第1回十字軍を宣言したローマ教皇(在位1088~1099)。本名ウード・ド・ラージュリーEudes de Lagery。フランスの貴族の出身。ランスの聖ブルーノBruno(1030?―1101。シャルトルーズ会創立者)の門弟で、オーセル教会の助祭長からクリュニー修道士となり、教皇グレゴリウス7世に招かれて教皇庁に入り、枢機卿(すうきけい)、教皇特使を務め、修道院改革に尽くした。即位後、ドイツ皇帝ハインリヒ4世が支持する対立教皇クレメンス3世Clemens Ⅲ(在位1080~1100)と争い、1093年トスカナ女伯の協力を得てローマ奪還を果たした。世俗王公の聖職叙任、聖職者の封建臣従誓約を禁じ、公会議と教皇特使の2制度を活用して西ヨーロッパ諸国に対する教皇権の指導力を発揮した。1095年、ビザンティン皇帝の要請を受け、東方正教会への援助と聖地回復を目ざす対イスラム十字軍を企図し、クレルモン公会議において、参加者への「贖宥(しょくゆう)」(罪の償いの免除)を約束し、遠征軍を送り出したが、1099年7月29日、成功の報を聞く前に没した。
[橋口倫介 2017年11月17日]
バロック時代のローマ教皇(在位1623~44)。本名マッフェオ・バルベリニ。フィレンツェ名門の出身。駐仏大使、枢機卿(すうきけい)を経て、即位後親族登用により勢力拡張を図り、教皇領は史上最大となった。三十年戦争(1618~48)では中立を守ったが、親仏的とみられていた。学芸の保護に努め、聖ピエトロ大聖堂を完成し、カステル・ガンドルフォなどを造営した。新大陸布教の教育機関としてウルバヌス学院を開いた。
[橋口倫介]
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…これは教皇座がアビニョンからローマに帰還した直後に起こった。ローマで選ばれたイタリア人ウルバヌス6世Urbanus VIに対しフランス人枢機卿たちがその選挙を無効としてフランス人クレメンス7世Clemens VIIを立て,再びアビニョンに教皇座を置いた。たびたびの軍事行動をも伴った双方の教皇たちのこの対立は各国の政治的利害が複雑に絡み合って深刻化し,これを解決しようとした1409年のピサ教会会議はアレクサンデル5世Alexander Vを新教皇に選んだ。…
※「ウルバヌス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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