命ぜられた。以来24年にわたって、二度の中断はあったが、4年制の体育科の実現など同校の拡充発展に尽力し、師範教育の刷新に大きく貢献した。また私財を投じ、日清(にっしん)戦争後急増した清国留学生教育のために亦楽(えきらく)書院、さらに弘文(宏文)(こうぶん)学院の経営に尽瘁(じんすい)している。
 1909年(明治42)フランス大使ゼラールAuguste Grard(1852―1922)の要請を受け東洋最初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となり、1911年には大日本体育協会を組織しその初代会長に就任、翌1912年の第5回オリンピック・ストックホルム大会の日本選手団団長として日本初の出場を果たした。1920年(大正9)東京高師校長退任後は講道館文化会を創立し、柔道原理の国民生活への応用を説き、1933年(昭和8)には念願の大道場を東京・水道橋駅前に建設した。また機会あるごとに外遊し、柔道の海外普及を図ったが、1932年以降はオリンピックの日本招致に情熱を傾け、1936年のIOCベルリン総会で、4年後の第12回大会の東京開催の権利をとり、さらに老躯(ろうく)をおして1938年のIOCカイロ総会に出席、冬季大会の札幌招致に成功した。しかし、カイロからの帰途、太平洋上の氷川丸(ひかわまる)船中で肺炎を発病、5月4日、死去した。[渡邉一郎]
『「嘉納先生追悼号」(『柔道』第9巻第6号・1938・講道館) ▽嘉納先生伝記編纂会編『嘉納治五郎』(1964・講道館) ▽加藤仁平著『嘉納治五郎』(『新体育講座 第35巻』1964・逍遙書院) ▽松本芳三解説『嘉納治五郎著作集』全3巻(1983/新装版・1992・五月書房)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の嘉納治五郎の言及

【当身技】より

…現在は乱取(らんどり)(自由練習)や試合における勝敗が中心となり,投げ技と固め技だけが使われ,当身技は危険であるので禁じられているため,活用がおろそかになっている。しかし,精力善用国民体育(1927年嘉納治五郎が創案した当身技を基本とする体操)の形,極(きめ)の形,講道館護身術,女子柔道護身術などでは,当身技が練習の形として行われる。【竹内 善徳】。…

【寒稽古】より

…武道においては〈寒稽古〉と並んで〈暑中稽古〉もあるが,寒さ暑さに対して逃避するのでなく,かえって積極的に行うことによって寒暑二つに安住するという思想は,禅語の〈寒は寒殺,暑は熱殺〉に通じるものがある。このような〈寒修行〉を,教育的立場から近代武道に導入したのは嘉納治五郎で,1894年,講道館の教育計画の中に〈寒稽古〉としてとり入れたのがその最初である。【中林 信二】。…

【起倒流】より

…江戸時代,楊心流とともにもっとも隆盛し,全国に名をはせた。嘉納治五郎が起倒流を飯久保恒年に学び,その投げ技の卓抜さに感銘し,講道館柔道の投げ技の基礎とした。現在も起倒流の技を,講道館〈古式の形〉として残している。…

【講道館】より

…講道館柔道の研究教授とその普及振興をはかるための諸事業を行う教育機関およびその道場の名。嘉納治五郎が柔術を集大成して柔道を創始し,1882年5月東京の下谷北稲荷町の永昌寺に道場を開き,講道館と名付けた。単なる技術の練習だけでなく,あくまで道を重んじ,道を広めるという意味から〈道を講ずる館〉,すなわち講道館と命名したものである。…

【柔道】より

…古来の柔術に改良を加えて創始された武道。嘉納治五郎は体育,修心,勝負を目的とする教育的観点から講道館柔道を創始した。現在は世界的に普及するスポーツの一つとなっている。…

【清】より

…戦後,清朝は体制内改良の道を模索しはじめ,留学生の派遣,日本人教師の招聘,農学や蚕糸業の分野における日本からの技術導入,日本文の翻訳等を相次いで実行,日中文化交流は新たな展開を見せることになった。1896年,日中交流の長い歴史の中ではじめて,13名の中国人留学生が日本に到着して,当時高等師範学校校長であった嘉納治五郎にあずけられた。98年には,中国人の日本留学を奨励する張之洞の《勧学篇》が著された。…

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